歴史的な議論の始まりである。新たな安全保障関連法案が、きのうの衆院本会議で審議入りした。

 この審議が持つ意味は極めて重い。ただ慎重に議論を尽くせばいいというものではない。

 一連の法案がこのまま成立すれば、安倍政権が昨年から試みてきた安全保障政策の大転換が、首相が米国議会で約束した通りひとまず「成就」する。

 安倍氏が2006年に初めて首相に就いて以来唱えてきた「戦後レジームからの脱却」の骨格ができ上がる。

■歴史の審判が待つ

 しかし、法案提出までの経緯は、憲法が定める正当な手続きをへたものとは言い難い。

 集団的自衛権の行使を認めた昨年7月の閣議決定は、憲法96条が定める改正手続きを回避した解釈改憲である。先月末の「日米防衛協力のための指針」の改定は、日米安全保障条約の枠組みを越える内容だ。

 法案の成立は、なし崩しの実質的な憲法改正を立法府が追認することを意味する。

 その結果、国民投票によって有権者の意思が問われないまま憲法9条が変質し、自衛隊の海外での活動範囲が飛躍的に拡大する。自衛隊が海外で武力を行使し、犠牲者が出る可能性が生まれる。

 安倍首相を支える自民、公明両党が衆参両院で多数を占める国会だ。数の力で押し切るおそれもある。そんなことでは歴史の審判には堪えられまい。

 与野党の議員一人ひとりが、すべての国民の代表としての役割を肝に銘じるべきだ。法の手続きを無視して立憲主義を壊す片棒を担いではならない。

■乱暴な首相の理屈

 一連の首相の答弁は、乱暴な決めつけと、異論への敵意に満ちている。

 首相はきのうも「米国の戦争に巻き込まれることは絶対にない。そうした批判が全くの的外れであったことは歴史が証明している」と断言。さらに「戦争法案という批判は全く根拠のない、無責任かつ典型的なレッテル貼りであり、恥ずかしいと思う」とまで言い切った。

 これこそ、根拠のない無責任な決めつけではないか。

 フランスやドイツの反対を押し切って米国が進めたイラク戦争を思い起こしてみよう。

 日本政府は米国の求めに応じ、「非戦闘地域」とされたイラク南部のサマワで自衛隊が公共施設の復旧・整備や給水などの復興支援を実施した。

 自衛隊員による規律ある献身的な活動は、住民に歓迎された一方、2年半の派遣期間中、宿営地には砲撃が相次いだ。陸自の車両が、道路脇に仕掛けられた爆弾の被害にもあった。

 それでも隊員に犠牲者が出ず、一発の銃弾も撃たずに任務を終えられたのはなぜか。

 自衛隊の活動は敵対的なものではなく、武装部門による攻撃はしないという合意があったからだと、現地の反米強硬派の幹部が後に朝日新聞の取材に明かしている。

 集団的自衛権は行使せず、海外での武力行使はしないという9条に基づく自衛隊の抑制的な活動への評価に、幸運が重なった結果だと言える。

 安倍首相はおとといの自民党役員会で「自衛隊員のリスクが高まるといった木を見て森を見ない議論が多い」と語ったという。谷垣幹事長が明らかにしたが、事実なら驚くべき発言だ。

 自衛隊は日本国民を守る実力組織だ。武器を扱うのだから、任務には危険が伴う。

 この法案で政府が想定するように、戦闘現場の近くで他国軍の後方支援にあたれば、これまで以上のリスクが生まれる。その是非を国会で論じることは当然だ。

 首相は「安全が確保できないような場所で後方支援を行うことはなく、万が一、自衛隊が活動している場所や近くで戦闘行為が発生した場合は、活動を中断する」と説明する。

 だが、不意を突く砲撃や仕掛けられた爆弾などによる被害を百%防ぐことなど不可能ではないか。前線の他国軍を置いて自衛隊だけが「危ないので帰ります」などと本当に言えるのだろうか。

■議論の倒錯を正せ

 首相は今回の法制を進める理由について、「わが国を取り巻く安全保障環境がいっそう厳しくなり、国民にとってリスクが高まっているからだ。切れ目のない法制で抑止力が高まれば、日本が攻撃を受けるリスクは下がる」と強調した。

 それが首相の言う「森を見る」ことならば、9条を改正して必要な法整備を進めたいと説くのが法治国家の首相のとるべき道だったのではないか。その順序は完全に逆転している。

 そのために安全保障環境の変化にどう対応すべきかという議論がかえって妨げられているのは本末転倒である。

 この倒錯を正せるのは国会での言論であり、世論である。