国中が光復(日本による植民地支配からの解放)の感激で沸いていた1945年8月15日の日中、ソウル市内の孝子洞でこれを祝う行進をしていた群衆が、通りかかった女性をつかまえ、はいていたズボンを脱がせた。そのズボンは「もんぺ」、つまり日本の労働用ズボンだったからだ。地方でも多くの女性たちが「もんぺ」をはいて外出中にこれを引き裂かれた。日本食の食堂の看板も壊されるほど反日感情が強かった当時、「もんぺ」も容認されるはずがなかった。これはもともと、北海道や東北地方の女性たちが畑仕事をする時にはいていた作業服だった。ところが、日本がいわゆる「戦時体制」を宣言した1940年代には国民服のようにはくことを強要された。下着のようで女性たちはあまりはきたがらなかったが、44年には「もんぺ」をはかない女性に対してバス・電車の乗車や役所の出入りが制限された(72年4月5日付朝鮮日報)。
光復後はしばらくの間、姿を消していたが、50年代になると街で再び見かけるようになった。貧しかった時代、着る服を選ぶ余裕はなかった。男性の多くが兵士の服を着たように、女性の普段着は「もんぺ」に黒いゴム靴だった。さらに官庁でも着用を強く推進した。ソウル鍾路警察署は50年、「ぜいたく者は立ち入り禁止」「女子にはもんぺ着用を特に要望する」とした(50年11月14日付東亜日報)。日本が韓国の王宮を辱めるために作ったソウル・昌慶苑動物園が光復後も数十年間そのままだったように、朝鮮総督府の「もんぺ」推奨策も韓国の警察がまねたようだ。市民の反発が大きかったのか、51年に内務部(省に相当)長官が警察の「もんぺ強要」を「非常識な警察官たちによる婦女子人権侵害だ」と批判、「(日本の服を)民族的にも奨励する理由はない」とクギを刺した。それでも「もんぺ」はなくならず、庶民の間で「最も楽な服」としてはかれてきた。99年に財閥グループ会長夫人が犯罪の容疑をかけられていた夫を救うため、高官夫人の服代を支払ったといううわさに端を発する「服ロビー疑惑事件」時、ある市民団体代表が「もんぺ」18着を首相に送った。「外国製の服を買うのに夢中な長官夫人にあげなさい」という意味だった(99年6月1日付朝鮮日報)。
こうした歴史や事情を知ってか知らずか、数年前「もんぺファッション」が若い女性たちの間でブームになった。高齢女性のものだとばかり思っていた、ダブダブの柄物パンツがレトロ・ファッションとして復活したのだ。幅が広い「バギーパンツ」の流行とも相通じるものがあった。ある専門家は「母親たちの『もんぺ』姿を見たことがない世代はこの服のもともとの用途を知らないため、はきやすくて目新しいファッションとして受け入れられたのだろう」と分析している。