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池田先生の指導です。
コロンビア建国の父サンタンデル将軍の行き方をとおして、少々お話ししたい。
ヴィクトル・ユゴーは、コロンビアの「憲法」(一八六三年のリオネグロ憲法)を読んで叫んだ。「ここに天使の国がある!」と。
そこには、最大限の「個人の自由」と、中央権力の制限、地方分権主義、自由経済、そして教会権力の抑制がうたわれていた。
この自由主義的改革は、ユゴーが驚いたごとく、当時の世界でも最先端のものであった。
ただ少々《早すぎた理想》だったのかもしれない。
人々は「自由」の正しい使い方を十分には知らず、かえって内乱状態になってしまった。
ついに約二十年後、より保守的な憲法にとってかわられる結末となった。
振り子が反対側に揺れる――こうした事例は歴史上、珍しくない。
そうならないために、理想と現実との調和をどうとるかに指導者の使命があり、苦衷がある。
それはそれとして、こうした「自由」への理想の源流が、初代大統領サンタンデル将軍である。
「横暴な権力に立ち向かい、自由の炎をたぎらせた市民の団結――それのみが善と幸福な未来の源泉です」
彼がこう語ったのは、不当な追放刑による亡命のさなかであった。
南米解放の父シモン・ボリバルの《右腕》として、南米の独立に不滅の大功労を残したサンタンデル将軍。
彼は、ボリバルとの意見の違いを利用されて、追いおとしの密謀の犠牲になる。「ボリバルを暗殺しようとした」というのである。
何の証拠もなく、大功労者は国外へと追放された。財産も地位もすべて奪われた。
ボリバルの華やかな活躍の陰で、つねに彼を支え、国を治め、公庫(財政)を豊かにし、独立軍に物資を送り、自由主義の改革を推進した彼。
サンタンデル将軍こそは、実質的な《新国家の柱》であった。
ボリバルと将軍の二人が力を合わせたからこそ、三百年にわたる悲惨な植民地支配に終止符を打てたのである。
彼は「勝利を組織した男」とも呼ばれた。
問題は、独立後であった。
君主制の確立を試みるボリバルと、根っからの共和派のサンタンデル将軍との意見の相違である。
将軍は、あくまで権威主義に反対し、自由主義を唱えた。
本人たちの友情は友情として、この対立が、それぞれの支持者の勢力争いに利用された面があった。
バルコ前大統領は「二人が心の中まで敵対したわけではなく、むしろ、二人をかついだ双方の支持者同士が対立し、争いがエスカレートしていったのです」と、当時の事情を説明してくださった。
そしてサンタンデル将軍に死刑の宣告。やがて減刑されたものの国外追放――。
しかし、彼の《自由の炎》は、迫害によって、いよいよ燃えさかった。
「広大な南米の多くの指導者のうち、ただ彼だけが、共和制と民主主義に反対する雪崩に抗して、毅然と立っていた」といわれている。
彼は、自分の正しさを確信していた。
「残酷な迫害は、つねに私の最高の栄誉の勲章である。迫害は、私から国民としての権利を奪い、祖国を奪った。私は見知らぬ土地に放りだされた。暴力と復讐が私から奪い取れなかったもの――今や、それのみを私は持つ。それは、純粋な良心の証、長く祖国に仕えた記憶、そして真の自由への愛である」
「私を攻撃する手が、高く上げられているなら、汚名は私にではなく、手を上げたほうにある」
「私は、財産と、生命をも失うかもしれない。しかし、誇りは絶対に失わない」
「いつの日か、道理と正義が、私の正しさを証明する日が来るだろう!その『希望』のほうが、今、権力者にへつらって得られる地位や敬意よりも価値がある」
やがて、彼の「希望」は実った。およそ四年にわたる追放のあと、ボリバル亡きあとに成立したコロンビア共和国(当時はヌエバ・グラナダ共和国)の初代大統領として迎えられたのである。(一八三二年。三七年まで大統領)
