- 政府はわかりやすく予測しやすいルールを示す
- 民間はリスクと責任を一致させる
松尾匡著「ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼」を読んだ。本書の主張を一言で言えば、経済学の原則を守れということ。
- 作者: 松尾匡
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- 発売日: 2014/11/15
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ソ連の教訓
もはや自由主義の勝利とは誰も言わないだろうが、ソ連、共産主義陣営があのような悲惨な結末に終わったのはなぜなのだろうか?「競争がないから駄目になる」「共産主義だとみんな怠けて努力しない」みたいな話は大間違い。
ソ連では、資本主義国と変わらないほど盛んに競争が行われていた。苛烈な受験戦争、出世競争があった。地位が上がれば長時間行列に並ばなくてもよくなるし、不正で良い思いができる。出世へのインセンティブは十分だった。
ソ連崩壊の原因は、経営者が責任をとらないシステムにある。本来、過剰な設備投資や生産資材の溜め込みなど、ミスがあれば、市場の原理に従って会社の業績が悪くなり、判断を下した者の責任が明確になるのだが、ソ連にはそれを判別して歯止めをかけるシステムがなかった。そのため経済がめちゃくちゃになり、やがて崩壊する。
「リスクが一番あって、そのリスクにかかわる情報を一番持っている人が決定し、その責任を引き受ける」という原則からあまりにもかけ離れてしまったのが、ソ連崩壊の大きな原因だ。
これは、資本主義とか共産主義ということではない。アメリカも、サブプライム取引の損失で経営危機に陥ったAIGに巨額の公的資金を投入した。自分にリスクのないところで金を回せる仕組みの上にいた金融機関のディーラーも、しかるべき責任を負わない立場にいたという点ではソ連の無能な経営者と同様だった。
現実の制度には色々あるのだが、「リスクの決定とその責任は重ならねければならない」という原則から遠ざかるようなことをしてはいけないというのが歴史の教訓と言える。しかし往々にして、人々はその愚行をやりたがる。政府が積極的にリスクを取ろうとするのはその典型だ。
政治家は、どれだけ口で「責任を取ります!」と言ったとしても、せいぜい辞めるくらいで、自分が行った政策の責任をとりようがない。そもそも、マーケットの上にある会社のように、その成果がわかりやすい形で現れてはくれない。責任のとりようのない政府が、リスキーなことに手を出してはいけないのだ。
それでは、政府が行うべきことは何なのか?
ハイエクの目指した社会
ハイエクは悪しき新自由主義の槍玉にあげられがちな経済学者だが、彼は最低所得の保証や労働基準を守らせる規制を主張していたし、現在のブラック企業が蔓延るような自由主義を主張していたわけではない。それだけの人間が経済学者として多く言及されるわけがない。
ハイエクが国家のやるべきこととして主張したのが、「ルールの明確化」だ。民間は国の定めたルール(法律)、政策を受けて行動せざるをえないのだから、それは理解しやすく、その政策が施行された後どうなるか予測しやすいものにしろ、ということ。
政府が予測できないようなことをすれば、皆が巻き込まれて経済が混乱するから、「計画に影響を及ぼす国家の活動が、予測できなくてはならない」とハイエクは主張する。これは必ずしも新自由主義とか小さな政府ということではない。
その責任を引き受けようのない政府が、何らかの特定の目的に従ってリスクのある選択をしてはならない。国はリスクのあるもの、結果が予測できないようなものには手を出さず、明確なルールを国民に提示することに尽力しろ、と言っている。
「カジノ」や「大阪都」や「構造改革」といった、責任を負うことのない権力者が特定の目的を持ってリスクを厭わずに断行するような姿勢は、ハイエクの最も嫌うものだ。
ゲーム理論
先日、ジョン・ナッシュ氏夫妻が交通事故で亡くなられた。ナッシュ氏の発明したゲーム理論は数学の分野の功績なのだが、経済学を中心として広い分野に応用される。ナッシュ氏はノーベル経済学賞も受賞している。
ゲーム理論の説明は割愛するが、その教訓は、「人々の振る舞いについての予想が、個々人ではコントロールできないものへとひとり立ちしてしまい、各自はそれに縛られて行動する」ということ。つまり「制度」というものは、人々の行動のついての各自の予想と、その予想に基づく各自の最適行動がお互いつじつまが合って再生産され、形作られる。
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ゲーム理論のモデルでは、まったく同じ性格、技術、環境を持った人々でも、各々が抱く「予測」の種類によってまったく異なった均衡が現れる。だからこそ、経済や政策の分野でゲーム理論が重視される。政策の目的は、人々の「予測」を確定させてより不合理の少ないナッシュ均衡に導くことであり、人々の「予測」を不安定にするようなリスクのある行動を政府がしてはいけない。
