低酸素脳症による目に見えない障がい       

      表紙へリターン


                                           


ホームページの主人公         
                            昏睡中の正幸
 名   前 : 谷口 正幸
 生年月日 : 1973年2月22日


ここでは、ランダムに書き記していきます。

68:載帽式〜いのちの雫〜

きのう(2007年2月19日)BS-iでかって放映された「載帽式〜いのちの雫〜」を見た。
川で溺水した若い男性の話。正幸の場合と全く類似しているのでBS-iにお願いしたら非売品DVDを送ってきてくれた。
低体温療法と高圧酸素治療をほどこし覚醒する。これは11年前の正幸には施されなかった治療。「脳を守ります」と救急医は言っていたが低体温療法ではなかったと思う。最後の部分で低酸素脳症と高次脳機能障害のことがわかりやすく解説されていた。
救急医と看護師の使命とは?
奥さんが駆けつけ必死の形相になっている時、看護師は「たすかりますよ」とか「だいじょうぶ」とかという言葉をかけなかった。けっして安易な言葉をかけることはない。家族に説明するのは医師のみ。
子供がサッカーをしていて、ボールを取ろうと川におっこちてしまう。偶然そこにいた看護師は一般の人でもできる救命措置を行い子供はすぐ息をふきかえす。
ナレーターは「あなたのことです」と繰り返す。
いつこのような事故があなたに起こっても不思議ではない。

解説は次のとおり。
Q.溺水時の条件による違いは?
海水の場合、海水が肺胞に入ってしまうと、体の中の水分が塩気の多いほうに向かっていきます。一方、淡水の場合は、水が肺胞から肺臓の中にしみこんでいきます。いずれにしてもガス交換ができず、酸素がカラダに回らなくなります。
また、冷たい水で溺れた場合、お風呂の中で溺れる場合でも違いが出ます。冷たい水のほうが、また大人よりも子供の方が助かりやすいといわれています。体温が下がると生命維持のため、心拍数を下げ、末梢血管を収縮させるなど、血液を脳などの重要臓器により多く送ろうとします。この状態は子供の方が顕著に見られます。

Q.溺水時に起こりえる状態とは?
肺は体の中に酸素を取り入れ、炭酸ガスを外に出します。溺れてしまうことでカラダに酸素が回らなくなります。そして血液の中の酸素濃度が低下し低酸素血症となり、機能を全うしている臓器、脳や心臓が侵されてしまいます。中でも低酸素による脳障害を低酸素脳症と言います。

Q.低酸素脳症の症状は?
脳細胞は人間の体の中で最も低酸素に弱い細胞です。低酸素脳症が長く続くと、不可逆的に脳細胞が障害され、植物状態や脳死になる場合も。

Q.治療法は?
低体温療法(体温を下げることで、代謝機能を低下させ、脳などの障害の進行を抑制する)や高気圧酸素療法(高圧容器の中で高濃度の酸素を患者に供給する)などがありますが、決定的な療法はなく、体温を下げて脳の蘇生を期待する脳蘇生が一般的です。

Q.後遺症は?
リハビリ後に社会復帰しても、電話の取次ぎがうまくできない、物忘れしやすい、二つ以上のことを考えられないなどの遂行機能障害が出る場合があります。生死にかかわるケースからこのようなケースまで色々あるのです。

Q.心配蘇生の役割は?
脳は酸素とブドウ糖で動いています。心肺蘇生は必要な酸素、ブドウ糖を送り込める非常に大きな役割を果たします。

Q.ドラマに登場したBLS(Basic Life Support)とは?
救急隊到着前に器具や医薬品を用いずに行う一時救命処置。
早い時点からこれがされたか、されなかったかによって予後が決定的に違ってきます。
【手順】

  1. 意識状態の確認
  2. 119番・救急隊への通報
  3. 気道の確保
  4. 呼吸の確認
  5. 呼吸をしていなければ人工呼吸
  6. 頚動脈などで循環サインの確認
  7. 心臓マッサージ

※BLS講習は、各自治体や消防署などで開催されている

例えば心肺停止し、わずか5、6分間放置しただけで障害を負ってしまう脳も、心肺蘇生をすれば助かる可能性があります。自分の目の前で大切な家族が溺れた時の事を考えて、是非BLSを勉強してほしいです。



67:もっと普通に生きている人たちと!2

見た目に分からない障がいとそうでない障がいがある。どちらも障がいを負い生きていくうえでハンデとなっている。彼らを抱える家族にとっても様々な不安や悩みを持つことになるのはどちらも同じ。
障がい者を家族だけで抱え込むことはいつの日にか破綻をきたすこと、毎日のように報じられるテレビや新聞で明らか。
この障がいはこんな障がい(ハンデ)があるとより多くの人に知ってもらうことが大切だ。
障がいを負った人と共に参加する、できる限り外に連れ出す。これを受け入れてくれる団体を一つ増やし、また一つ増やししていく。ダンスでも絵画教室でも、ボランティア団体でも映画・音楽鑑賞の会でも、散歩やハイキングの会でもいい。ただそこに多くの健常者がいることが知ってもらうための必須条件となる。相手がお年寄りであろうと子供であろうと健常者がそこにいることが最も大切なこと。彼らに知ってもらい理解してもらうこと、これがこころの負担を急激に減らしてくれる。家族だけでなくこの方々も知ってくれている、ハンデに対する処置を適切にやってもらえる。その場で、これほどの安心はない。知ってもらうための勇気を持ちたい。

66:もっと普通に生きている人たちと!

    教会へちょっと足を運んでみませんか?
日曜日の午前中、多分10時過ぎころから1時間ちょっと。
いろいろな重荷を背負っている障がい者家族のご両親、伴侶、子供のみなさん、教会にちょっと顔を出しませんか?
教会は無理やり宗教をおしつけるところではありません。
主イエス・キリストを自覚的に主体的に信じることを辛抱強くじっと待ってくれる所です。
あなたの悩みや悲しみ苦しみ、重荷を主が代わりに背負ってくれる所です。
安心して門を叩いてください。
息子と一緒に6年前、教会へ初めて訪ねました。
まだ、息子が通える場所がどこにもない時代でした。
牧師に事情を説明し毎日曜日礼拝に通うようになりました。
どこも行くことのなかった息子は日曜礼拝に喜んで行くようになりました。
初めの頃は一番後ろの席に親子並んで座っていたものです。後ろから見ていると頭の薄い人がよく見え、小さな声で「はげ」と礼拝中に言って困らせたりしました。また、「トイレ」と言って始終席を立ったりしました。しかし、教会員の人たちは息子のことを知るようになり、高次脳機能障害の情報を提供してくれたり、息子の隣りに座ってくれたり、教会から出ようとする息子を呼び戻してくれたり、息子が讃美歌を歌うと一緒に喜んでくれたりと日曜日という時を息子と共に過すことを共有してくださるようになりました。いまでは日曜日、息子はわたしのそばにはいません。教会員のだれかといます。

65:Hさんの場合

 海外でのマラソン大会に参加し、マラソンの途中で倒れ込んでしまった。幸い後ろ近くを走っていた人が医師(外国人)だったので、すぐ応急処置をしたらしい。彼はマラソンの前日、一緒に行った人たちとかなりのお酒を飲み、かなり陽気だったという。たぶん、走っているときにはまだかなりのアルコールが残っていて、脳の働きを鈍くしていた可能性がある。隠されていた不整脈が心臓を固まらせてしまったのかもしれない。もし、近くに医師がいなければ彼は死んでいたかもしれない。(アクアラングで溺れた女子大生も近くに医師がいて救われた)
 そこから奥さんの孤軍奮闘がはじまった。日本へ連れて帰り、入院する病院探し。もちろん、どこに情報があるのか、皆目分からない。助かったにしても、あきらかに夫はおかしい。これは、何日間か一緒に過ごしてみればはっきりする。お見舞い程度の時間ではまったくわからない。彼は普通に応対するし、言葉もはっきりしている。だから、見舞いに来た人は「よかった、よかった」と安心して帰り、間違った情報を伝えることになる。
 よく目でみたことしか信じないと人は言う。
 人は表皮だけを見ている。
 人は中を見ることができない。
 中に異常があれば、どこかのタイミングで、それが表に現れる。
 腎臓や肝臓や心臓を見ることは出来ない。
 人工透析をやっている人が歩いているのを見て、この人は腎臓が悪いと外見で分かることはかなりむつかしい。
 
 このような障がい者を身内に持って初めて分かったことが、それである。
 みんなが元気なころは確かに見た目を大切にしてきたし、大部分の価値判断が目だった。
 ということは表皮だけで判断してきたということになる。

64:若年脳損傷

   長野県で「若年脳損傷者の支援に向けた実態調査」を実施している。
 そこには「高次脳機能障害」という文字は一個も入っていない。
 特に差別的、排他的、人格無視的な「高次脳機能障害」を適用したモデル事業の言葉も入っていない。
 ようやく行政に1ヶ所、高次脳機能障害を使わないところが出現した。
 うれしいことだ。
 若年脳損傷で行って欲しい。
 高次脳機能障害というあいまいな言葉に染まらないでほしい。

63:差別用語。2005年11月22日
 
 高次脳機能障害は肝機能障害と同じとみていいのだろうか。

 高次脳機能障害者と呼ぶことに家族や本人が納得していること、おかしい!
 
