高遠るいの日記

2015-05-25 おたぽる記事への補足説明の巻

先週の木曜日、ニュースサイト『おたぽる』に、ライター・昼間たかし氏による記事『『日之丸(後略)』論争 渦中マンガ家の主張』が掲載された。

ブログの記事がそのまま引用されたのは嬉しいことだったが、問題はインタビュー部分である。

去る18日(月)、私は昼間氏の訪問を受け取材に答えた。

自分が主張をコンパクトにまとめるのが下手で、前置きや留保を頻繁に挟むあまり、言葉が長くなりがちなのは自覚している。昼間氏が書いたとおり、インタビューが3時間に及んだのは事実であり、自分の言葉が彼のセンスで要約されるのは当然だった。はたして記事の仕上がりはというと、私の今回の問題に対するスタンスの真摯さを疑われかねないものだった。

なるほど単語やフレーズのレベルで見れば、どれも私が長話の中で口にしたものだ。しかし、前後の文脈エクスキューズを取り去って刺激の強い箇所だけを拾い上げれば、こうも実際とイメージの異なる攻撃的な主張になってしまうものかと、驚きと、少なからぬ落胆を禁じえなかった。

実際記事を読んで、なんだこのちゃらんぽらんな主張で他人を貶めるクソ野郎は、と思った方は少なくないだろう。自分でもちょっと思った。

両論併記によって公平な記事にしたい」という昼間氏の意図を疑うものではない。私の主張の要点がこのように受け取られたのだとしたら、自らの不甲斐なさに痛恨の思いである。

ここに、『おたぽる』記事内の私のインタビュー部分について、幾許かの補足説明をさせていただきたい。

無論、自身の名誉回復という目的は大いにあるが、のみならず、先々週のtwitterに端を発する問題が、こうしたある意味キャラクター性の強い記事に結実してしまった事に対して、自分なりに落とし前をつけなくては、本気で反差別の取り組みをしている人々に顔向けできない、と感じるからだ。これはカッコつけでなく本心である。

なお、25日(月)が漫画原稿の締め切りであったため、週末中に本稿を書く事が出来なかったのが悔やまれる。

   ※囲み部分は元記事からの引用です。

待っていたのはタンクトップ姿の精悍な青年であった。「東大卒」のイメージに反して、インテリよりもワイルドに近い印象の青年は、約3時間にわたって語り続けた。

一応言っておくが、3時間俺だけが喋り続けたわけじゃないからな! メシ食いながら、本題と無関係の雑談も交えて合計3時間向かい合っていた、というのをこう書くだけで、おしゃべりクソ野郎一丁上がりである(なお、私がおしゃべりクソ野郎である事自体を否定するものではない)。容姿を良く書いてくださったのはありがたいけど、冒頭から「しばき隊」ライクなマッチョのイメージを着けるのは正直勘弁してくださいと思いました。まあでもいいか、プロレスっぽくて。

「この問題は“表現の自由”ではなく、カルトによる洗脳の問題に近いでしょう。今どき、ネットに流布されているネトウヨ言説を信じちゃっている人というのは、思想信条というよりも詐欺に引っ掛かっている被害者だと思うんですよ。」

どうも文脈が捩れているのは、二つの問題についての発言が一緒くたになっているせいだと気付く。

1、「今回の一件」に関する「表現の自由の問題ではなく企業コンプライアンスの問題である」という主張

2、「ネット発の排外主義に染まってしまう人たち一般」に関する「カルト被害者としての一面もあるのでは」という見解

この二つが繋げられている。何故。いや、もしかして俺こういう順番で喋ったのかなあ。もうちょっとしっかり分けて話すべきだった。ここは反省。

竹書房宝島社で描いている分には、俺は言いませんよ。」

これカチンと来る人いるんだろうけど、別に竹や宝島disってるわけじゃない。慣例的にトップ企業と中小では求められる倫理基準って違うよね、というだけの話。もう何度か書いた。

「富田さんの悩ましいところは、被害者と加害者のバランスで考えた時に加害者の度合いが強いことでしょう。マンガ家としてはキャリアもありますし、山野車輪と違って、まともなマンガを描けることが問題なんですよ」

私が「富田氏の悪質性」の根拠としているのは、彼女の実力やキャリアではない。twitter上でご自身が表明しているとおり排外主義団体のデモに参加しているだけでなく、オビに「不逞鮮人」などという言葉が躍る本を世に出している「現役の差別煽動家」であるからだ。何度もそう書いたし、昼間氏にもそう理解されていたはずなのだが…。ここだけ読んだら、「漫画が上手いからこそ有害」という主張がメインのようではないか。それは枝葉だ。切り取り方に少々悪意を感じた。

