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あまり好きなやりかたではありませんが、大月天管理人の主張を分解して考察してみましょう。
※仏法義に於いて、原本の有無などは二の次であって、要は、そこに示される文義が
何(いか)に正義であるのか、という判釈こそが重要・・
つまり真書がみあたらない偽書かどうかは二の次で、内容が正義(末法における仏法義)
に合致しているかという判断解釈が重要ということですね。
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※又、其れだからこそ、写本を含めて成る相伝の意義こそが重要となるのである。
写本=相伝の証拠であるという意義こそが上記と矛盾していますね。
この理屈でいけば、日蓮正宗時代に御書を刊行した創価学会に相伝があることになります(笑)
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※本より、信心に資するとは、その内容が正義であるから信心に資するのであって・・(略)
原本の有無が内容の正邪に直結しない事などは、余程の馬鹿でないかぎり、容易に判断出来
るであろう。
写本の有無が正邪に直結しないという事もバカでない限り判断できようというものでしょう。
数多くある写本の怪しい内容までが正義であると思い込むのを指して、宿坊殿が
「イワシの頭も信心から」と揶揄されているのが理解できないのかもしれません。
日顕宗門徒が正義と信じて取り入れてるから正義なんだという理屈ですから。
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※よいか、結論を言えば、創価学会員に於いて、信心に資すると言いながら、その採用する
御書の真蹟に固執する者は、須らく詭弁者であり・・・
偽書だと指摘されて反論できないから、相手に対して「詭弁者」などとラベリングをする
事自体が、物事の判断を見誤り、思考停止に陥る因となっていますね。
「偽書」というのは、不確定(不確実)な部分が含まれているという意味です。
特に写本の場合は誤記や写本の当事者が意図あって変えている場合があります。
同じ御書であっても、内容の違う写本が存在することからも明らかです。
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本来ならば、この御抄のこの部分は史実や真書に照らしてつじつまが合わないので
どう解釈するかが大事になってきます。
同じ文証(教え)でも前提条件が変われば、解釈や意義そのものが変わるのは
釈迦仏法でも同じです。
釈迦仏法は「成仏」の境涯を目指しているといえますよね。
対告衆を順次教化していく中で釈迦は数多くの経を説きます。
しかし、後にその時々の法師が、根本に「○○経」を据えたうえで、脈絡を考えずに
他経の教えを取捨選択し、再構築して宗派を作っています。
ならば、正邪を決するには釈迦の経文を引かなくてはなりません。
日蓮大聖人がどこまでも「文証(経文)」にこだわったのは、正邪を決するためです。
ならば、同じように「日蓮」を用いている宗派で正邪を決するのならば
不確定要素がありえる写本を重要視するよりも、真蹟がある御書をもとにして写本の
内容も考えなければなりません。
大月天管理人の誤謬は、御書そのものに真蹟と写本があると考える事自体が
信仰者として失格であるかのようにミスリードしている事ですね。
内容で勝負できない人間がよくやる方法です。
御書を根本にしなければならない。(大前提)
↓
しかし御書には真蹟のものと写本(偽書)がある。(小前提)
↓
たてわけて考えるのはバカである(結論)
字数を割き、時間をかけて「再詰問」なんていきり立っていますが、
所詮「日蓮大聖人こそが末法の御本仏である」と示された文証が示せない事実は
ひっくり返せません。
弟子として、各々が日蓮大聖人のお心を「仏」と拝する事を揶揄しているのではなく、
日顕宗門徒の絶対的「末法の御本仏」のとらえ方こそが、時々に一人づつにしか内証が
相伝されないという法主本仏論の根幹になっているという大邪法を破折していると
いう事実から目をそらせようと躍起になっている大月天管理人。
所属の坊主との兼ね合いで、他寺院の法華講員に信心指導ができないと
いった制約のある日顕宗という枠の中でしか物事を考えられないように馴らされている
結果が、「理解できないものはバカ」という高圧的な文言となってにじみでている
といえるのではないでしょうか。
日顕宗に何年いても、自由闊達な意見の交換による教学研鑽ができず、結果
イワシの頭・・式の思考停止状態のままでは、成長もその先の成仏も叶わないでしょう。
いますぐに、日顕宗から足をあらうべきですね。
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