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ドイツのある学者のエピソードである。こう、パッと話のチャンネルを変えると、興味もわく。頭にも入りやすい。
彼は昼間は生活のために会社に勤め、事務員として朝から夕までコツコツと計算ばかりしている――それが日常だった。
夜の時間だけを研究に使っていたのである。
ある日、見かねた友人が忠告した。
「君ほどの人物が、会社の事務員をしているなんて、もったいない。君の主人は、いつもいばっているばかりいるが、学問を比べたら、君の小指ぼどもないだろう。そんな男のもとで、使われているなんて、くだらないよ」
しかし、大学者は少しも悪びれず、こう答えた。
「いや、これでいいんだ。僕を使えばこそ、会社も利益を得られるし、僕も食べていけるのだ。反対に、僕が会社の主人で、あの主人が僕の立場だったら、どうなる? 僕はあの人を使いきれないよ」と。
組織上の役職、社会などの機構は、必ずしも実力のとおりとはいえない。
生身の「人間」の世界であり、人事配置にしても、適材適所でない場合もある。
また、貴族制、世襲制などは、実力より身分、家柄、地位等を優先した典型であろう。
それはそれとして、実体なき地位や身分が《上の人》よりも、実際に《働く人》のほうが、結局は幸福だし、満足がある。
広宣流布をめざしての活動においてもまた同じである。
立場でもない。
役職でもない。
実際に悩める人々の中に飛び込み、語り、苦労して、仏法を弘めた人が偉いのである。
立場や権威の上にあぐらをかき、いばり、命令し、皆を困らせるような人間は、仏法の目から見れば最低の存在である。
そうした悪を許してはならない。
そのうえで、一つの「発想の転換」「心の切り替え」の例として、時には、この大学者の考え方を見習ってみるのも、よいのではないだろうか。
「俺たちが働いているから、もっているのだ。立場が反対なら、なにもかもめちゃくちゃになるさ」と――。
要は、聡明に知恵を使い、境涯を広げ、つねに一切の矛盾をも悠々と見おろしていける人が賢者であり、幸福なのである。
「失意泰然、得意淡然」(失意の時も悠々と動ぜず、得意の時も淡々としてふだんと変わらない)という言葉があるが、何ものにも動ぜぬ「心の世界」を確立している人は強い。
着実に向上していく。そこに自立した「人格」の力がある。
人生の目的は幸福である。その幸福を決めるのは自身の境涯である。
《境涯を開く》人が《幸福を開く》人なのである。
その境涯を無限に開きゆく原動力が「信心」である。
有名な御書に、「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)なり、をを心(むね)は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり」(御書一一五一頁)と。
――賢人は八風といって八種の風に侵されないのを賢人というのである。八風ちは、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽である。そのおおよその意味するところは、世間的利益があっても喜ばず、それを失っても嘆かないなどということである。この八風に侵されない人を、必ず諸天善神は守られるのである――と。
要は、八風に侵されない、八風に微動だにしない「自分自身」であればよい。それが、「賢人」である。
現代は、あまりにも虚栄、誘惑が多い。
刹那主義、享楽主義が、社会を覆っている。しかも、日本人は、世間体や格好、形式ばかりを気にして、内実をおろそかにする傾向がある。
風評に動かされて、事実を冷静に確認しようとしない弱さもある。
それでは、状況の変化のまま、風向きのままに動かされる。
あまりにも不安定な人生であろう。大きな嵐、時代の変動の前には。ひとたまりもない――。
そうしたなか私どもは、何ものにも左右されることのない、信仰という、不動の支柱をもっている。
八風に断じて侵されることなく、堂々とまた仲良く、この最高の「人類貢献の道」「永遠の幸福の道」を歩んでまいりたい。
【霧ヶ峰・第三回研修会 平成三年七月二十七日(全集七十七巻)】
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