 差別用語が生まれる現場に、いる。
 
 彼らは分かっていない。

 高次脳機能障害者と呼ばれることが、

 どれほどの見下げた表現であるかを。

 

62:心肺停止の男性、後遺症なく社会復帰(朝日新聞より)

心肺停止の男性、後遺症なく社会復帰

2005年10月15日23時44分

 今年4月に、北海道の支笏湖でボートが転覆して湖に投げ出された男性が、長時間の心肺停止状態だったにもかかわらず、低水温と迅速な救命措置のおかげで、後遺症もほとんどなく回復していたことが分かった。子どもでは同様のケースはあるが、成人では珍しいという。

 帯広市で15日開かれた道医学大会で発表された。男性は札幌市豊平区の会社員佐藤之彦さん(38)。4月17日午後0時50分ごろ、千歳市の支笏湖畔でボートが転覆、しばらくは船につかまっていたが、間もなく意識を失った。気温は約2度で水温約3度だった。

 同2時半には、地元消防が駆けつけたが、心肺停止状態で意識不明の重体だった。その後、人工呼吸や心臓マッサージなどの応急措置を受けながら、ヘリで札幌市の札幌医大高度救命救急センターに搬送された。

 人工心肺装置が取り付けられ、さらに蘇生措置をしたところ、自発呼吸が再開し、同4時25分ごろには、心臓が動き始めた。

 通常は心肺停止が4〜5分間続くと脳に重大なダメージを与え、死につながる可能性が高いと言われる。佐藤さんの場合、完全な心肺停止状態がどれだけ続いたかは、はっきりしないが、これ以上の長い時間だったと見られる。治療にあたり、学会で発表した同大の森和久医師は、「水温により体が冷やされ、低体温状態となったため、脳が必要とする酸素が少なくて済み、脳障害が出なかったと思われる。事後措置も良かった」と話している。

 佐藤さんは事故から1カ月後の5月17日に退院、9月1日に職場復帰した。



61:高次脳機能障害という言葉。

 モデル事業の推進者、この「高次脳機能障害」という言葉に何の疑問も感じてないようだ。
 家族会のひとたちも、同じ。
 「高次脳機能障害」という病気という病名をつけられることに満足している!
 おかしい。
 ほんとうにいいのだろうか?
 患者を抱えている家族はストレートに理解できても
 社会生活者は理解するだろうか。
 かつての自分を当てはめてみれば、水の事故で記憶障がいに陥った芸能人を勝手な判断をしていたことをおもいだす。
 社会生活者は「高次脳機能障害」という言葉から何を連想するだろうか。
 機能障がい者?しかも脳の。
 何をしでかすかわからない人間失格者。
 近くに住んでもらいたくない。
 とおもわないだろうか。
 社会生活者とともに生きていかねばならないのに、
 患者を隔離する方向へ向かわせている。

 中途障がいによる作業遂行障がいとかもっと共有できる名前を考えるべきだった。
 
60:記事

高次脳機能障害、初の診断基準策定へ 障害者認定を促進

2005年07月18日15時46分

 交通事故や脳卒中などによる脳の損傷で、新たな記憶ができないなどの障害が起きる高次脳機能障害について厚生労働省は17日、初めて診断基準を設ける方針を決めた。同省の推計では全国に30万人いるとみられるが、これまで明確な診断基準がなく、障害者として認定されないことが多かった。今後は、診断で障害者と認定されれば、介護・福祉サービスが受けられるようになる。

 救急救命医学の進歩に伴い、交通事故や労災事故による脳損傷でも生命は助かるケースが増えている。ただ、高次脳機能障害は、記憶の障害や注意が集中できないなどの障害のため、症状が一見してわからず、判断も難しかった。同省の推計では30万人のうち、約7万人が65歳未満だが、交通事故などが原因の20、30代の若い世代が多いとみられる。

 同省が高次脳機能障害支援モデル事業(01〜03年度)の一環で、同障害とみられる424人を対象にした調査では、事故による外傷性の脳損傷が76%を占めた。20代37%、30代23%と若い世代が目立つ。症状(重複)は記憶障害90%、注意障害82%、社会的行動障害81%、遂行機能障害75%。障害者手帳を持っていない人は53%だった。

 こうした実態を受けて診断基準は、(1)事故による受傷や病気の発症が確認できる(2)記憶障害や注意障害、遂行機能障害、社会的行動障害などで日常生活や社会生活に支障がある(3)MRI(磁気共鳴断層撮影)やCT(コンピューター断層撮影)、脳波などの検査または入院時の診断書などで原因となる異常を確認できる、などにする予定。秋にも都道府県や医療機関に通知する。

 高次脳機能障害は、「精神障害」に分類される。現在審議中の障害者自立支援法案が成立すれば、来年1月から同法に基づくサービスも利用できる。

 ただ、現在の精神障害者のサービスは統合失調症などの人が対象のため、高次脳機能障害の特性を踏まえた日常の生活訓練、就労支援などの整備が必要だ


59:低酸素脳症者データ1                   (東京医科歯科大学難治疾患研究所のデータによる)

低酸素脳症と診断された31名のデータが東京医科歯科大学から出された。
受傷原因、車の事故4、歩行者2、転落1、落下物1、スポーツ1、心筋梗塞10、自殺3、その他10となっている。
圧倒的に心筋梗塞が多い。その他の内容は不明。
このデータを真摯に受け止める。
心肺停止になる確率は心臓の突然の停止が最も多いということを、いま元気な人たちは素直に認める必要がある。
あす、あなたは突然心臓が止まって、家族を戸惑わせるかもしれない。
数年前、新聞に年間10万人の人が突然死していると書いてあった。
高齢化社会になってもっと増えているかもしれない。
近くに除細動器があれば・・・障がいはなかったかも・・・
多くの人たちが集まる場所には除細動器を!!
普段の予防も大切。
体の中の水分が少なくなる夏は血液がどろどろになる。  水分補給をおこたりなく。サプリメントとしてコラーゲン、ヒアルロンサン。
心臓の筋肉へコエンザイム。

表 6          問6 診断名(複数回答あり)

脳外傷(または頭部外傷、脳挫傷)

脳梗塞

脳出血

くも膜下出血

低酸素脳症

脳炎

その他

回答者数

6

19.4

2

6.5

3

9.7

0

0.0

31

100.0

0

0.0

3

9.7

31

100.0

表 7          問7 受傷から現在まで(04/06/30)の期間(日)

1年未満

1年

2年

3年

4年

5年

6年

7年

8年

9年

0

0.0

5

16.1

3

9.7

5

16.1

3

9.7

4

12.9

1

3.2

0

0.0

2

6.5

0

0.0

10年〜14年

15年〜19年

20年以上

回答なし

 

4

12.9

1

3.2

0

0.0

3

9.7

31

100.0

表 8          問8 受傷原因(複数回答あり)

バイク運転

バイク同乗

四輪運転

四輪助手席

四輪後部座席

自転車

歩行者

転落

転倒

落下物

0

0.0

0

0.0

3

9.7

1

3.2

0

0.0

0

0.0

2

6.5

1

3.2

0

0.0

1

3.2

スポーツ

心筋梗塞

中毒

手術後

感染

脳卒中

暴行/鈍器

自殺

その他

回答者数

1

3.2

10

32.3

0

0.0

0

0.0

0

0.0

0

0.0

0

0.0

3

9.7

10

32.3

31

100.0

表 9          問9 意識不明の期間

意識不明はなし

0.5ヶ月未満

0.5ヶ月〜1ヶ月未満

1ヶ月〜2ヶ月未満

2ヶ月〜3ヶ月未満

3ヶ月以上

回答なし

 

0

0.0

16

51.6

7

22.6

3

9.7

1

3.2

3

9.7

1

3.2

31

100.0

表 10          10 救急病院入院期間

入院していない

0.5ヶ月未満

0.5ヶ月〜1ヶ月未満

1ヶ月〜2ヶ月未満

2ヶ月〜3ヶ月未満

3ヶ月以上

 

0

0.0

2

6.5

1

3.2

8

25.8

5

16.1

15

48.4

31

100.0



58:TBSニュースより 10年後に家族と会話

  TBSニュースで画像を見ることができます
                                                

脳を損傷の米消防士、10年ぶり回復

 10年前、火災現場の事故で脳に損傷を受けたアメリカの消防士が、突然意識を回復、家族と10年ぶりの会話を始めました。

 95年の冬、ニューヨーク州で起きた火災現場で消防士だったドナルド・ハーバートさんは突然、焼け落ちてきた屋根の下敷きになり、病院に運ばれました。ハーバートさんは脳の一部を損傷してしまい、記憶がほとんど失われ、完治は難しいだろうと見られていました。
 
 「彼は窓を見ていて突然『妻と話がしたい』と語ったのです。彼は『どれくらい時間が経ったの?』と聞き、10年だと答えると『3週間ほどかと思っていた』と話しました」 (ハーバートさんの叔父)
 
 電話の後、すぐに妻と当時3歳だった息子たちが病院に駆けつけ奇跡の回復を喜びました。
 「これは医学的に大変な現象です」(医師)
 
 およそ10年ぶりとなる家族との再会に喜ぶハーバートさん。空白の10年間を埋めるリハビリを歩み始めています。(4日 16:15)


57:突然の事故

突然の悲劇。予期することのできない事件、事故、災害。
なんと多いことか。
9年前のことを思い出してしまう。

フィリップ・ヤンシーは
「神は不公平なのか」
「神はなぜ説明されないのか」
「神は沈黙しておられるのか」
「神はなぜ介入されないのか」
「神は隠れておられるのか」と問いかけている。
9年前、正幸が救われるようにと神は介入されたと信じている。
では、106名には介入されなかったのか。
バスの3名には介入されなかったのか。
介入されたから、106名だったのか。介入されたから3名で済んだのか。

あるいは、これは神の問題ではなく、生きている人間の問題なのか。
交通事故も列車事故も飛行機事故も自転車事故も転倒転落事故もテロも戦争も医療事故も地震や火事も心臓発作も脳梗塞も癌も雷による事故も暴力も猛獣に襲われることも身体やこころに傷を負わされることや死に至る病はみんなみんな人間自身がなせることなのだろうか。
イエスは「神は死んだものの神ではなく、生きているの者の神なのだ」と神の言葉としていわれた。
ここ数日でわからないことが突然増えた。

