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編集中に投稿してしまいました。スイマセン 手直ししました。
「今」必要な事
牧口先生は「教育は技術までの域にならなければ」と述べられています。「師弟不二」という尊
極の原理も「技術・技法」として「師弟不二」の体感・体験できることを提示していかなけれ
ば、いつまでたっても、それぞれの「師弟不二」であり、魔の蠢動が競い起きてきます。いや、
まさに「今」それぞれの意識の中で起きているのです。残念ながら「気づけない」のです。錯覚
としての、幻想としての「不二」の姿です。どうしてか「不二の体感・体験」が自己都合だから
です。「魔」の働き作用は「師弟不二」の体感・体験者を呼び起こすためにあるのですから。御
書にいわく「願わくば我が弟子等は、師子王の子となりて、群狐に笑わるる事なかれ、過去遠遠
劫より己方日蓮がごとく身命ををすてて強敵の科を顕せ・師子は値がたるべし」(1589ページ)
と、師子王の子がいるから今、強敵の科を顕しているのかもしれませんが、つまり「師弟不二」
であることが「師子王の子」である証しなのです。
しかし、このままだと残念ながら、師匠亡き後は「分裂」は必須の状態にあります。戸田先生の
末期の様相と酷似した状況です。当時は、戸田先生が「三代会長についていけば広宣流布はでき
る」とのことを懸命に守る古参幹部や側近がいたから今日の創価学会があるのです。また「池田
先生しかいない」と言わしめた人格・結果は「不二」ゆえの現象だったのです。今の執行部に
は、すべてを背負って立つ覚悟、責任の気概は感じられません。人材がいない、育っていないの
かもしれません。なぜならば、不二であることに恐れを抱き内に秘めているからです。
集団的合意による運営・決定にしても「師弟不二」の体感・体験が希薄な方々ではマネージメン
トによる組織運営になります。歓喜なき自称「仏意仏勅」の「団体」になりかねません。(既に
兆しはみられている)当然、会員にも功徳もなければ宿命転換もありません。宗教的企業として
の立て直しを何回も余儀なくせざるをえなくなります。
では具体的にどうなっていくのか、徳川幕府の政治体制である大老中・老中・側用人等の統治形
態に類似した形なっていきます。古代ギリシャ国家の政治形態も同様です。リーダー無き合意制
度は古今東西の世界で見られる愚考システムです。人間集団・人間の群行動としてみると世界共
通の自然発生的形態として観察することができます。
身近な宗教的な実例ですとイスラム教のスンニン派(集団的合意統治)シーア派の形態、(血筋
による統治)があります。
「捻じれ」現象は「捻じ切れる」前兆でもあります。「捻じ切れる」から明らかになるのかもし
れません。
【ちなみに「稔(みのる)」と「捻じれ」の漢字は「てへん」「のぎへん」の違い、象徴化され
た現象なのでしょうか、まあ、どうでもいいことですが・・・】
「師弟不二」を舐めている、「師弟不二」を不浄のものにしている、「師弟不二」を利用してい
る。そこには純粋な、純度の高い人材は出現しません。過去の日蓮系の教団と同様な現証となり
ます。
如蓮華在水の原理から、あえて池田先生は、そうしているのかもしれません、令法久住・末法万
年から見ると、そういう段階を経て純度が高まり「分裂と統合」が絶えず繰り返されていくのか
もしれません。(自然界の法則でもあります)
「ああだ、こうだ、」と、いろいろと疑心暗鬼する反応は、あっち、こっち、そこ、ここ、で見
られる現象です。疑心暗鬼を払しょくするのは、他ならぬ自身の「師弟不二」の体感・体験なの
です。
大丈夫です。御心配無用です。全ては「仏の御計らい」です。
「今」それぞれが歓喜・大歓喜の日々を送っていくことが、友を救い、同志に勇気と希望と幸福
をもたらすことになり、創価学会の清浄が保たれていくのです。それが私の創価学会であり、私
が創価学会なのです。
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