淡々と過激な言葉を並べた高遠氏だが、あくまで“表現の自由”とは別のベクトルの問題なので『日之丸(後略)』を読んでいないと話した。

明確に反論したい部分である。私が『日の丸(後略)』を読んでいない点は富田氏へのインタビュー部分でも繰り返され、強調されているが、これは少々悪質である気がする。記事を一読した人にとっては、「私が富田氏の漫画の主張を実際には一切把握していない」かのような印象を与えるからだ。

ブログでも書いたが、『日の丸(後略)』に原稿・キャラクター・物語が丸々流用されている先行作品『街宣!街宣!』については、私はネットでの発表と同時に読んでいた。

ヒロインが周囲の影響で民族主義的な政治活動に身を投じる物語だ。作中では、発表当時のトピックだった「在日外国人への参政権付与」がフォーカスされる。保守系デモ団体が市民に白眼視され、警察に阻まれながらも国会を囲んでパフォーマンスするのがハイライトだ。西村修平氏あたりをモデルにしたと思しきヒロインの父(デモ主催者)は、在日外国人への敵意剥き出しの言葉で日本の危機を訴える。上品とは言いがたいが、場所が国会前なだけ、市井の人々に牙を剥く現実世界の活動よりはマシかもな、という感想を持った。

今回、昼間氏の持参してくれた『日の丸(後略)』をパラ見して、そのロジックの倒錯ぶりにクラクラした。『街宣!街宣!』の骨子に、いわゆる「カウンター勢力」の反攻という近年の情勢を描き足したものである。

いいですか、あなたたちの憎んでいる「カウンター勢力」は、漫画で描かれてるような「比較的(あくまで比較的)穏当な保守活動」を攻撃しているんじゃない。もっと卑劣な、現実世界で行われている差別・排外活動を攻撃しているのだ。このすり替えが「フィクションだから」で許されるとは、私には思えない。

あくまで「ネットでイタい人をヲチしている感覚」だという高遠氏は、

これは本当に誤解を招きやすいと思うので言っておくが、「ネットでイタい人をヲチしている感覚」と、「ヘイトスピーチへの真剣な怒り」は、私の中では当たり前に両立する。

思春期オウム興隆と暴走をリアルタイムで体験し、別冊宝島電波系ムックを愛読して育った人間にとって、高度情報化社会ブラックホールに捕われアッチ側に行っちゃった人々が語るそれぞれの物語、その「本人は真面目がゆえに溢れ出るキッチュさ」を味わうのは、悪趣味と言われようが何と言われようが文化として抗えない魅力を持つのだ。

「えっ、これビージャンの『ほっといてよ!ママ』の人!?…目覚めちゃったんだ…」

5年前『街宣!街宣!』や同時期の富田氏のブログを読んだ私は、目が点になった。「日本が危ない!」「みんな聞いてよ!」「危機拡散プロジェクト」と躍る文字。日本を破滅へ導く陰謀への切実な危機感。民主党政権(当時)や近隣諸国在日外国人への強烈な敵意。本人の憂国意志は絶対マジなのだ。気持ちは分かる、分かるのだけど…誰もがふとしたキッカケで呑みこまれかねない、ネットで奇形化した「愛国保守」の魔力に思いを馳せた瞬間でした。

「運動をやるつもりもありません。私は活動家ではなく一般人の立場から発言することに訴求力があると思うんです。だから言論や運動よりも、日本人の中にうっすらと差別意識があることを認めつつ『真っ黒なアイツらはカルト』ということを共通認識にしていくくらいでいいんじゃないですか。俺は言っちゃうけど、あとは皆さんご自由に、って感じです」

差別意識があることを認めつつ」というのは無論「差別意識を容認する」などという意味ではない。「差別意識が社会に内在することを自覚する」という意味だ。日本社会に古くから広く静かに根を張っている弱いゼノフォビアこそが、一部の過激な排外主義者たちの生みの親であり、過激化を許してしまった背景であるのは、悲しいが認めざるをえないところではないか。

『真っ黒なアイツらはカルト』という部分については、長い前置きがカットされている。私は先に、「嫌韓・嫌中のグラデーション」の話をしたはずだ。

たとえば、外交問題で「中韓日本政府に何かとケチをつけるのが気に食わない」「領土問題でグイグイ来やがるの、何とかならんのか」というような、多くの人にそこそこ理解可能な主張がある一方で、ついでに「南京大虐殺従軍慰安婦は全て反日勢力による捏造だ! 陰謀だ!」と声高に叫んでしまう人々がいる。「在日特権」などの薄弱な根拠で、在日コリアンを親の敵の如くバッシングする集団もいる。

