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※人間的な魅力をつけることが、そのまま折伏行なんです
すくなくとも、沖浦さんは「信用」というものがどういうものかを、指導に学ぶべきではないでしょうか。
ながくなりますが引用提示させていただきますね。
◎初めに、壮年部の皆さんは純粋な信仰を貫ききっていただいきたい、と申し上げたい。
純粋とはいっても、それは“きれいごと”を言うのではない。
民衆の幸福のために、労を惜しまず、汗にまみれながら、勇気をもって行動してゆく。
その中に、純粋な信仰があろう。
地位、財産、名誉などすべてをはぎとって、なおかつ残る人間としての取り柄に清らかな
信仰の輝きがあるということである。
つまり、その人の根底にあるものがどす黒い濁りの生命であるか、その濁流を押し流して
いく、最も強い、源から発する清い生命の流れがたたえられているか―――
私が問題にしているのは、この本質である。
(略)
大聖人の時代にも、いざ難があったときに、不純の人は沼に落ち込み、自然のうちに淘汰
されていった、
その一方で純粋な人が浮き彫りになっている。
今日において、純粋な信仰の人とは、たとえどんなことがあっても、大聖人の御金言を胸に
、御本尊を守り、正法を守り、和合僧を守りぬいていく人のことであると確信したい。
不純な人は縁に左右されやすく、難を前にすぐ紛動されてしまう。
【純粋な信仰の輝きを : 縁に左右されない信心の確立】
(昭和47年8月16日:夏期講習会・壮年部前期全国指導会)
私もこの指導のように、社会的な地位や名誉を求め、他人の目を気にする虚飾の人生は
歩みたくありませんね。
結局「縁」に左右される人生ですから。
なまじ、人から注目されたものだから人気が陰ると不安で仕方が無い。
大阪の橋下市長さんとおなじ動機ですね。
所詮、創価学会員を名乗ったところで、我見の信心で正法は護れず、
意見されると気に入らない、邪義をみて他人事のように振る舞うだけならまだしも
「屑」と罵り、自画自賛。
どす黒いものしか残っていないのではありませんか?
とにかく、破邪の掲示版を「屑」と罵る沖浦さんの居場所はありませんので、自発的に退出願いませんか?
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