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2015.05.26

[書評] 蓮池流韓国語入門(蓮池薫)

 前回のエントリーで、主に英語からの外来語について、ハングルとして「韓国語音韻の体系なかに取り込まれたか、その規則が気になるが、ざっと見たかぎり、よくわからない」と書いた。そう書いたものの、そんなものあるわけもないだろうと思う人も多いのではないかとも思っていた。だが、そうした「規則が気になる」という言語への感受性のあり方に私は一番関心を持っていた。そして、蓮池薫さんの『蓮池流韓国語入門』(参照)を実は念頭においていた。

cover
蓮池流韓国語入門
 同書は表題通り、蓮池薫さんによる『蓮池流韓国語入門』の書であるが、これは韓国語の入門書を超えて、言語に関心を持つ人や学者にとって、おそらく普遍的に興味深い書籍だろう。これは言語学習を発見していく物語になっているからだ。もっとも学問的に言えば、まったくのゼロのレベルから異国語を発見していくというものでもないし、日本語と韓国語は文法的に類縁の言語であるわけでもない。それでもなお、驚くべき本ではある。
 蓮池薫さんは、1978年7月31日、中央大学法学部3年在学中の夏休みに実家に帰省中、当時交際していた女性とともに北朝鮮に拉致された。彼は私と同い年だが現役の進学だった。優秀な学生だった。

 学習環境は決してよいとは言えなかった。
 まず、自分を拉致していった国の言葉など最初はとても勉強する気になれなかった。だが、招待所に閉じ込められるなか、時間をもてあますようになった。これから自分の運命がどうなるのかという不安と恐怖も付きまとっていた。一体、北朝鮮という国はどんな国であり、何を考えているのか? 今、自分はどういう立場に置かれており、これから自分の運命はどうなっていくのか。それを知るためにも、韓国語を学ぶ必要があると思い始めた。こうして韓国語の勉強が始まったのだ。
 最初に与えられた教材は会話ブック1冊だけだった。日本で作られたB6判程度の大きさのもので、1ページに同じ意味の4ケ国語の文章がずっと並んでいる。(中略)当然、本格的な韓国語学習はおぼつかない。

 これでは学習にならないということで、学習書を求めると、日韓両版の『金日成著作選集』を渡されたという。その後、辞書は与えられたがまともな教材はない状態で、北朝鮮のメディアのなかで学習を進めた。結果は驚くべきことだった。

 決して恵まれたとは言えない状況のなか、学習に励んだ。結果的に1年もしないうちに、大体のことは読み、書き、聞き、言うことができるようになっていた。昔学んだ英語とはあまりにかけ離れた「進歩ぶり」に私自身も驚いていた。

 本書はその要点を中心に、簡素に書かれている。
 これを読んで私も一年で韓国語が習得できるかといえば、無理だろうと思う。それでも、私も韓国語にぶつかってみて疑問に思ったこと考えたことは、蓮池さんが本書に書かれていたことをきれいになぞっていた。これは驚愕したと言っていい。冒頭触れた、韓国語への流入外来語の音声規則なども蓮池さんは本書できちんと考察している。
 ここで思わざるをえない。語学学習というのは何なのだろうか? これはしばしば、学習法として与える側として考えられる。単純なインストラクションの枠組みとして考えらるからだろう。そしてその枠組みからすれば、おそらくピンズラーの手法はもっとも合理的な体系に近いだろうは思われる。忘却曲線なども考慮されているからだ。
 しかし、語学学習というのは、原理的に、母語の習得能力の余剰を使って行われるのではないか。もちろん、その視点から考慮された語学学習法も存在する。いわく、母語のように学べと。しかし、これも原理的に言えば、母語は基本的に一つに固定すると他には動きにくい。このあたりは人間の種特性と言ってもよいだろう。
 それでも母語を持つものが異国語に触れたとき、ある違和感が一つの構造をなしてくる、その疑問の構造を満たすように語学教育は構成できるのではないだろうか、そういう視点が浮かびあがる。おそらく、ミシェル・トーマスはそこに着目している。彼の言語教育は、対象の生徒の母語と教える言語の接点から始まる。現状、日本語には、ミシェル・トーマス・メソッドの英語教育法は存在しないが、私はなんとなく予想できる。
 話を戻すと、蓮池さんは、韓国語に触れたとき、日本語の差違の疑問を構造的に満たす形で言語を習得したのだろう。
 そうした差違と学習の主要点となっているのが、音声であることも興味深い。本書はかなり明確に、発音の問題を取り上げている。

 あまり最初から、微妙な発音のことをうるさく言われたら、覚えられない。とりあえず「ウリ」でもいいのではないかと主張する人もいるかもしれない。もちろん最初から100%完璧に出来るはずがない。でも、最初だからこそ、発音の差をしっかり頭に入れておくべきである。いったん、日本語的発音が癖になってからでは、なかなか直せない。

 蓮池さんはそう説明するが、彼が短期に韓国語を習得できたのは、疑念からの学習法もだが、発音の結果的な重視があったからだろうと思う。
 ここで、しかし、私は奇妙なことを思った。以下は本書を読みながら、韓国語を学びながら私がぼんやりと考えたことである。
 それは疑念から始まる。韓国人・朝鮮人は、韓国語(朝鮮語)をきちんと発音できているのだろうか?
 言語学的に言えば、当然、きちんと発音している、というか、発音されている実態が「きちん」と同義で、発音の規範性はむしろ意味をなさない。だが、私が言いたいのは、そうではなく、ハングルという正書法が、発音の規範性を志向せざるを得ない点である。
 現状、「ㅐ」と「ㅔ」の母音音素対立は消えているように思える。これはむしろ、日本語の「え」に近い音に吸収されていくように見える。「ㅚ」「ㅟ」も音素対立としては存在していないだろう。おそらく現状の韓国語の母音は日本語の「アイウエオ」に近い「ㅏㅣㅡㅐㅗ」があり、これに「ㅓ」と「ㅜ」が付いているのだろう。蓮池さんの議論も実はそのことを結果的に述べているように受け取れる。
 私そこから疑問を発展して思っているのは、韓国語・朝鮮語は、日本語のような開母音構造の言語と膠着語の文法の言語が原形にあって、そこに中国語の語彙が入り、各種正書法で中国語の語彙の発音が定着され、固定化したが、もとの日本語のような言語に戻る傾向を持っているのではないか、ということだ。別の言い方をすれば、中国語を取り入れようとしてできた正書法が元の言語の特性を歪めた部分がある種の均衡になろうとしているように思えることだ。
 私は長く、岡田英弘説のように、日本語は、当時の朝鮮語(岡田は中国語の一種としている)の膠着語文法に、ポリネシア系の語を押し込んで作成した人工言語だと考えてきた。だがむしろ、日本語の原形のようなものがあり、百済か新羅の言葉は中国語とのピジン化でできたのではないだろうかと考えつつある。
 韓国語の起源は日本語だと言いたいわけではない。ただ、同型の言語の、中国語からの影響の差違が、日本語と韓国語を分けたのではないかと考えつつある。
 
 

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