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池田先生の指導です。
ルネサンス(春)における最大の冬――。それは、「魔女狩り」であった。
(「魔女狩り」は、通常想像しがちなように中世のものとはいえない。むしろ、宗教改革とルネサンスが進んでいた十五―十七世紀をピークにしている)
魔女狩りの恐ろしさは言いつくせない。
その理不尽さの一端を、三点のみ簡潔に言うと――。
①《彼女(彼)を「魔女」にしよう》と、だれかに目をつけられたら、もうそれで「死」が決定してしまう。
うわさや密告によって、また拷問による自白を聖職者らが《こしらえて》実際的には弁護を一切認めず、「魔女」に仕立て上げていく。自分を魔女と認めれば死。認めなければ死ぬまで拷問。《目をつけられた》人々が選べるのは、《自白》して早く死ぬか、それとも拷問のあげく死ぬか、だけであった。自白といっても、魔女など存在しないのだから、すべて作りごとである。裁判官の特別の慈悲で、生きながら火あぶりでなく、しめ殺してから火あぶりにしてもらう――という残虐さであった。
②聖職者が、自分の悪行を隠すために「魔女狩り」を重ねた面がある。
司祭が娘たちを誘惑し、妊娠させ、その《後始末》のために、その娘を「魔女」にすることに決め、何人も実行した――という例さえある。司祭の言うことだから、皆、言いなりであった。
宗教の権威は本当に恐ろしい面がある。仏法は「信心即生活」である。生活の乱れている人の言うことは、絶対に信用してはならない。だまされてはならない。
③これが一つのポイントであるが、「魔女狩り」は、財産目当てが非常に多かった。
「魔女」「悪魔の手下」に仕立ててしまえば、その人々の財産は、領主と大司教と審問官(裁判官)の三者で分配できた。
いきおい財産家ほど殺されるわけである。
ある富裕な騎士団(在俗の信徒による信仰団体)は《目をつけられ》、富を全部、奪い取られて解散させられた。
要するに「魔女狩り」は教会の財源であった。
彼らは、暗黒裁判と火あぶりの経費まで《被告》から巻き上げた。
「魔女」「異端」を自分たちが次々に《生産》するほど、もうかるわけであり、宗教を利用した殺人産業であった。
ユダヤ人が、富を持つゆえに、迫害の餌食になったのも、同様の理由による。
現に、財産没収を禁じられた二年間だけは、魔女狩りは激減しているのである。
「教え」のためのみに行われたと見るのは、皮相な見方にすぎない。要は「金」の問題であった。
御書に「鹿は味ある故に殺され亀は油ある故に命を害せらる女人はみめ形よければ嫉む者多し、国を治る者は他国の恐れあり財有る者は命危し(御書九二五項)
――鹿は美味のゆえに人に殺され、亀は油がとれるゆえに命を奪われる。女性は容姿が美しければ嫉む者が多い。国を治める者は他国に攻められる恐れがある。財のある者は、ねらわれて命が危ない――と仰せである。
この御金言は、昔も今も人間社会のさまざまな事件の本質を明瞭に映しだしている。
このように、宗教の暗黒面を最大に拡大した「魔女狩り」は、その後もヒトラーとなり、スターリンとなり、形を変えた「人間狩り」として歴史に現れる。
その惨劇の経験を経て、人類は「もう、人間狩りだけはごめんだ。それが《正義》であろうと何だろうと」と決心した。それが現代である。逆戻りはできないし、許されない。
おしなべて、どの歴史を見ても、宗教裁判の誤りは、「法」の権威と絶対性を、「人」の権威と絶対性とに混同し、すり替える点にある。
世界には精神の糧を求める「宗教への時代」と、宗教はこりごりだという「無宗教への時代」という二つの潮流がある。
多くの識者が、それぞれの側面を論じている。
それはそれとして、この一見、矛盾するかに見える動向も、じつは「権威的でない信仰」を人々が求めていることを表していると、私は思う。
「法」の高さと「人」の振る舞いと、それが調和した「人間主義の宗教」を、世界は求めているのである。
よきにつけ、あしきにつけ、カギを握るのは「人」である。
ともあれ、仏法はどこまでも「人間」が原点であり、「人間」が中心であり、「人間」が目的である。
本来、そこには、異端狩り、人間狩りはない。
著名な仏教学者は、「仏教は本来、権威主義の宗教ではなかった」
「歴史的にも、現実的にも、いまだかつて宗教的権威主義を確立したことがなかった」(『増谷文雄著作集』角川書店)と述べられておられる。
まったく、そのとおりと思う。
また、そうでなければならない。
意見の違いは、どこまでも平等にして理性的な「対話」によって対処してきたのが、仏教の伝統精神である。
「問答無用」は仏法破壊なのである。
【海外派遣メンバー研修会 平成三年一月十六日 (全集七十六巻)】
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