こうしているあいだ、正幸はまたパッションを見ている。
イエスを救うために、神はあらわれなかった。
イエスは救いを求めていたのだろうか。

尼崎脱線事故、400名以上の乗客が救急診療を受けた。
読売新聞によると「負傷は頭部に集中」とある。
脳損傷による後遺症で介護を必要とする人たちが、また生まれたにちがいない。
社会復帰や職場復帰、学校復学ができない人がでてくる。
彼らの人生は根底から覆される。
亡くなられた人の家族や生きている人たちの心のケア、安心して生きていける環境を報道機関や医療機関、行政、宗教、地域住民は切れることなく構築していって欲しい。

56:いまを生きる(2005年3月12日)

 記憶が残っていかない
 だれもが 今の記憶をすべて残せるわけではない
 いま 身の回りで起こっている出来事 目の前の景色など
 ことごとく収めるすべを持っている人はいるだろうか
 たぶん、いない
 それらのほんのいくつかを次のために
 おさめるだけ
 それで
 じゅうぶん
 それまで蓄えられてきた知識が助けてくれる
 会話もできる
 移動もできる

 いまだけ 
 次がない
 そんなことを想像できるだろうか
 いつもいつも いま
 彼も いまを生きている
 来る時は いつもいま
 いまがほとんど残っていかない彼は
 会話することが不得手
 移動すれば 元の場所に帰れない
 苦しんでいるのだろうか
 気づいているのだろうか
 彼は いまだけを生きることにすべてを注いでいる
 いまもさきも 
 それだけしかないのだから

 だから
 だから 手をかしてあげねばならない
 先へすすむために
 

55:イラクのアメリカ兵の脳損傷

(Tさんからの情報)

谷口様

こんな記事を見つけました。英文ですが…

Brain Injuries Affect Majority Of Injured Soldiers
http://www.nbcsandiego.com/militaryconnection/3792835/detail.html

ホームページを翻訳してくれる、以下のサイトで荒っぽい翻訳をしたも
のを転載します。(翻訳結果は、めちゃめちゃな日本語です!)
http://www.excite.co.jp/world/english/web/

防護服のおかげで内臓などは負傷しなくなったようですが、脳に障害を
負った兵士が多いようですねー。



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
脳を害されたローカル船舶は回復しようと努力します
脳傷は、負傷した兵士の大多数に影響します
記入されました: 7:28、pm PDT、10月7日、2004
更新されました: 9:10、pm PDT、10月7日、2004


SAN DIEGO-- ジェイスン・プール(わずか10日離れた海兵隊、彼が猛烈
な脳傷を受けた時、イラクから帰宅することから)は、歩き、かつ日常
のタスクを実行することをちょうど学んでいます。

----------------------------------------------------------------
イメージ: 回復するべき海の努力
----------------------------------------------------------------

プール(21)は、彼の前の生活に関する多くのものを思い出すことができ
ません、彼の精神的外傷の脳傷を引き起こしたイラクの6月30日の爆発
を含んでいること――あ?驍「はTBI、医者がそれを参照するとして。さ
らに、彼は、配置された基礎を思い出すことができません:キャンプ・
ペンドルトン。

ほぼ8,000の軍隊がイラクで負傷しました、で、プールがあることであ
るパロアルトのVA病院の、ヘンリー・ルー博士によって、それらが脳傷
を備えた家を返す3分の2のうちの多数が扱うとともに。パーセンテージ
が非常に高い1つの理由は、兵士が、それらが10年前にだったより攻撃
を生き残るのがよりありそうであることを甲冑における改良が意味する
ということです。

「この戦争(である)に関して実際にやかましいもの、甲冑技術(意味)に
おける改良、内臓は非常によく保護されます。」ルーは言いました。

多くの場合では、脳傷の場合が治療していなくなります。彼が物理的な
傷のサインを示していない一方さえ、彼がハンビーから投げ出された後、
TBIに苦しんだアレックGiess(45)は、精神の無能のサインを持っていま
す。

「私はただ帰宅しそれをやめ、私の生活をうまくやって行きます。また、
私は、私が激震を持っていると現実にちょうど思いました」とGiessが
言いました。(しかし)「すべては非常に異なります。私は材料を非常に
異なるように見ます。また、私は使用されて、Iと異なるロットを演じ
ます。」

後であるまで、それはそうではありませんでした、彼は、単純な子供の
コンピューター上のゲームをさらに行うことができないことを悟りまし
た、Giessは言いました。彼は、プールに加えて、パロアルトVA病院で
現在扱われています。

パロアルトVA病院は、精神的外傷の脳傷ユニットを持った国で4のうち
の1つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

原文の「IMAGES:Marine Struggles To Recover (回復に励む海兵隊員)」
のところをクリックすると以下のアドレスのページが開き、[Next>]の
部分をクリックすることで23枚の写真を見ることができます。


www.nbcsandiego.com/slideshow/news/3792859/detail.html?qs=1&s=1&dm=ss&p=news

54:2004年10月10日 低酸素性脳症の追跡調査の必要性

日本の病院や医師、どこも誰一人として「低酸素脳症の後遺症」を知らないし知ろうとしていない!

原田正純著 炭鉱(やま)の灯は消えてもー三池鉱炭じん爆発によるCO中毒の33年 を読んだ。1回読んで何か違和感が残った。それが何であるのか、CO中毒の永い長い家族までも巻き込んだ後遺症のことではないと思う。1週間ほど置いてもう一度読んだ。それが何であるのか、はっきり分かった。
こんな文章がある。
「COは、酸素より血中のヘモグロビン(Hb)にたいする親和性・結合性が250〜300倍も強い。そのため、組織内の酸素欠乏状態をもたらすことがCO中毒の一つの重要な因子である」
とあるにもかかわらず、CO中毒の後遺症を無酸素性脳症or低酸素性脳症による脳損傷と言い切っていない。
CO−Hbが全身を回りそれなりに影響を与えているとある。
CO障がいの主たる原因は酸素が供給されないというところにあるのではないだろうか。
CO中毒の資料と同時に酸素が供給されなければどうなるかという低酸素性脳症の資料もあたるべきではないだろうか。そもそも低酸素脳症の研究資料が医学界にもなかったのかもしれない。
あるのだろうか?
脳の組織がどれほどの心肺停止でどれほど損傷されるのか。そのときの温度や気圧はどうだったのか。どんな救命措置がなされたか。どのような障がいが残ったか。年度ごとの追跡調査がなされているという話はきこえてこない。
もし、低酸素脳症のデータがあったなら、CO中毒の障がいも低酸素性脳損傷に起因するといえたかもしれない。
バーバラ・ウィルソンの「事例でみる神経心理学的リハビリテーション」に「脳への酸素供給の途絶や停止は、認知機能に致命的な障がいを与えうる。心機能不全、呼吸停止、一酸化炭素中毒などがその主な原因である。」とあるように低酸素性脳損傷の事例からCO中毒の後遺症の固定化を訴えてもいいのではないか。
低酸素性脳損傷の追跡調査された事例こそ集めねばならないのではないか。
事例があるにもかかわらず分散してしまっている、消えていってしまっている。
リハ施設もなく低酸素性脳損傷者を家族に押し付けてしまっている現状では、どうしようもないのか。
インターネットが普及し全国の患者を知りえるのもかかわらず、それがなされていない。
三池CO裁判で「三井鉱山はCOガスによる酸素欠乏状態以外をみとめず・・」とある。
被告側が酸欠といっているところを見ると、当時(といっても1978年)酸欠による障がいのデータがよっぽどすくなかったのだろうと推測される。酸欠=死。蘇生した者は?健常者という認識しかなかったのだろう。
心肺停止の患者がいないはずはない。救命措置をして蘇生すれば、よしとする医師たちの怠慢は歴史的なものなのかもしれない。
原田氏が力説するように医師たちの怠慢は今も続いているということ、横の連絡もなければ追跡しようともしない。医師が病院が「その後どうですか?」と一度も聞いてきたことがない。そのような話を聞いたことがない。
CO中毒には
「記銘力障がい、失見当識、健忘症状、記憶欠落、記憶障がい、思考障がい、判断障がい、理解障がい、計算力低下などの知的機能障がい」
「感情鈍麻、多幸症、緩慢鈍重、不関心、抑制欠除、小児化、無欲・無気力、多動、優美さの欠除、意欲喪失」などと記されている。
すべてが正幸にあてはまる!
一度に多くの罹災者が発生したのでCO中毒の追跡調査が残っている。10年20年30年と知的機能障がいが強く残っている。
中毒後2年目:痴呆18%健忘5%記憶ー思考力衰弱70%情意衰弱64%心身コショウ85%
    3年目:精神症状のなかでも性格変化が目立ってきている。
    5年目:知的機能障害者73.5%(健忘症状群6.8%記銘・記憶力障がい50%計算障がい53.9%思考障がい4         3.1%性格変化人格の崩壊3.9%幼稚化24.5%積極性低下39.3%多動浅薄抑制欠除10.7%・・)
   10年目:自覚症状、精神症状、身体症状はあまり改善はみられていない。

地域に分散している低酸素性脳損傷の追跡調査をせねばならない。
みたところ同じように9年目の正幸にも残っている。
残り続けていくかもしれない。
悪化していくのかもしれない。
20年30年40年と続くであろう障がい者がいる、彼らは社会に貢献してきた人々だった、彼らを復職復学不可能な障がいを持ちながらも社会のステージに復活させてやりたい。それは集まる場所であったり、そうでない人たちとの共生できる環境をひろめていってやりたい。彼らだけの場としてではなく、そうでないわれわれとの共生の場として。
ナノはそんな場を持ちたいと、実現に向かって動いている。


53:2004年6月24日

バーバラ・ウィルソンの「事例でみる 神経心理学的リハビリテーション」(訳 鎌倉矩子 山崎せつ子)の中の低酸素   脳症

 『低酸素性脳損傷』


 脳への酸素供給の途絶や停止は、認知機能に致命的な障がいを与えうる。
 心機能不全、呼吸停止、一酸化炭素中毒などがその主な原因である。
 頻度はこれより低いが、麻酔事故、首吊り自殺の企図、溺水事故によっても低酸素性脳損傷は起こりうる。

