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フェイク 第1458号

 投稿者:宿坊  投稿日:2014年 6月20日(金)23時33分38秒
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  (発行=14.06.19)

「創価学会の外護の赤誠に感銘」
日蓮正宗の能化の筆頭・吉田日勇が死去
「私の命の恩人は猊下ではなく池田先生」

 日蓮正宗の能化の筆頭である僧正・吉田日勇(常健院)が十六日午前十時二
分、富士宮市内のフジヤマ病院で死亡した。享年九十二歳。本通夜は十七日午
後六時から、葬儀は十八日午前十時から妙蓮寺で早瀬日如の導師により行われ
た。

 日勇は大正十一年一月一日生まれ、昭和十一年八月に早瀬道應(日慈、日如
の父親)を師僧として得度。能化になる前の名は「義誠」で、昭和二十二年に
権訓導になって以来、内事部理事補、了性坊の代務者、蓮成坊・百貫坊・東之
坊・有明寺、妙蓮寺の各住職を歴任。昭和五十六年に権僧正、平成十二年には
僧正に上った。

 特に昭和三十五年四月に渉外部長になり、同五十六年迄の約二十年間、宗務
院で渉外の責任者をしていた。

 当時、渉外部の最大の任務は大石寺の境内地を拡大、整備することであった。

 宗門発行の「蓮華」(昭和四十六年八月号)で「総本山の変遷」を特集、そ
こに吉田義誠の名前で「総本山所有地の変遷」と題して書いていた。大石寺の
困窮ぶりと創価学会の献身的な外護が端的に記されているので、抜粋して紹介
する。

 冒頭に日達法主の「芋食って 我も今宵の 花見かな」との句を紹介したあ
と「総本山は第一次・第二次農地開放によって、所有していた土地の殆んど全
部を開放し、食べる米とてなく、来る日も来る日も芋を食べ、或るいは南瓜を
食べて飢えをしのぐありさまでした」と貧困の様子を告白していた。今の日顕
や日如のように数千万円の超高級車を乗り回し、遊興に耽けるなど贅沢三昧が
出来なかったことを明かしている。そして次のように記していた。

 「私どもが所化の頃、本山の御用で、しばしば狩宿の井出家に使いに行きま
して、その時、千居を通って狩宿に出る道を通りましたが、その間は殆んど本
山所有の山林でした。

 この山林も未墾地買収によって開放されてしまいました(中略)御当代日達上
人の代に至るや、急速に総本山は発展を遂げ、現在では総計一一三五五五一坪
にものぼる。戦前の所有地の実に四倍という、広大な土地を所有するに至った
のであります。これ偏えに、御法主上人猊下の御威徳のたまものと、総講頭池
田先生の外護の赤誠によるものであると、深く感銘するものであります」

 このように昭和三十五年からの僅か十年間で百万坪以上の土地を大石寺に供
養した創価学会の絶大な功績を熟知していた。

 また昭和五十一年十一月、東京での学会・宗門の連絡会議の席で日勇が倒れ
た。同席の僧らが呆然とするなか、池田会長(当時)が真剣に看病。その時の
様子を日勇が次のように述懐したのを知る人は多い。「俺はその時、本当は死
んでいたんだ。池田先生が助けてくれたから今の俺があるんだ。俺の命を救っ
てくれたのは猊下でもなければ大聖人でもない。池田先生だよ」

 学会の功績を知り尽くし、名誉会長を命の恩人と感じて病床でも学会との和
合の頃を懐かしんでいたという。
 
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