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③もろもろの創価学会の諸問題現象は、偉大なる師匠と不二となる体験・体験が無いことにつき
ます。戸田先生の獄中体験について「誰でもできる事を示されたのだ」と話しても「戸田先生だ
から」「池田先生だから」と話を終わらせる、自分自身で無限の可能性を閉ざす「求道心の希薄
化現象」があります。誰、一人「自分も同じような体感・体験をしよう」という人は皆無でし
た。これが自己都合の弟子集団の現実なのです。わかります?
「師弟不二」と叫ぶのは、もういい、叫んできて、今まで何が変わり、何がもたらせましたか?
それなりの個人レベルでの結果でしかないのが現実なのです。体感・体験が無い限り、崩落へ、
転落へ、気づかぬうちにすすんでいくのです。(末法の流転原理)
「先生が現場にいない」という先生の行動は、「師弟不二の覚醒者」「『覚醒』集団」を呼び起
こしているのです。今回の皆さん方が問題視している事象も、「師弟不二の覚醒者」の出現を呼
び起こしている働き作用なのです。「感じない」のは、あなたの「信心」なのです。自分自身の
「責任」なのです。(別に問われませんから)
「根回し」の方法、「意識変革」のアプローチ技法等は、すべて先生の著作に既に展開されてい
ます。哲学的な展開方法でいうならば、アリストテレス・プラトンの「弁証法的」展開を「生命
論的」な視点から「弁証法」の原理を示しながら「蘇生」の方途を顕されているのです。
いわゆる執行部・上層部には「生命論的弁証法」が「わかっていない」有るのは「唯物論的弁証
法」なのです。心をモノ化する働き作用をいいます。自己都合優先の意識は、過去の人間の思考
形態と同様な形態がもたらされることを意味しています。これを末法の流転現象といいます。こ
のような「流転現象」の次元シフトをもたらす技法が、師弟不二の体感・体験なのです。
現代社会では、個人という人間ではなく、消費者であり、患者であり、利用者であり、お客様な
のです。被害者・加害者・被災者等と人間を置き換え、変換する機能があるのです。例えば「お
もてなし」についても自己都合が、そこ、ここにあるのです。
学会的にいうなら個人ではなく、「学会員」であり、男子部員・女子部員・壮年部員・婦人部員]
なのです。聖教新聞の読者は「部数」なのです。人間不在という自己都合の組織マーネジメント
等が機能しているのです。
日蓮大聖人の仏法は、そうした様々な現象を反転・転換させる原理、働き作用を顕されたので
す。体感・体験とは「一念三千」の体現であり、自得をいいます。体感・体験とは、組織で、も
たらされるものではない、人により、もたらされるのではない、まして池田先生、会長・副会長
等、幹部により、もたらされるものではない、どこまでも自分自身の意識であり、自分の「魂」
がもたらす現象なのです。(期待する思考が硬直化していると理解できませんが)
師弟不二の体感・体験をしないかぎり、創価学会の諸問題、人間をとりまく様々な課題の解決は
ないのです。末法という「流転の働き作用に」飲み込まれていくだけなのです。意識の蘇生・魂
の蘇生が、末法という次元をシフトさせるから「広宣流布」というのです。「蘇生なき」広がり
は末法の次元をシフトさせる働き作用とはなりません。どこまでも一人の人間の「蘇生」なので
す。
それが「人間革命ではないか」という人もいますが、仏法の生命論からみると「蘇生」なので
す。大聖人の展開された原理は、本来は、私たちが使用している「革命ではなく」、心・魂の蘇
生なのです。現代の言葉を踏襲し、一般的にわかりやすい「革命」という用語を使用しただけな
のです。自身を改革する、変革するといっても、意識の「蘇生」がなければ見かけの変化なので
す。外的条件、変化により元にもどるのです。(御都合主義の流転人生)
戸田先生の「獄中体験」は、自身の「意識の蘇生」です。その体感・体験を伝えるのが難しかっ
たから「革命」という用語を使用したのです。(体感・体験すればわかることですが)
体感・体験せずに一生を終えるのも一生、
歓喜・大歓喜を体感・体験し、この世を終えていくのも一生、
どちらを選択するかは自分自身の意識であり、あなたの「魂」です。
☆私の文章は、読み手の「魂」に呼びかけるものとなっています。感じる人は「魂」が反応して
くれています。例えば、あなたの胸がぽかぽかしてきます。 ありがとうございます。
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