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話は、変わる。
いうまでもなく、仏法の本意は、すべての人を成仏させることにある。経文には「一切衆生皆成仏道」と説かれる。
しかし、その成仏の道を、みずから閉ざす人々がいる。それが「一闡提」である。
一闡提については、古来、さまざまな見方や議論があるが、基本的には、正法を信ぜず、誹謗し、しかもその重罪を懺悔もしない、「不信」「謗法」の者のことである。さて、釈尊在世の一闡提の代表といえば、提婆達多であろう。彼は釈尊のいとこで、最初は仏弟子となりながら、後に師敵対してかずかずの悪逆を行った大悪人であった。
御書には「提婆達多は閻浮第一の一闡提の人」(御書一三七三頁)――提婆達多は全世界第一の一闡提の人である――と仰せである。
また、「たとひさとりあるとも信心なき者は誹謗闡提の者なり(中略)提婆達多は六万八万の宝蔵をおぼへ十八変を現ぜしかども此等は有解無信の者今に阿鼻大城にありと聞く」(御書九四〇頁)と。
――たとえ悟りがあっても、信心のない者は誹謗闡提の者である(中略)提婆達多は外道の六万蔵、仏教の八万法蔵の経典を理解し、身に十八神通(十八種の神通変化のこと。右腕から水、左腕から火を出す等である)を現じたけれども、これらは有解無信の者であるために、今なお阿鼻大城(無間地獄にあると聞いている――。
提婆は、当時のいわば最高峰のインテリであった。知的能力の面では、仏法はもちろん、あらゆる知識に通じていた。しかし、超エリートの仮面の下には、どす黒い心が渦巻いていた。
彼は、名聞名利の心猛き野心の人であった。最初こそ釈尊に随順していたが、民衆の厚い尊敬を受ける釈尊をしだいに嫉妬し、その立場にとって代わろうとした。自分が「仏」として尊敬を受けようとしたのである。こうした自身の野望のため、釈尊の殺害を謀るなどの大罪を繰り返した。
それらの罪の中でも最大のものは、五逆罪の一つ、「破和合僧」の罪であろう。
釈尊を中心とした、尊い清らかな教団を切り崩そうとし、多くの人を悪への道連れにした罪はまことに大きい。
涅槃経には、五逆罪を犯して、なお、おそれ恥ずるところなく、仏法を破壊し、軽んずる人は「一闡提の道」へ向かうと説かれる。
いわく――「若し四重(殺生・偸盗・邪婬・妄語の四つ)を犯し、五逆罪を作り、自ら定めて是の如き重事を犯すを知り、而も心に初より怖畏、慚愧無くして肯て発露せず、仏の正法に於いて、永く護惜建立の心無く、毀呰軽賤して、言に過咎多き、是の如き等の人も亦一闡提の道に趣向すと名づく」と。
釈尊以上の名声を願っていた提婆達多は、釈尊をおとしめ、教団の統率者の地位を奪うために、うまい方法を考えだした。
それが、いわゆる《五法の行》とか、《五事》といわれるものである。いくつかの説があるが、一資料によって列挙すれば――。
①糞掃衣(汚い布で作った衣)のみを着て、人の施す衣を受けないこと。
②托鉢のみで生活し、供養招待を受けないこと。
③一日に一度、午前中に食事をとるほかは食事をしないこと。
④つねに屋外の露天に座って、家の中や樹の下に座らないこと。
⑤塩や五味(牛乳・乳製品の五種の味)を服しないこと。
この五点である。
こうした厳しい生活規定の厳格な順守を、提婆は教団に要求したのである。
彼の主張は、極端な戒律主義、禁欲主義の要求である。一方、仏法は中道である。
大事なのは「悟り」であり「精神」である。仏の智慧と慈悲を得るのが目的であり、当時の戒律もその手段にすぎない。
結局、提婆の心中にあったのは、釈尊が「竹林精舎」(迦蘭陀長者が釈尊に寄進したとされる寺院)や、「祇園精舎」(須達長者が寺院を、祇陀太子が土地と森林を寄進した)などを法城として弟子を訓育していたこと、清らかな信心の発露として教団に多くの供養が寄せられていたこと等へのやっかみであった。
しかし、五カ条の要求は、提婆がいかにも純粋な修行者、厳格な仏道修行者であるという印象を与えた。
もちろん、釈尊は提婆の心底のねらいを見抜き、彼の主張を退けたのであるが、提婆は釈尊の精神のわからない新しい弟子を巧妙に手なずけた。
そして五百人の弟子が、正義はわれにありといわんばかりの、提婆のもっともらしい主張、まじめで純粋そうな姿にひかれて、釈尊のもとを離れてしまったのである。
教義の純粋性をよそおいながら、正法を行じ弘める人・団体から人々を引き離す。
その真のねらいは、己の我欲と嫉妬を満たすことだけであった。
なおこの時、釈尊の教団の青年リーダーであった舎利弗、目連の二人が提婆の計略を打ち破り、師・釈尊の正義を証明して、これら五百人の比丘を魔手から連れ戻したことは、有名なエピソードである。
私も以前、青年部への期待をこめて舎利弗と目連の戦いについて語った。
謀略の人は、その策謀の意図が深いほど、みずからの野心と名聞名利を巧妙に隠す。
清廉をよそおった言動をなし、《正統派》の旗印を振り回しては人々の心をとらえようとする。
破和合僧といっても、粗暴な言辞や仕打ちをもって正法の教団に攻撃を加えるとはかぎらない。
まじめそうな姿勢、非道と戦っているのだといわんばかりの言葉で、清浄な教団を攪乱してくることがあることを忘れてはならない。その底流の真意を見抜けず、正義ぶった「悪知識」に従っていくことの恐ろしさ――。