 事例

     ジャック        ジェイ      アレックス      セイラー
19才の時 
一酸化炭素中毒による自殺を図る
20才の時
クモ膜下出血と左後大脳動脈に動脈瘤
19才の時
泥酔の翌朝、ダイビングツアーで溺水。
19才の時
親知らずを抜くための麻酔事故
広範な低酸素脳症
蘇生後
全身性てんかん性痙攣
20分の意識喪失
高圧酸素療法
数ヶ月の不顕性のてんかん
9ヵ月後、すべての発作がおさまる。
脳波も正常に。
てんかん発作
虚脱状態
救命救急センターでさらに2回の発作
動脈瘤に対しては3週間後にクリッピング
浜辺で10分間ほどの蘇生術
自発呼吸
人工呼吸器(事故後56時間で外す)
興奮状態、多動
1ヶ月間人工呼吸器
昏睡状態は6週間
車の駐車場所を忘れる
ダブルブッキングをする
持ち物を紛失する
使ったお金の説明ができない
予定していたことをし忘れる
即時記憶はいいが
遅延あるいは妨害後の記憶に問題あり
新情報の学習は困難
認知能力は(記憶を除けば)よい
逆向性健忘、三ヶ月の記憶の空白
曜日を忘れる
言われたことを忘れる
物の置き場所を忘れる
場所の行き方を忘れる
運動性構音障がい
空間認知障がい
意味的記憶の障がい
ミオクローヌス性痙攣
バリント症候群
知能低下
視覚失認
記憶システムの修復を考えているのではなく、
ある種の記憶補助具や代償ストラテジーを紹介する。
日常的な問題への対処を助ける。
記憶の回復を望むというよりも
損なわれた機能を代償する
記憶障がいを回避できるような援助法を見つける
効果的な学習法を見つける
介助なしではほとんど何もできない。
カップから援助なしでお茶を飲む
週1回、1時間の個別セッション
4人(記憶障がい患者)との2時間のグループセッション
記憶日記
記憶補助具
外的補助具:日記、ノート、腕時計型データバンク
記憶術:語頭文字、顔ー名前連合法
リハーサル法:PQRST法と棒暗記リハーサル法
連鎖化:短い道順を教える際に有効だった
PQRST法(
(Prevew,Question,Read,State,Test)
頭文字ヒント法
場所法
物語法
視覚的記憶術
顔ー名前連合法
介助なしでステップを完全遂行
言語的な促しが必要
軽い身体的な促しが必要
完全な身体的誘導が必要
セイラーはいつもカップから飲めるようになった。
記憶機能全般が改善することはなかったが、
記憶補助具や代償ストラテジーを使用する回数が増えた。
過去の失ってしまった機能について考えるのをやめ、将来について考えるように変わった。
起こっている出来事をその都度その場で記録するようになった。
アラーム付き時計、日付付き時計、システム手帳、日誌、ノート、する事のリスト、壁掛けカレンダー、内的追想法、他の人に声かけを頼む
日常生活での自立性を予測。
アレックスは自立している。
18のステップのうちの14は介助なしで遂行できるまでになった。
記憶障がいのことは、大して問題にしていません。
覚えておくという能力の喪失を悲しがるつもりはありません。
前よりも思索的で、より深遠な思索をするようになりました。
これについて私は快適に思っていますし、自分の性格に合っているように思っています。
脳損傷後の記憶障がいに悩む人々のために地元の自助グループや支援団体で活発に活動している。
テレビやラジオのドキュメンタリーにも出演。
重篤な器質性記憶障がいを克服して一定の達成を得たことを実感し、ある種の自尊心を持つに到っている。
記憶障がいによって生じるフラストレーションやストレスをいくばくかかかえているが、アレックスは偉業を成し遂げたことは疑いない。
事故の後で、仕事を持ち、結婚し、父親になったのである。
さよならの時はどのように手を振るかと求められて「そんなことを私に頼まないで、私ができないのを知っているでしょう?自分が馬鹿に思えてくるんです思えてしまうんです」

52:音楽療法            2004年3月13日転記

ドン・キャンベル著 「モーツアルトで癒す」より
アメリカのブロンクスにあるベスアブラハム病院の音楽と神経機能委員会(オリバー・サックスも創始者の一人)の療法士は「音楽がさまざまな方法で神経機能回復に貢献している。音楽は神経細胞の再生を促し、新しい神経の結合や神経経路を確立させ、機能回復にかかる時間を短縮する」と述べている。
南フランスにあるベネディクト修道院の修道士たちは倦怠感、疲労感、若干の鬱状態を示していた。修道士たちの気力が減退した原因はグレゴリオ聖歌を数時間歌う日課をはずした結果だった。讃美歌は修道士たちの呼吸を落ち着かせ、血圧を下げ、気分を高揚させ、生産性を向上させていた。グレゴリオ聖歌の日課を復活させた。その効果は劇的に現れた。6ヶ月で修道士たちは再び元気と健康を取り戻した。

モーツアルトはハミングしていた。手紙の中で彼はその方法を次のように説明している。
「私らしいとき、つまり、完璧に本来の自分になるとき、まったくの一人のとき、そしてご機嫌のとき・・・考えは冴え渡り、構想が満ち溢れんばかりに駆け巡る。そうした構想がどこから、どうやってくるのかはわからない。また、それらを私がどうこうできるものでもない。いつも気に入った構想を記憶にとどめ、聞いたとおりに、自分にハミングして聞かせるのだ」
母音を伸ばして発声するトレーニングは、普通、脳波のバランスを整え、呼吸を改善し深くし、心拍を下げ、幸福感を与える。1日5分間練習すれば、トレーニングによる自分なりのプラスの効果を発見できるだろう。

51:ヘンリー・Mと正幸

フィリップ・J ・ヒルツ著 「記憶の亡霊」より

ヘンリー・M

正幸

てんかん患者(1953年以前)

大学生(普通)(1996年以前)

海馬の大部分、海馬傍回、それに付随した内嗅領皮質と周嗅領皮質と呼ばれる構造、そして小脳扁桃を取り除いた。(手術により)

飲酒し、運河に転落。20数分の心肺停止。

集中治療室での4日間の意識不明、昏睡。

低酸素脳症。

新しく何かを知るということがまったくできない。

ほぼ同じ。音楽をくりかえし聞くことで歌詞を覚える。

人間性が失われ、友情はもちろん、どんな人間的な結びつきも不可能

人間性が失われているとは思えない。新しい人々との交流が正幸を新しい人に向かわせている。ただ、人間的な結びつきに関心を示さない傾向がある。

直前の出来事を思い出したりといった短期の記憶は残っている。

短期記憶は確かに残っている。

しかし、その瞬間から数分たつと、何も分からなくなってしまう。

まったく同じ!

入院中、トイレがどこにあるか覚えることができなかった。

トイレも病室が何階の何号室か覚えれなかった。

家に戻る道が分からなくなってしまう。

まったく同じ。なんどか行方不明になる。

同じ本をくりかえし手にして、はじめてのように読む。

まったく同じ。同じマンガの本、競馬の本を繰り返し読んでいる。

いまが何年か、自分が何才かといった概念がまったくない。

まったく同じ。23才あたりで止まっているようだ。季節、月、日、曜日の感覚が失われているようだ。

自分が映っている写真を見ても、自分だと認めない。

写真による自分の認識ははっきりできる。

電気カミソリの使いかたが分からない。

使い方は分かるようだが、使うことができない。指示を出せば、歯磨きも入浴もできるのだが、まんべんなく歯を磨けない。身体を洗うことができない。記憶の障害と日常運動の関係、深く関わっているに違いない。

だれかの指示がないかぎり、何ひとつすることができない。

まったく同じ。日常生活のひとつひとつを指示せねばならない。指示を出せば、ある程度までできる。自らの意志でできることは、なんなんだろう?

ある場所からある場所に移動するという動機がまったく欠けている。

ほぼ同じ。何かをしたいという動機がほとんどない。

次は何をするということが、まったく分からない。

まったく同じ。ネクストがない。現在(いま)が次につながっていかない。連続性がなく、いつも「いま」のままである。

トイレから出てきた後、作業所がどこにあるのか分からなくなった。

まったく同じ。異なる場所でトイレから、その場所に帰ることができない。数年間通い続けている教会で、ようやく部屋にもどってこれるようになった。

彼の前を通り過ぎるどんな出来事も、決して保持されることはない。ヘンリーはだれひとり覚えていなければ、どこに自分がいるかも、何が起こったかという感覚もない。何もかも、ほんの一瞬現れたかと思うと、たちまち闇の中に消えていく。

まったく同じ。正幸に現れるすべての感覚は現在という短い時間の間だけのように見える。次もないし、前もない。われわれにとって連続していない一瞬のなかで生きている。が、辛いという表現がない。それが不思議である。

時間に対して盲目であるヘンリーは、つねに現在というバブルの内部に生きている。1953年の夏の少し前の時期からいままでの40年の間、自分の人生に起きたことを何も覚えていない。

まったく同じ。1996年4月から2003年の12月までの7年余り、正幸はすっぽり空白となっているみたいだ。なんの思いでもエピソード記憶も持っていないように思える。

ヘンリーは怒りを示すだけでなく、愛情もまた表現する。だがこの場合も、やはりあっというまに終わってしまう。

サラブレッドのアクシデントのシーンやテレビドラマの感動的な場面で顔をゆがめ悲しむ、愉快なところでは声をあげて笑う。しなし、何を見ていたか答えることができない。

ヘンリーは見ることができ、知覚することができ、解読することができる。対象とその意味を認識することができ、思考のなかでそれらを操作することができる。理にかなった行動や、笑い、または苛立ちによって反応することができる。だが、すべては海馬に集まったとたんに脱線してしまう。