ボリバルは死の一ヶ月前、将軍との対立を後悔した手紙をある人に書いている。
「サンタンデルとの仲をとりなさなかったことが、われわれを堕落させた」と。
サンタンデル将軍は「自由と規律」の人であった。
それは「法に従う」ことの両面を意味した。
「法に従う」という《要》があるゆえに「自由」があり、「規律」があった。
彼は、「自由なき独裁」にも「規律なき無政府状態」にも反対した。
「武器が汝らに独立をもたらしたなら、法が汝らに自由を与えるだろう」
「市民が畏敬すべきものは公の役職を持つ者(=高位の人)ではなく、『法』のみである」
「すべての人に平等の権利を!『厳格なまでに平等』の権利を!」
「われわれは、いかなるものの奴隷にもなるべきではない。ただ『法』だけの奴隷となるべきだ。そして、『自由への競争』を開始するのだ。『理性』と『権利』を存分に使う決心で――」
「団結と『法』への忠順は生をもたらし、争いは死をもたらす」
まさに、社会の混乱は、正しき「法」に従わず、「人」に従わせようとする傲慢から生まれる。
「法」をゆがめ、無視し、逸脱し、みずからのエゴをとおそうとする「人」の放縦、横暴――。
それは「権力」の魔性そのものの姿である。歴史上、つねに見られた悲劇である。
これらの将軍の言葉には、いわば「われ、『権力』には従わぬ、ただ『法』のみに従う」との信条が貫かれている。
中心に置くべきは、あくまでも「法」である。
無法の「権力」を恐れ、羊のように従うことは、人間として「敗者」となる。
どこまでも私利私欲を捨てて、正しき「法」に従い、「法」を守り、「権力」と戦う人こそ偉大であり、勝利者となろう。
次元は異なるが、仏法においては「法」に従うことによって成仏する。
反対に、「法」に反した「人」への盲従は、地獄への道である。
私どもは、どこまでも、また、いかなることがあろうとも、ただ日蓮大聖人の仰せどおりに行動していけばよいのである。
「法の人」であったサンタンデル将軍はまた「教育の人」でもあった。発展の礎は教育にあると確信していた。
重要なのは、彼が「教会に教育権を独占させてはならない」と強く主張し、実行したことである。
彼は普通の学校はもちろん、神学校まで、政府の監督下に置いた。
教育の内容も改めた。ラテン語など教会による古典の授業より、実用的な英語、フランス語の学習を優先させ、イギリスのベンサムの功利主義(「最大多数の最大幸福」を説く)など、時代の先端の思想を学ばせた。
ボリバルは、この教育改革にも反対。いったんはカトリック教義の授業が必修になる。
すると今度はサンタンデル将軍が、ふたたび、新思潮の勉強を復活させる――こうした食い違いが、しだいに両者の対立を増大していった。
また何より、将軍が教会から憎まれたことは容易に想像できる。
教育こそが、国民に「人間としての権利と義務」を教える――。
この将軍の情熱によって、全国に教育施設ができ、「中央大学」も創立された。「出版の自由」も定められた。
ある人はたたえた。
「スペイン統治の三百年間、学校はつくられなかった。しかし共和国政府は、危険の多い独立戦争のまっただなか、大砲がとどろきわたるさなかで、教育を推進し、あらゆる場所に光を流布させた」
「共和国政府」の中心がサンタンデル将軍である。
「あらゆる場所に光を流布させた」――この賛辞は、将軍に贈られたといってよい。
「学は光」「無学は闇」である。
教育は、魂の闇を払う暁の光である。
ゆえに、徹して学ばねばならない。
賢くならねばならない。
サンタンデル将軍は「戦いのまっただなか」で「教育」の栄光の旗を掲げたのである。
【関西会・長野の代表研修会 平成三年七月二十五日(全集七十七巻)】
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