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池田先生の指導です。
イギリス(スコットランド)のある哲学者の言葉に「無知は恐怖の母」とある。
知らないから恐れるし、惑う。英知の光で闇を払ってしまえば、何ものも恐れることはない。迷う心配もない。その「英知」のために、きょうも少々、語っておきたい。
イギリスの作家ジョージ・オーウェル(一九〇三年―五〇年。管理社会の暗黒の未来を描いた小説『一九八四年』で著名)。
彼の代表作の一つに、寓話『動物農場』がある。(工藤昭雄訳、『世界文学全集』六八所収、築摩書房)。
長年、「人間」という暴君に支配され、しいたげられていた動物たちが、ついに革命を起こす。
「動物に自由と平等を!」――イギリスのある農場に起こった、この《民主革命》は成功した。
人間の農場主は追い出され、新たに「動物農場」の旗揚げをした。
彼らは、皆で決めた「動物主義」の原則にしたがって、自治を始めた。
皆、幸せだった。誇りに燃えていた。
「すべての動物は平等である」。
この永遠の指針のもと民主的な理想郷をつくるのだ!
人間たちからの逆襲も、全員の奮闘で見事、撃退した。
ところが――時とともに、平等の原則は崩れてくる。
それまで、動物みんなの合議で運営されていた農場が、いつしか、リーダーを自認する豚たちの手で、何もかも決定されるようになっていった。
初めはささいな変化だった。全員のためのミルクが、ある朝、こっそり消えたのである。
やがて真相がわかった。豚たちが、自分のエサにまぜていたのだ。彼らは皆のリンゴも横領していた。
豚たちは弁明した。詭弁では、だれもかなわない。
――われわれ豚は、リーダーとして頭脳労働をしている。農場の未来は、すべてわれわれ豚の双肩にかかっている。
そこで、いやいやながらも、ミルクをたくさん飲み、リンゴを食べて、栄養を取り、諸君の福祉に努めねばならないのだ、と。
自分たち《豚族》を敬い、大事にしてもらいたい。ミルクとリンゴをかすめとったように見えるかもしれないが――事実そのとおりなのだが――それもすべて農場のためだというのである。
ひとのいい動物たちは、皆、だまされた。いったん、こうなると、あとは歯止めがきかない。
豚は《特権階級》になった。堕落するのは早かった。
人間たちが残した豪華な家で眠り、禁じられている酒を飲み、昼間から酔っぱらっていた。
苦しい仕事は、すべて他の動物たちにやらせ、自分たちは何といっても豚なのだから、偉いのだと胸を張った。
本来、他の人よりも苦労するゆえに、リーダーは尊敬を受ける。
大切なのは、立場ではなく行動である。
ところが、豚たちは、俺たちは特別なのだから、何もしなくても、また何をしても許され、尊敬されるべきなのだというのである。
とうとう彼らは、根本原則の「動物主義」を勝手に修正した。
「すべての動物は平等である」――このあとに、豚たちは、こっそりと、こう書き加えたのである。
「しかし、ある動物(豚のこと)はほかのものよりも、もっと平等である」
自分たちの都合に合わせて、規約を少しだけ変更する。これが権力の常套手段である。
よく理解しないと、だまされてしまう。その《ほんの少しの変更》が悲劇的結末へとエスカレートしていく。
そうなっては手遅れである。悪の芽は早いうちから徹底的に摘まねばならない。
他にも「どんな動物でも酒を飲むべからず」は「どんな動物も過度に酒を飲むべからず」に、
「どんな動物もベッドに寝るべからず」は「どんな動物もシーツをかけたベッドに寝るべからず」に、
「どんな動物もほかの動物を殺すべからず」は「どんな動物も理由なくしてほかの動物を殺すべからず」に、こっそり書き換えられた。
そして豚たちだけが酒を飲み、安楽なベッドに寝、処罰と称して動物を殺した。
特権階級になると権力闘争が起こるのは、歴史の常である。
学会のように、リーダーが本当に責任と苦労の立場であれば、だれも好んでなりたがるはずがない。
豚たちも権力を争って仲間割れし、一頭のおす豚がライバルを追い出して、絶対的権力をにぎった。
彼は「ナポレオン」と名乗っていた。
彼は《批判》を許さない。命令に従わない者は、徹底的に迫害され、追放された。
彼のやり方を疑うこと自体が、不遜な悪とされるにいたった。
「皆の幸せ」が目的であり、そのためのリーダーであったはずなのに、いつのまにか「リーダーの権威と権力」が目的になってしまっていた。
しかし、それでも、おひとよしの、また無知な動物たちは、豚たちを信じていた。
やがて、食糧不足と重労働で動物たちは希望を失っていった。
いちばんの働き者で、《革命》を支え続けてきたロバのボクサーも、とうとう体をこわした。
彼の口癖は「ナポレオンにまちがいはない!」と「わしがもっと働けばよいのだ!」であった。
彼なくして、動物農場の建設はありえなかった。
しかし、だれよりも頑健な彼も、無理に無理を重ねて、ついに倒れた。
すると――「ナポレオン」は、彼の大功労をねぎらうどころか、皆をだまして、彼をさっさと《食肉処理》の業者に引き渡してしまった。
もはや「自由と平等の世界」の理想は完全に消えうせた。
権力による恐怖の支配だけがあった。
ついに「ナポレオン」は《敵》のはずの「人間」と手を組んだ。
仏法の世界でいえば、仏法破壊の謗法者と密謀し結託するようなものである。
酒を酌みかわしながら、《動物たちを利用して、儲ける》相談をする豚と人間。
窓の外から、この様子を見ていた動物たちには、もはや、人間と豚の区別がつかなかった――。
かくして動物たちの《革命》は失敗した。
暴君を追い出しても、追い出した者のなかから、新たな、より巧妙な暴君が出現する。
この歴史の《宿命》をわかりやすく描きだした現代の寓話である。
作者オーウェルが、この「おとぎ話」を書いた時(一九四三年―四四年)、
当然、ソ連のスターリン主義への批判がこめられていた。
労働者の《解放》の美名の裏に、特権階級(官僚)と独裁者(スターリン)が生まれていることを、彼は見抜いていた。
しかし、同時に、この「おとぎ話」は、人間が《権力の魔性》を克服しないかぎり、どんな革命、改革運動も、堕落することを描いている。
そこで、ドイツの《救国》を掲げたヒトラーの偽善をも鋭く批判する結果になった。
《左》であれ《右》であれ、問題は「人間」だということを、あざやかに示したのである。
では、その「人間」をどうするのか。
特権階級を振り回す「権威的人間」を超えて、どう「民主的人間」を生みだすのか。ここに問題がある。
ここに「人間自身」を革命しゆく仏法、信心の重大な意義がある。
そのうえで、もっとも民主的な日蓮大聖人の仏法の世界にあっても、「権威的人間」に支配される可能性はつねにある。
そうなれば「広宣流布」の理想は実現できない。
民衆が賢明になる以外にない。そして悪とは戦わねばならない。
民衆の率直な疑問や希望を権威で抑えつけ、納得も信頼も与えようとしない人々。
そうした存在と戦いぬかれたのが、大聖人の御生涯であられた。
門下の私どもが同様に、正義を訴えるのは当然である。
横暴な権威・権力と一生涯、戦ってこそ、真の「民主的人間」となる。
【海外派遣メンバー協議会 平成三年二月十四日(全集七十六巻)】
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