未来の思考のために保持されるものは何もなく、恒久的保持の領域に送り返されるものもない。

経験の流れのなかから新しいものをすくい取ることは、決してできないのだ。

同じ。見ることも聞くことも、読むこともできる。感じているものが何であるか答えることもできる。ただし、「何を見てるの?」と聞かねばならない。ドラマの感想を述べることはできない。
あまりしつこく聞くと、トイレに逃げるか、「うるさい」と照れ笑いを浮かべながらいう。

食事することはできる。しかし、食事に到る準備をすることができない。

人間がそれなりの能力を持ちながら、それでいてなおこの世界で生きるための手がかりがひとつもないなどということがふつうは考えられようか。いまのヘンリーがまさにそれである。

彼の場合、多くの能力が無傷で残っていながらも、生きていくためには十分に保護され、世界のきびしさから守ってもらわなくてはならない。

まったく同じ。ひとつひとつの能力は1996年当時のまま残っているのだが、それらの使い方を忘れてしまっているか、引き出すことができない。

正幸の場合も、家族や知りあいの介護なくして生きていくことはできない。

記憶喪失

記憶障がい

50:ヘンリー・M・シンドローム

 脳損傷や記憶、脳科学の本を読むと必ずといっていいほど登場してくるH・M、つまりヘンリー・M。

彼の存在よって脳の研究が飛躍的に発展してきたといっても過言ではない。いわゆるてんかん患者だ

ったヘンリーが手術により海馬を摘出し、生存している現在から先の記憶をまったく蓄えられなくなって

しまった。1953年から何年たってもヘンリーは1953年だった。当然、ヘンリーは一人で生きていくこ

とはできない。日常生活も社会生活もできない。見た目には普通の人と変わらないにもかかわらず、ヘ

ンリーは今なぜここにいるのか、何をしようとしているのかわからない。

 ヘンリーは人生の中途に脳に損傷を受け一人で生きていくことができないというかなり重度の障がい

を持ってしまった。ヘンリーの多くの人たちの介護によって生きてきた事実がそれをはっきり物語ってい

る。

 正幸たちの低酸素脳症による脳の障がいがヘンリーを暗示していること、ともに介護している家族に

とって辛いことであるがあまりにも明白である。

 よって帰納法的に正幸はヘンリー・M・症候群である。
 

49:4・高次脳機能障がい

発症以前のことはわりあいと記憶している。医学用語で前向性健忘、発病以降に経験した新しい事実や事件を再生することができないという記憶の障がい、瞬時記憶も損なわれている場合は意識障がいや痴呆を疑うと書いてある。
きのうの夜の散歩で正幸に聞いてみた。「夜の水元公園、いいな。二人で散歩するとしたら、誰と散歩したい?」と。正幸は即座に、あたりまえのように「ゆきちゃん」と答えた。過去の記憶はみんなではないがある程度残っていると見ていい。賛美歌の歌詞も覚えている。なにが?と思われるだろうが、正幸には重篤な記憶障がいがある。日々生活を共にしている家族にしかわからない重篤な記憶障がいと併合する様々な障がいがある。動ける足を持っていながら正幸を決して一人に放置することはできない。

高次神経機能障がい、高次大脳機能障がい、高次脳機能障がい、どれが本当?
高次神経機能障がいは大脳皮質の連合野を中心に局所的な障がいによって起こる神経症状と考えられるとある。
高次大脳機能障がいは疾病や事故による脳損傷の為、言語や思考、記憶、行為、学習、注意、感情などに障がいを生じた状態であるとある。
高次脳機能障がいは交通事故などによる外傷性脳損傷などにより、失語、記憶障がい、判断・遂行障がい、認知障がいなどの後遺症とある。
症状、状態、後遺症。
そして定義は確立していないとある。
同じなのか違うのか、どう判断します?


高次脳機能障害支援モデル事業の中間報告(2003年3月)に載せられている高次脳機能障害の定義をそのまま、ここに書いてみます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「高次脳機能障害」という用語は、学術用語として脳損傷に起因する行動障害まで含めた認知障害一般を指す。この中には当然のこととして巣症状としての失語・失行・失認などが含まれる。今次、本邦において高次脳機能障害支援モデル事業を通じて集積された脳損傷による高次脳機能障害のデータを慎重に分析した結果、これらの巣症状以外に、記憶障害、注意障害、遂行機能障害、社会的行動障害などの認知障害を主たる要因として、日常生活及び社会生活への適応に困難を有する障害者群が存在することが明らかとなった。そこで、この障害者群が示す認知障害を行政的に「高次脳機能障害」と呼び、この障害を有するものを「高次脳機能障害者」と呼ぶことにする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
障害者群とは何等かの原因によって中途的に脳損傷を負い、その中でも認知障害を指すと考えていいのでしょうか?つまり、「高次脳機能障害」とは「脳損傷」による脳の機能障害の一部、行政的に障害と認められていない記憶、注意、遂行機能など、いわゆる脳の働きの中で高次なものといわれているものに限定されているのでしょうか?
脳損傷の中で「高次機能障害」という名で呼ばれるということは何を意味するのか。
考えただけで恐ろしくなってきます。

48:続々・高次脳機能障がい

続々高次脳機能障がいの?
高次脳機能障がいって障がい名なのだろうか?
身体障がいとか知的障がいとか精神障がいとかと同列の障がい名なのだろうか?
どうも違うような気がするのだが・・・「高次脳機能障がい」と名づけた最初の人は障がい名として名づけたのではないのではないか。
脳は数え切れないほどの部位がそれぞれの働きを担っていると同時に全体としての働きをしている。脳の機能は全体と部位が部位と部位が連絡を取り合って成り立っている。ある部位が損傷すると脳の機能はその部位からの連絡が途絶え部分的に働かなくなってしまう。
なにをもって「高次」というのか判断に苦しむが、対象は人間の脳であることは間違いない。
記憶、認知、遂行、言語など、どの部位が損傷すればどのように影響が出てくるか、言い換えればどの部位に障がいがあれば脳の機能がどのように働かないのかということではなかったのではないだろうか。
その結果が記憶障がいであったり、認知障がいであったり、言語障がいであったり、人格障がいであったりではなにのだろうか。
「高次脳機能障がい」とは脳の機能のショートを表現する言葉であって障がい名ではないと判断した方がよいのではないか。前頭葉や側頭葉などの皮質と、海馬などの辺縁系との相互コンタクトして体や心に通信する、それが脳の機能とするなら、「脳機能障がい」とは何等かの原因でその機能を果たせなくなるという現象のことであって、障がい名では決してないと言い切りたい。障がい物競争のように脳のどこかに障がい物があって連絡が遅くなるとか、できないとかという脳の現象名である。
身体障がいなどの障がい名と同列のものではない。
そもそも「高次脳機能障がい」という「高次」の部分に違和感がある。

47:続・高次脳機能障害の?

続・高次脳機能障害の?
ヘンリー・Mは重いてんかん予防のため海馬をすべて取り去ってしまい、その後の人生は病院で過すことになってしまった。フィアネス・ゲージは鉄の棒が脳を貫通する事故により人格が変わってしまいあまりにもみじめな、あまりにも短い人生を終わらせてしまった。エリオットも髄膜腫により適切な行動ができなくなってしまった。
高次脳機能障害という言葉は一つもでてこない。
いずれも人間としての日常生活をおくることができなくなった脳の損傷による障害だ。脳の神経細胞のどの部分が損傷し、どのような具体的な障害が起きているのかをかなり詳しく調べている。実際的であり具体的でもある。このような人間に生活保障が必要であるかどうか、介護が必要であるかどうか、はっきりわかる。
昔から今までの日本の場合は、あまりにもいいかげんとしかおもわれない。
脳神経の医師にしてみれば多くの文献からどからどの部位の脳損傷であれば重大な障害が伴うとわかるはず。障がい者の存続は協力者なしには、また福祉なしにはありえないこともわかるはず。それが過去、医師から家族への働きかけはなおざりにされてきた。そして、いまは簡単に「高次脳機能障害ですね」の診断だ。本当に、わかってるのか!と言いたい気持ちだ。この言葉に最低の意味が隠されているとわかって言っているのか。
診断する金本意の医師には都合のいい言葉が生まれたものだと思わざるを得ない。なんでもかんでも「高次脳機能障害」と言っておけばいいのだから。
恐ろしい言葉だ。医師もダメにするし患者家族をもダメにしてしまう。
いま、患者と家族と一番密接になっているのは療法士たち。かれらが一番よく現実を捉えている。あまりにも簡単に高次脳機能障害と言ってしまうことへの混乱と不思議さ。
「高次脳機能障害」がまるで生き物のようにかってきままに歩き出さないうちに止めなければ、脳損傷がすべて人間失格(人間機能障害)となってしまう。

46:高次脳機能障害

高次脳機能障害の?

記憶とか認知とか遂行とかにハンデがあり日常生活(仕事も含む)を一人ではこなしていくことができない、介護なくし

て生活は不可能というのが高次脳機能障害だったはず。

範囲が知らぬあいだにどんどん広がり、一人で生きていくことに支障のない人たちにも「高次脳機能障害」がまるで流

行言葉のようにいわれているようだ。

変だ、おかしいとおもわないのだろうか。

人間の人間たる根本を失うのが高次脳機能障害という言葉の意味なのに、「わたしは高次脳機能障害です」とか、「

子供は高次脳機能障害です」とか、よくぞ言えるものだ。

高次脳機能障害と認定された人とはどんな人なのか、

もう一度、よく考えた方がいいのではないか。

もっともっと、高次脳機能障害とは?なんなのか。

この言葉は正しいのか。

日本以外の国ではなんと呼んでいるのか。

このように人間性を否定する言葉でいいのか。

誰も声をあげないとは・・・ただただ受け入れてしまったのではないか。

もっともっと考え討議してもらいたい。

正幸を「高次脳機能障害者」とは呼ばせない!