ベーシックインカム
ベーシックインカムとは、右にも左にもリベラルにも賛成者と反対者がいる変わった制度だ。2010年の参議院選挙の立候補者を見ると、議席のある全政党で賛成者と反対者がそれぞれいたそうだ。
なぜこのようにベーシックインカム(以下BI)の議論が別れるかというと、それぞれの頭の中にそれぞれのBIがあるから。それも当然で、給付水準と税率のシステム、他の福祉制度との兼ね合いでどのような制度か決まる。他の福祉制度を廃止した上で少額の支給金を配れば自由主義的な政策になるし、現行の福祉制度を維持したまま新しく配れば社会主義的な政策になる。そりゃそうだ。右左問わず、賛成派は自分の理想のBIを思い描き、反対派は自分の最悪のBIを思い描きがちだけど、気をつけようね。
どのようなBIにするべきかは置いておいて、これまでの論点を踏まえてBIを考えると、BIは、誰にどれだけ配分するのか行政担当者が何も決めなくていい制度ということになる。すなわち「ルールの明確化」だ。
政府が福祉に積極的になるべきではないと主張しているわけはもちろんなく、福祉に関する判断を権力者に委ねるべきではない。
福祉は人間の命に密接な領域だ。個人個人が本当に福祉を受ける必要があるかどうか行政が条件を審査して個人の必要に応じた福祉を提供する仕組み、つまり、人の生殺与奪をその責任のない者が握るという仕組みは、あらゆる腐敗の誘引がぶら下がっている。行政は人の命に関する「判断」から手を引く、というのが原則だ。
これは担当者の倫理とかモラルとか見識の問題ではなく、あくまで制度の問題だ。福祉にまつわる悲惨な出来事が後を立たない一方、ヤクザなどに入れ知恵された人達が困ってもいないのに生活保護を享受していたりする現実がある。
- 作者: 寺久保光良
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だからと言って、市場に福祉を委ねるのもマーケットが人の命を握ることになってしまうので規制は必要だ。
福祉に関しても、「リスクが一番あって、そのリスクにかかわる情報を一番持っている人が決定し、その責任を引き受ける」という原則になるべく従うことが重要。
つまり、NPOなり協同組合などそれを受ける人達に密着し、そのリスクを負っている民間事業体に判断を委ね、あくまで行政は判断を控えてルールを明確にすべきだ、ということになる。ベーシックインカムの「ルールを明確にする」という発想は、均質と思われていた社会が崩れ様々な問題が噴出してきた今だからこそ必要なものになる。
サービス供給はNPOや協同組合などが地域の中で担い、利用者がそれを自由に選び、政府が十分な予算をかけて資金的に支える、という福祉システム論が、今日では多くの論者の共通イメージになっている。
ケインズ政策
ケインズ政策は、60年代の成長時代にケインズ政策を進めていたせいで、70年代にインフレが酷くなり、人々の「予想」を不安定なものにするとフリードマンからも否定されている。政府が胸三寸で場当たり的な政府支出拡大をすれば予想が安定しなくなるが、現在の「インフレ目標政策」と呼ばれている政策、いわゆるリフレ政策は、人々の「予想」を安定させることを目的としている。
ケインズ政策を現在に適応するのは色々な面で批判があったりもするが、インフレ目標は、リフレ政策の要点は、金融緩和をすることで直接物価を上げるというようなことではない。人々の頭の中にインフレ予想を抱かせ、その予想を確定的なものにしようとするところにミソがある。つまり、「必ずインフレ目標を実現する」と中央銀行が約束する姿勢そのものが重要なのだ。
まとめ
この本は、経済学の原則を重視しながら、一つの「転換点」に着目して描かれている。その転換点を明確に捉えられるものとはしていないが、個人的に解釈するなら、かつて成功をもたらした価値観の耐用年数が切れ、当たり前だった前提が崩れ、均質性が保てなくなってきたということだろうと思う。
かつては、中央が積極的に乗り出さなければならない時代があった。国民は右も左もわからなかった。日本はそれを立派に果たした国だと言える。高度経済成長期も、様々な幸運も味方し、戦時動員体制の枠組みの延長でかなり成功した。
しかしそのような前提が崩れた後、かつて味を占めた人たちは自分たちの時代の価値観がすべてだと思い込んでいる。また、それに対する反動的な政策も、あまり賛同できるものだと個人的には思わない。このようなときこそ
- 政府はわかりやすく予測しやすいルールを示す
- 民間はリスクと責任を一致させる
という歴史に裏打ちされた教訓を意識するべきときかもしれない。
しかし、それが簡単にできるわけでもない。なんでもかんでもリスクと責任が一致するわけではないし、予想可能なルールの提示も難しい。ただ、このような原則に逆行する政策がもてはやされるのは危険だと思う。
関連項目