それぞれの妥当性は白からグレーを経て黒まで様々である(=グラデーションである)という、当たり前の話だ。

そしてその中で、「行動する保守」を標榜する排外主義団体が国内のマイノリティーに対して加えている精神的暴力、その支持者達がネットで撒き散らす残酷な言葉の渦――これが明らかにヘイトスピーチ=「真っ黒」だという認識は、多少中国韓国を嫌いな人も共有可能なんじゃないですか、そこが第一歩でしょう、というのがこの言葉の意図である。

最後の「俺は言っちゃうけど、あとは皆さんご自由に、って感じです」は、冒頭の「運動をやるつもりもありません」から繋がるものです。というより、これは今回のグランドジャンプの一件について言った気がするなあ。ヘイトスピーチへの取り組みそのものは、活動家じゃなくとも社会の構成員である以上日常的に意識していくことになると思うんですよ。たぶん。

高遠氏は(中略)「反ヘイト」参加者の服装が“オラオラ系”になってしまったことに問題があると考えているようであった。

これも前置きがカットされている。「C.R.A.Cの野間氏が言うように、新大久保などのデモを封じ込めたことで『ネトウヨは怖くない』と証明出来たのは、カウンターの大きな成果だったと思う。ただ、一部の人たちの服装がオラオラ系に傾いたことで、そういうの苦手な層の反発を招く結果にもなっちゃいましたよね」という文脈で話した、と記憶している。攻撃的なファッション自体を私は否定しない。念のため。


以上。

富田氏のインタビュー部分については、私は批評を加えるべき筋にないのでノータッチです。ご本人にとって、自分と反社会団体との距離感は適切なのでしょう。主観の相違、としか申せませぬ。

最後に、「要するに話下手」な私と長時間ダラダラお喋りしてくれ、それを簡潔な記事にまとめてくれた昼間たかし氏に、「お疲れ様でした」を述べておきます。

ああったしかに先に仕掛けたの俺かもしんないけど、こういうネットバトルみたいなことまでは別に全然したくなかった! 自業自得!

あ 2015/05/25 23:17 ヘイトスピーチ云々よりも反社会団体と繋がりがあることが一番の問題なんだと思います

極論極論 2015/05/25 23:18 なるほど、そういうことでしたか。編集権が向こうにある以上、こういう編集事故は起こり得るでしょうね。

ここを読んで、だいぶ高遠氏への誤解は解けましたが、
1つ気にかかるところがありました。

「不逞鮮人」が差別語とのことですが、不逞鮮人という言葉が関東大震災などで差別を助長する効果を持ってしまったりしましたが、基本的には「朝鮮人の中の、犯罪を犯しかねない者」という意味で生まれた言葉だと思っています。
のちに「独立運動家」なども含むようになるため、この点で「不逞鮮人」はよろしくないという意見もありますが、「三国人」という言葉にしても、結果的に差別を助長する報道のされかたをした言葉ではありますが、報道の結果、良くない効果が出た場合にこれらは差別語になるのでしょうか。

中には「単にあの時代に使われた言葉だから、使わないで差別語扱いしておこう」という理由で差別語にされてるだけなのだ。と思っている人もいるでしょう。(支那人という言葉は特にそうだと思っている人は多いです。Chinaなのになんで差別語なの?と)

差別語に関する考え方には人によってスタンスが違いますが、「不逞鮮人」などを差別語だと言う場合は、なぜ差別語だと思うかと、他の言葉に置き換える代案はあるかを、一身上で考えることは大切でしょう(毎回言う必要は必ずしもありませんが)。

もし代案が「そもそも犯罪報道するときに朝鮮人と分かるようにすることがいけない。不逞鮮人の代案の言葉はない。100%ぼかすべし」だったら、その場合はかなり賛否両論となる気はします。

ますます呆れましたますます呆れました 2015/05/26 00:59 これこそ差別でしょう・・・
>「竹書房や宝島社で描いている分には、俺は言いませんよ。」
大手こそどんな作者の言論の場を与えるべきだと思いますけどね。中傷が高遠さんのような圧力をかけて言論封殺してくる輩に弱いのですから。

ますます呆れましたますます呆れました 2015/05/26 01:00 訂正
×中傷
○中小
です。失礼しました。