46:ファインバーグ 「自我が揺らぐとき」

  脳卒中、脳梗塞、脳腫瘍などで脳は比較的簡単に損傷を受けてしまう。いずれも酸素や栄養素を運ぶ血管が様々な原因により流れなくなる部分が確実に破壊されていく。これまで何の不自由もなく生活し社会参加してきた人たちがある日突然、見た目は普通の人なのに、障がい者になる。それは、わたしやあなたであってもちっとも不思議ではない。ごくふつうの人々におきる出来事なのだ。交通事故、災害(天災、人災)、戦争、テロ、医療事故、突然の呼吸困難などなど、わたしやあなたに降りかかってきてもちっとも不思議なことではない。不幸にして命を失ってしまう人たちも数え切れないほどいる。わたしやあなたの存在はわたしやあなたのすべての祖先がそれらをすべて免れてきたことを意味する。
脳を損傷することなく通過する人たちはさいわいである。
わたしやあなたのすべての祖先はさいわいであった。
しかし、わたしやあなたがさいわいである保証はなにもない!

トッド・E・ファインバーグの「自我が揺らぐとき」 吉田利子・訳 (岩波書店)を読んでいたら、横浜市大病院に入院していたころの正幸の作話が明瞭に蘇ってきた。
そうだったのか。
「父が入院してるんです」
「おとうさん、バハマでけんかしてたよ」
みんなで大笑いしたけど、これが脳損傷だったんだ!

45:低酸素脳症について感じること(2003年8月 記)

 低酸素脳症 脳に酸素が供給されない状態になると死もしくは生、死を免れた生の者が負っていかねばならない生

と死の限りなく近づいている部分、重なりあっているかもしれない部分、およそ生きつづけているわれわれには想像す

ることのできない神秘でもやもやした部分、そんな部分に正幸たち、低酸素脳症者はいるのではないだろうか。

 それが、不安定なのか、それとも宗教家が求めている解脱の状態なのか、まったくわからない。低酸素脳症者がす

べて正幸のような状態ならば、これ以上でもこれ以下でもないという現状を受け入れて家族や地域やグループで介

護・日常生活援助をしていかねばならない。これは明白な事実である。過去、大学まででたとか、一流会社に就職し

ていたからとかはなんの力にもならない。彼らはもはや一人で生きていくことができないという事実を家族や地域や

社会はしっかり受け止めていかねばならない。いま、家族の段階がようやくというところだろうか。社会や地域や協力

者に働きかけていく前に、家族は嫌でも現状を受け入れ受け止めなければならない。家族だけではいずれ、近い将

来、介護する側が倒れてしまう。その前に、社会に地域に実情を知ってもらわねばならない。両手をなくしてしまった

人たちと、両足を動かせなくなってしまった人たちと、我が家の低酸素脳症者Aは、『まったく同じです!』と。見た目で

は普通の人とかわらないように見えるが、本当のことを、真実を、これでもかこれでもかと訴えていきましょう。


44:2003年6月25日 読売新聞夕刊より

 「再生医療」を高度先進医療に

 厚生労働省は25日、骨髄の細胞を使って血管を再生させる「再生医療」について、検査費など医療費の一部が公的医療保険から給付される高度先進医療の適用対象に認めることを決めた。同日の中央社会保健医療協議会(中医協)に報告し、了承された。再生医療は、けがや病気で機能が損なわれた組織を復元する新しい技術で、高度先進医療の適用になるのは初めて。
 今回認められるのは、骨髄の中にある幹細胞を患部に注入し、血管を再生させる技術。関西医科大病院、久留米大病院、自治医科大病院が昨年7月、高度先進医療の適用を厚労省に申請していた。「閉そく性動脈硬化症」や、原因不明の「バージャー病」などに興かがあるという。
 

43:名前

ダニエル・スチィ−ルの「輝ける日々」を読んだ。病名が分からない、認定されないので薬が出ない、医師不信になる。ごくごく最近でもアメリカは日本と同じようだ。躁鬱、注意欠陥障害など外観が普通に見えるばっかりに学校も周りの人たちも、医師さえも「なんでもない」という。ニックは煌めきのある人生をおくれるはずだった。読んでいてGくんが浮かんできた。何も手につかなかったママが浮かんできた。
われわれも高次脳機能障害という名前にぶつかって正幸の障害名がみつかったと喜んだものだった。しかし、よく考えてみると何にも分からない。あまりにも非人間的な名称であることに気づいて、なにかこの高次脳機能障害という名称に疑問を抱かずにいられない。こんな総合的な名称ではわれわれの抱いている不安は何一つ解決されない。まだ日常生活・社会生活障害のほうが人間的だ。人間だけにあるといわれている高次なレベルの脳の機能に障害があるという意味での高次脳機能障害だろうか。低次といわれている運動機能を司っている小脳や皮質の頭丁葉などの運動野もまた、記憶や注意、意欲、情動と連動している。たぶん、運動はできるが人間的なものをなくしているという意味での高次脳機能障害、この呼び名はそのようにとれる。いまとなってみれば、注意欠陥多動性障害(ADHD)とか進行形記憶障害とか・・・・ある。そして、介護なくして日常生活をおくることができない。


42:脳の可塑性


「脳はいかにして神を見るか」より
ー祈り、勤行、瞑想、激しい身体活動などの儀式的動作が、血圧を下げ、心拍数や呼吸回数を減らし、コルチゾールのレベルを低下させ、免疫系の機能を高めることが確認されている。

「脳のはたらきのすべてがわかる本」(ジョン・J・レイティ)より
ーミネソタ州の人里はなれたマンケートの聖母女子修道参事会では90才以上が大半を占め、100才を越える者も驚くほどの人数にのぼる。・・・・100以上の尼僧の脳を調べあげたスノードンによれば、通常なら年をとるにつれ減少する軸策と樹状突起も、知的刺激を存分に受けると分枝して新たな回路を形成し、回路が欠落するという不測の事態に備えた強力なバックアップ体制が整うという。
ーヒトの脳はびっくりするほど柔軟性に富んでいて、回路を常に立てなおし、学習の手を休めることはない。学問ばかりでなく、経験、思考、行為、情動によっても間断なく変化し、筋肉並みに脳を鍛えて神経回路を強化できる。しかし、そのままにしておけば衰えるしかない。モットーはやはりこれだ。「使え、さらば救われん」。

41:あきらめない

「あきらめない」にこんな文章が載っていた。
ー医学の世界も日本では情報公開が遅れている。水俣病も薬害エイズも、きちんとした情報公開がおこなわれていたなら、起き得なかった事件であるー
情報公開とは医師同士ではなく、一般の人たちにという意味であろう。全国にたくさんの大病院がある。多くの医学部がある。患者はかかった一つの病院で埋もれてしまう。高次脳機能障害支援モデル事業にしても情報公開の遅れとならないように、すでに数え切れないほどの埋もれ抹消された高次脳機能障害者がいたことを忘れてもらいたくない。事例集を集めようとすればすぐ集まるはず。病院や大学側に情報公開の意志がなかったか、取るに足らない例と判断したか。日常生活を一人で出来ない障害は医学的研究対象からすればつまらないことだったのだろう。21世紀は「脳の世紀」と呼ばれるようになってから、やっと、という感じである。鎌田實さんのように患者とその家族のことを考えた医療がどの地域でも行われるように切に願う。

     

40:低酸素脳症の正幸の場合。モデル事業の支援評価表にのっとって

 @身体介助
  1 ベッド上での起床・就寝の介助 
     就寝時、ベッドにうまく寝れない。位置判断ができない。
  2 洗面・歯磨き・髭剃り・化粧などの美容に関する介助
     すべて、できない
  3 衣服の着脱介助
     できるが、時間がかかる
  4 移動に関する介助
     不完全だが、できる
  5 夜尿起こし・トイレ誘導の援助
     頻繁にトイレに行くが、何人かと行動しているとき、「トイレ」と言えず失敗することがある
  6 排泄支援・介助、排泄時の問題行動への対応
     問題はすくなくなったが、大の時、便器を汚すことがある
  7 食事準備・後片付けの援助
     準備は不可能、後片付けは指示すれば可能
  8 食事介助
     ご飯やおかずの位置をそのままにして食べようとする。指示を与えなければならない
  9 食事時の見守り・観察
     好きなものを集中して食べてしまう
 10 洗身・洗髪の援助
     全援助 まったくできない
 11 入浴介助
     常に誰かが一緒に入る
 12 入浴中の見守り・観察
     誰かが一緒に入るので常に観察
 13 その他の介助
     外出時常に同行、一人で自宅に帰ってくることができない
 A生活援助
  1 金銭管理・出納に関する援助
     できるとは思うが、一人で外出させれないのでお金は持たせてない
  2 個別外出援助、交通機関・娯楽施設利用への援助
     すべて同行であり、指示のもとにあこなう
  3 時と場所にふさわしい服装への援助
     まったくできないので、指示
  4 衣類や身の回り品、居室整理・管理に関する援助
     言わねばそのまま、まったくできない
  5 外出・買い物の援助
     一人ではできない
  6 無断外出、火遊び、虚言、盗癖への対応
     無断外出は徘徊につながるので常に監視
     火遊びはなし
     虚言  なし
     盗癖  なし
  7 飛び出しや多動など、突発的な行動などへの対応
     飛び出しは危機意識があり、なし
     多動 緊張するとあり
     突発的な行動 いまのところない
  8 つよいこだわり対する対応
     こだわり、犬に対してあり
  9 睡眠障害への対応
     なし
 10 偏食・過食・異食・過飲・反芻への対応
     食事への関心が異常にあり
 11 排泄に関する問題行動への対応
     異常に「トイレ」という
 12 器物破損など破壊行為への対応
     いまのところ、これまでなし
 13 自慰行為、常同行動などの自己刺激行動への対応
     自慰行為とはおもえないが人がいても性器をいじっていることが多い
 14 他人に対する暴力行為への対応
     暴力はいままでないが、他人をじっとみつめてしまう
 15 生活全般における活動の不活発への対応
     まったく自主的な行為がみられないので、朗読、歌、散歩
 16 自閉傾向への対応
     いまのところない、積極的に外出したがる
 17 パニックへの対応
     なし
 18 性的行動への対応
     ないようで、あり それでよし
 19 入所者(対象者)間のトラブルの仲裁
     散歩中、他人を視線を外さずみるので、たまにトラブルあり
 20 その他の援助
     協力してくれる人たちとの交わり