ゆえに皆が賢明、聡明にならなければいけない。言葉よりも、現実の生活、人格、いざというときの振る舞いを見れば、真実は明らかである。経文と御書に照らせば、一切が明白となる。
日蓮大聖人の御在世に、こうした和合僧に対する謀略の図式はまったく同じであった。御書に次のように述べられている。
「仏言わく我が滅後・末法に入つて又調達がやうなる・たうとく五法を行ずる者・国土に充満して悪王をかたらせて・但一人あらん智者を或はのり或はうち或は流罪或は死に及ぼさん時・昔にも・すぐれてあらん天変・地夭・大風・飢饉・疫癘・年年にありて他国より責べしと説かれて候、守護経と申す経の第十の巻の心なり。当時の世にすこしもたがはず、然るに日蓮は此の一分にあたれり」(御書一一四九頁)
――釈尊の言われるには「わが滅後、末法に入って、提婆達多のように、尊げな姿をして五法を行ずる者が、国に充満して、悪王を味方にし、ただ一人正法を弘める智者を、あるいはののしり、あるいは打ち、あるいは流罪にし、あるいは死にいたらしめようとするとき、昔にもまして、天変、地夭、大風、飢饉、疫病が年々に起こり、他国からその国を攻めるであろう」と説かれている。これは守護国界主陀羅尼経という経の第十の巻の心である。この経文は今の世と少しも違わない。それなのに日蓮は「但一人あらん智者」の一分に当たっている――と。
権力者に働きかけて大聖人を死罪に及ぼそうとし、一門を攪乱した「破和合僧の張本人――その代表格が真言律宗の僧・極楽寺良観である。
もともと良観は、北条幕府の権力者の外護を得て、世間の尊崇を受けていた。ところが、大聖人が出現され、良観の邪な本質が明らかになってしまった。
人々の自分への尊敬をどうやって保つか彼は焦った。そこで幕府の要人と結び、裏から動かして、大聖人を亡き者にせんとした。
生き仏のごとく仰がれてはいたが、野心、名聞のためには手段を選ばない、冷酷な人物であった。
まさに、法華経に予言された「僭聖増上慢」の姿である。
大聖人は、良観の実態を「持戒げなるが大誑惑なる」(御書一一五八頁)――仏法の諸戒を持っているようには見えるが、世間の人を大きくあざむき、まどわしている――と指摘されている。
さらに大聖人は、池上宗長への御状の中で、このように述べられている。
「これは・とによせ・かくによせて・わどの(和殿)ばらを持斎・念仏者等が・つくり・をとさんために・をやを・すすめをとすなり、両火房は百万反の念仏をすすめて人人の内をせき(塞)て法華経のたね(種)を・たたんと・はかるときくなり」(御書一〇九三頁)
――これは、何かとことによせて、持斎(律宗等の僧をさす)・念仏者たちがさまざまに画策して、あなたたちを退転させるために、まず親をそそのかして悪道に堕としている。両火房(良観)は百万遍の念仏称名をすすめ、人々の仲を裂いて、法華経の仏種を断とうと謀っていると聞いている――。
「三類の強敵」は、人々の心を言葉たくみに動揺させ、その仲を裂いて、成仏への道、広布の流れを断絶させようとするものであることを、私どもに教えてくださっていると拝される。
「立正安国論」には、次のように仰せである。
「悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや」(御書二一頁)――悪侶を戒めずして、どうして善事を成就できようか。できはしない――。
安国論は、「主人」(大聖人)と「客」との対話によって進められていくが、この御文は、客が「これほど仏教が栄えているのに、どうして仏教が滅びたと言うのか」とただしたことに答えて述べられた部分である。
大聖人は、主人の言葉として「なるほど、寺院等の建物も多く、経も多い。僧侶もたくさんいる。しかし、僧が名利に執着し、心に嫉妬をいだいて堕落している」(趣意)と答えられ、これらの者について「実には沙門に非ずして沙門の像を現じ」(御書二一頁)との涅槃経の文を引いておられる。
すなわち、形は出家のようであっても、実際には「僧侶と思ってはならない」との仰せである。
そして、こうした「悪侶」を戒めず、放置しておけば、仏法は滅びると主張されている。
また《ニセ僧侶》である「悪侶」とは、安国論では法然をさすが、「下山御消息」(御書三四八頁)では、良観のことであるとされている。
「一闡提」「悪侶」「三障四魔」――さまざまに表現されるが、仏法には《敵》がいるのである。
法華経には「三類の強敵」と説かれる。《悪との戦い》なくして《善の実現》はない。
一切衆生に等しく仏性があると説いたのが法華経である。その理念を実現化する道を大難のなか示してくださったのが日蓮大聖人である。
その「道」を全世界の人々に伝え弘めているのが、私どもである。
法華経の敵は、こうした「一切の人々を平等に仏にしゆく戦い」を妨げる。
極善に敵対するゆえに極悪の行為となる。
この極悪と戦い、打ち破ってこそ、真の極善の人生となる。断じて《戦い》を忘れてはならない。
断じて《勇気》と《英知》の利剣を手放してはならない。
断じて《勝利の歴史》を残さねばならない。正法のために、人類のために、自分自身のために。
【霧ヶ峰・第三回研修会 平成三年七月二十七日(全集七十七巻)】
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