39:中間報告より1

 事例集から低酸素脳症の例より

 @冠萎縮性狭心症による低酸素脳症(男性、29才) 
    平成14年4/22より→4/25覚醒傾向→5/14転院→5/21ベッドサイドでOT開始→6/21ICD埋め込み術施行
    →7/8より訓練実施
    職場の理解のもと職場復帰支援
    
    空間認知障害、失計算、障害の自己認識力の低下、手指巧緻動作障害、職業復帰困難、
    記憶・記銘力の低下
    
 Aてんかん発作による低酸素脳症(男性、54才)
    平成9年より→3日間昏睡→夜間徘徊→転院6ヶ月入院(記憶障害)→老人病院に転院1年4ヶ月入院→
    精神保健福祉センターに転院→精神障害者生活訓練施設に入所。単身生活への支援。
    
    記銘力障害、注意障害、遂行機能障害

 B心筋梗塞による心停止後の低酸素脳症(男性、38才)
    平成13年1月より→約1ヶ月で意識回復→転院、行動障害で1日で退院→再入院、大声、唾吐、噛み付き
    →在宅→入院、介護指導、支援→在宅、肺炎→再入院

    見当識や知的機能などの全般的精神機能の障害による重度の認知機能および行動障害。
 

38:高次脳機能障害支援モデル事業 中間報告書

 高次脳機能障害モデル事業の中間報告書をぺらぺらとめくってみた。目新しいものはなにも感じないのは、なぜだろう。国家的事業が全国で324件の調査しかできないとは、驚き。もっともっと事例があるはずなのに、医療機関の不可思議な壁を感じてしまうのは自分ひとりだろうか?事例集はいくら分厚くてもいいが、高次脳機能障害支援を目指す、啓蒙するのならば、もっと簡潔にしてもらいたかった。これじゃ、読む人、どれだけいるだろうか?何でも長ければいいというものではない。国の仕事はいつもこうだ。読まれないとしても、この報告書が全国の主だった医療機関や自治体に配布されんことを願う。

37:「パパの脳が壊れちゃった」

 キャシー・クリミンスの「パパの脳が壊れちゃった」を読んだ。夫婦と娘の三人家族に突然の不幸が降ってくる。モーターボートどうしの激轍により夫は脳外傷という脳損傷を負ってしまった。その日を境にして夫のアランは劇的に変ってしまった。ヘルメットをかぶるべきだったとキャシーは主張している。刺激的な言葉が随所に出てくる。著者のキャシーは脳外傷というものがどんなものか、どれほどひどいものかを正直に余すところなく表現している。その一つ、「脳外傷は、いわば不完全な死なのだ。その人の全部あるいは一部が失われたのに、まだ存在しつづけている。人間の性格がどれほど不安定になり、変わってしまうことか。」
不完全な死。生きているので完全な死ではない。その日を境にして、当事者は一人で日常を生き抜いていくことができない。脳外傷のアランの場合はかなりの部分が回復し、一人でできる分野が少しずつ増えてきているが、脳損傷に完全回復はありえない。どんなに回復が年単位で進んでいっても、以前のアランにはもどらない。脳外傷の夫婦で離婚しないのは25%。それほど以前の人格は失われてしまうようだ。

36:雑感(2003年3月2日)

  最近、といっても1年以上前からだが、「高次脳機能障害」という言葉にしっくりこない気分が張り付いてる。かって息子正幸の障害名が見つかったという喜びの気分は、いまはない。戸惑っている。本当に、これでいいのだろうかという思いのほうが強くなってきている。正幸は「高次脳機能障害者です」というのになんだか違和感を覚える。高次脳機能障害、分かるようでいて、まったく分からない。脳の損傷による高次な部分の障害、これじゃあ分かっていないも同じことだ。いまだ、脳のことが分からない時代に生まれた言葉なのだろう。脳の科学が急速に解明されようとしているいま、高次脳機能障害という曖昧な言葉はどうなのだろう。昨年記した35の項目で高次脳機能障害と書いているが記憶障害(正幸の場合)に改めようと思っている。

35:脳損傷による高次脳機能障害(4月10日から入院した時、病院内で書いたもの)

 

脳損傷による高次脳機能障害

                  文責   谷口 正信

はじめに

ただ単に障害者をかかえた素人の親の気持ちと思って聞いていただきたい部分と、素人の範囲を超えた部分で専門家の方々に真剣に取り組んでいただきたい意図もあります。近い将来、脳の病が解消されますように。

ひとつだけお断りしておかねばなりません。ここでは、あえて「脳外傷」という言葉を使用しておりません。脳外傷、日本語として理解しにくい言葉(個人的にかもしれませんが)だからです。脳は頭蓋と一体になって露出しているものと考えにくいからです。外傷薬で治療できる範囲のものという印象を聞くもの見る人に与えてしまうようにおもえるからです。

本文

何らかの原因(交通事故、病気、脳血管障害、医療ミス、水の事故、スポーツ事故、不慮の事故、自殺など)により脳に損傷を受けると損傷部位によって様々な障害が発生する。かつては体のほうは完治したから「もう治った」と言われ、意欲のなさや鈍いのは本人の性格の弱さ、周囲からは「なまくらな奴」と言われ、障害と判断されなかった。「性格が変わった」にしても「気の弱い奴」で済まされてしまっていた。ましてや、完治直前まで来ていると思われていたらなおさらのこと。「もっと頑張らんかい!」といわれてしまう。「頑張れ!」と言われても、なにをどう頑張ればいいのか、普通の人のようにスピードアップできない彼らを真実理解できる人はいない。いま、脳損傷による高次脳機能障害者は健常者扱いなのである。健常者のように見えてしまうという目に見えない障害が残り続けている。

意欲がない。(意欲があれば補助具を使用してでも記憶をカバー)

認知ができない。

なによりも今の記憶が残っていかない。

性格が変わってしまった。

など等。

当事者の前を知る家族や友人のみが「変わった!」と知るのみ。健常者と呼ばれる当事者の変化を知るのは、かず限りなく少数!!

てんかん治療のため海馬を除去した有名なHMはこの記憶の無さを次のように言っている。

「ちょうど今、私は不思議に思っている。私は何か変なことをしたり、言ったりしたか?今この瞬間にはすべてが私には明白である。しかし直前には何が起こっていたのか?私を不安にさせるのはそのことだ。それは夢からさめたような感じだ。私は覚えていないのだ」(blue backs脳の探検より)

 心臓バイパス手術の後、突然、脳に血液がいかなくなった郵便局員RB、その後何とか回復し、そのときはほとんどの機能は損なわれていなかったが、記憶力だけが失われた。RBは、手術を受ける以前のことは思い出せたが、新しく何かを覚えることはできなくなっていた。(記憶のメカニズムより)

今を覚えられないとは、どんな感覚なのだろうか?もともと息子たちはわたし達と同じように今のことを忘れないで会話のつながりを理解しながら受け答えしていた。相手の会話に対して息子たちの会話に不自然はなかったはず。ところが、おれ、さっき、こいつに何て言ったっけ?と、救命救急センターのロビーで思った瞬間、息子はなんて感じたのだろう。自分の病室に戻ろうとしても、エレベーターの階数ボタンを押せない。息子は激しい恐怖に襲われたのではないだろうか。

数少ない当事者の家族や友達には当事者の混乱・不安、あるいは極端にも、見かけは変わらないのに人間でなくなってしまった、と感じるだろう。

脳損傷者とその家族たちはいろんな本を読んで「海馬」という言葉に遭遇する。「海馬」が記憶の中枢であると。しかし、「海馬」はその一つに過ぎない。ジャーナリストのジョージ・ジョンソンは「記憶のメカニズム」の中で次のように書いている。

「海馬は、いまだに解明されていない信号を用いて、他の領域へとメッセージを発信し、また他の領域からのメッセージを受信するが、外の世界からじかに信号を受信することはない。信号が海馬に到達するまでには、さまざまな処理がすでにおこなわれているのだ」

動物は生まれてすぐ脳の成長は止まってしまう。生れ落ちた動物たちは短時間のうちに立ち上がり、歩き、生きるための習性を身に着けていく。ほんのわずかばかりの脳細胞の増加で。動物にとって障害を持って生まれてくることは死を意味する。未熟のまま生まれてくることも死に通じる。だからほとんどのことは母体で学んでくるのだろう。

それに反して人間は、生れ落ちてから後、学びの時間のなんと長いことか。ために赤子の時から大人になるまで、人間の大脳は4倍近くにまで大きくなってしまう。生きた後の学びのために人間の脳はスケールの大きな余力を蓄えている。

「私たちは、生まれてから最初の二十年間で精神的な道具を手に入れ、自分自身の物語が書けるようになってゆく。その後は、道具だてが変わることはもうないが、語る話の内容は変化する。私たちはまるでアーチストのように、思春期に初めて描いた自分自身の肖像画をたえず塗り替えながら、大人としての人生経験を積んでゆく」とはジョン・コートルの『記憶は嘘をつく』のなかの一文。

人間は生まれた後、たくさんの事を記憶し溜め込んでは改良していく。生まれて数週間で自立できる動物と違って、自立まで二十年以上もかかる。中学や高校で自立できると思っている若者が多くなってきたようだが・・・20才以降の脳損傷による高次脳機能障害の中途障害者は幸運にも、ジョン・コートルのいう最初の二十年間での精神的な道具を手に入れてしまっていることになる。しかし、彼らは塗り替えることができない!

そうでない健康な人たち、たとえ学ぶことを止めた若者たちでも、脳さえ守っておれば、いつからでも、どんなことに対しても再スタートできる。結婚して子供が生まれれば、育児を学んでいくことができる。文学に目覚めれば、小説も書くことができる。教会に赴けば、神の言葉に接することができる。大多数の人々は精神的な道具を不十分ながらも手に入れて、生きるための肖像画を塗り替えていくことができる。はたまた一念発起してニューロンを使い切り偉大な人物になることも十分に可能。

精神的な道具を十分に仕入れたのに、学びも遊びも愛も言葉も何もかも仕入れたはずなのに、止まってしまった。

今の記憶をHMのように残していけなくなってしまった脳損傷による高次脳機能障害者たちは、やり直しがきかなくなってしまった。希望校に落っこちても次へとやり直せなくなってしまった。受けたことも落っこちたこともはるかかなたへ消えてしまった。『生きる』ためのあらゆる肖像画を塗り替えることができなくなってしまった。自ら「生きるため」の塗り替えならぬまま、もう、そのまま!

何世代も経て学びを記憶し記録して蓄えていく結果、ダーウィンの進化論、アインシュタインの相対性理論、芸術家、職人もしかり、記憶の種類が違うにしろ、われわれ自身もその域まで学び取ることができる。さらにその上までもいくことができる。何世代にもわたって、男女間の子供をさらに素晴らしく育て上げていくことができる。(もちろん、そこからはずれる人々もわんさといるが、修正・修復が効く。ために主イエス・キリストが十字架を背負われ復活された)

動物たちは脳の成長が停止(学習は可能)してしまうので、生きている限り同じパターン。繰り返しになるが、成長し拡大していく人間の脳は、人間を不可能と思えるほど反省させ、古くて新しい知識を蓄えていくことができる。その、二十数才まで脳に知識を溜め込んできた若者が、ある日突然、反省、修正、修復ができなくなってしまう。

知識を蓄えていくことができなくなった人間!

今の出来事を記憶することができなくなった人間!

回復しているようでしていない、記録、録音などの別手段ができればいいのだが、記憶できないことを忘れてしまい記憶できない。

思い切って発言し問題を提起する。

これらの人間(息子)たち(脳損傷による高次脳機能障害者)は果たして人間と言っていいのだろうか?こんな種類の人類が生まれたと考えたほうがよいのか。(わたしは息子たちを差別してしまっているのか)

明日、いや今すぐにでもあなたがたも陥るかもしれない脳損傷によって、今を記憶できなくなった人たち。重大な、とても重大な障害問題であるにもかかわらず、健常人扱いが続いている。ということは?世は知って知らぬ振りをしているのか?それとも無知なのか。宇宙人あつかいなのか。働くことのできない脳損傷による高次脳機能障害者に国民年金の請求をしてくる。20才以上の大人だから、法律だからと。人間扱いしてやるから、最低の生活を保障するから年金を払え!昔で言う悪徳代官である。法律には例外は許されないらしい。(なのに、未払いの人々がいる。法律は?)元気な人に障害保険が支給される仕組みは法律なのか?

遅々たる高次脳機能障害モデル事業。あまりにも作業が遅すぎる。家庭訪問の連絡が来たという報告を聞かない。言うこととやることの違いは当たり前なのか。いつまで待てと言うのか。職業訓練所に通った脳損傷者たちの就職はうまくいっているのだろうか?脳損傷の高次脳機能障害者の総数のうち何人が働いて自活しているのだろうか?調べようがない!ちょっと曲がり道にそれてしまったようだ。

人間であることにはかわりはないのだが、彼らに人間として生きていく能力があるのだろうか。これ以上吸収することができないとすれば、これまでの知力や判断力で動物たちのように自立して生きていけるはず。しかし、動物としての人間として障害を持っている息子たち、果たして彼らを放り出して生きていけるだろうか?はっきりいってノーである。20才までの知識があれば、記憶を引き出せれば、現状と比較して可能かもしれない。様々な失敗をしても様々な罪を犯しても人間として生きていくことが可能、つらいほど可能。人は生きている限り、連れ合いを失った後の人生、失恋した後の人生、受験失敗の人生、大病を患った後も、失業した後の人生も環境の異なる人生を学びながら生きていかねばならない。どんなに突き落とされても人間ならば生きていける。

なぜなら余白の脳がまだまだ残っているから、これまでの知識とプラスして学ぶことができるからだ。人間の人生はこのように切り替えが効く。一つの夢、仕事に失敗してもNextがある。何度も何度もNextがある。これまでまったく知らなかった夢へのチャレンジであっても人間は学び自分のものにすることができる。いま、やっていることがすべてではない。生きる道は無尽にある。他の生きる道はわれにも可能!われの生きる道は他にも可能!

生きる希望をなくして自殺する必要などまったくない。生き延びるためにわれわれの余白の脳は考え記憶していく。気候の変化、マンモスをも死に追いやった氷河期を人間はともに学び、生き延びることを可能にしてきた。どんなに頓挫しようと意欲、認知、記憶の障害がなければ、再生は可能である!脳の活用が可能にさせるのだ。例えばノーベル賞受賞者、研究し続け脳をより深いものにしていく。年老いても脳は活発に動いている。神経細胞があるときからストップしてしまうと言う説は大間違いなわけだ。

同じ道程を進んでも同じ成果を得ることはありえない。だから脳の神経細胞は誰しも違っている。たぶん、伸びているシナプスの数が極端に違っているのだろう。天才は途方もないシナプスの数を四方八方に接近させて激しく情報を確認しているのだろう。しかし、ほとんどの者はシナプスを処理できなくなると負けたと判断してシナプスの量を減らしても大丈夫な別分野へ転進する。しかし、敗北しようが挫折しようが死にたくなろうが、命を捨てるまでのことではない。豊富な未使用のニューロンとこれまでのニューロンとで再び逞しく生きていくことができるはず。それが、人間!!

とまれ!

それまで豊富な知識をこれでもかこれでもかと脳に蓄えてきた青年が、ある日突然、その業を失ってしまった。そこで彼は自分自身をどうとらえたのだろう。終わりなのだろうか?と彼の頭をよぎり続けているのか?それよりももっと、記憶できない今は次の今にならないわけだから、彼には継続する今がないのだから・・・なんと表現したらよいのか分からない!瞬間、苦悩している顔を見せることがあっても、一ヶ月に一回?あるいは一年に一回ぐらいのものか。あとは介護者(ほとんど親)に起こされ、顔を洗ってもらい、歯を磨いてもらい、靴下を履かせてもらい、どこへも出かけないように監視される。HMの言うように今のことは完璧に分かったにしても、その今のことがすぐさま過去となり、誰と何を話したのか?まったく記憶していない。

たとえば、今、着替えようとしている。が、なぜパジャマを下げているのか、それともパジャマを上げているさいちゅうなのか?忘れてしまうことになり、どちらかと言うとパジャマを上げてしまう。

トイレに行った。終わったのか、これからするのか、これもどっちだったか忘れてしまう。完璧に催しているとき以外は、用を足すことなく出てくる。トイレに行く目的自体がわれわれと異なっている可能性がある。消え去ろうとしている記憶の再確認に行っているのかもしれない。そうだとしても記憶を自分のものにできないで帰ってくる。あまりにも多すぎるトイレ行きにはそれなりの理由がありそうだ。

油断しているといかにも自己判断で外出するかのごとく、着の身着のままで出て行く。普段着であれ、変でなければまったくの健常人。だれも、変人とは思わない。普通の青年がどこかへ出かけるのだろうとしか映らない。それよりも、何も変でないので、すれ違っても、意にも介さないだろう。家を出るときには家を出る目的があったかもしれない。しかし、すぐさま記憶の消え去る過去になる今を生きている外出者はなんのために家を出たのか忘れてしまっている。と同時に、いま、どこを歩いているのか、どこへ向かっているのかさえ分からず、無目的のまま、空腹になって歩けなくなるまで、どこかへ向かって歩き続けることになる。アルツハイマーと似ている部分があるが、決してアルツハイマーではない。βアミロイドの加齢による蓄積ではない。新しいこと、場所、人などがある日突然記憶できなくなる。歩いていても、店も町も看板も記憶できない。一人で外に出た青年はどうすればいいのだろう。

当事者を介護し続けている親が一番よく分かっているはず。もっと多くの介護者が当事者を伴って記録をたずさえて立ち上がってくれればいいのだが。事故という事実があるのだからわたしの子は脳損傷による高次脳機能障害者と判定するには時間が・・・病院での記録ファイルはなくなってしまっているだろう。

つい今日(2002年4月28日)のことである。角田光代さんが朝日新聞の朝刊に「人の多くの部分は記憶が支えている」と書いておられる。荒川洋治さんの「日記をつける」の書評で、答えられないことをきちっと答えられることの素晴らしさを言っておられる。記憶をきちんと残しておられるということ、意識にすら上らないほど、日記に記録してあると記憶していることを自覚している。

それが分からない。できない。記憶とは何なのか?

中途障害者の脳損傷は脳科学の中にも脳福祉(あればとして)の中にも入っていない。脳損傷の中途障害者の数の推移はどうなっているのだろう。救急医療の急速な進歩により命は救われるが後の問題は残されたまま続いている緊急治療の結果、調べるまでもなく急速に増え続けているだろう。覚えられない若者たちが、今も増え続けているに違いない。

高齢化社会になってのアルツハイマーやパーキンソン、脳梗塞や脳血管障害の克服を21世紀の脳科学で対処していくと理化学研究所の脳科学総合研究センターで高らかに宣言している。ここでも中途障害の脳損傷には一言も言及していない。しかも「脳を守る」と題しているにもかかわらずである。お年寄りの脳を守らねばならないのは当然として、いかにして増え続けてゆく若者たちの「脳を守る」を具体的に訴えていくかも大切なことである。しかし、20年後、脳の病気はなくなっているかもしれないとも言っている。「脳科学は、すでに発症してしまった患者の病態が改善するだけでなく、発症を予防できるようにすることを目指しています。病気の克服です」(貫名 信行)ここでいう発症してしまったという病態にアルツハイマーやパーキンソン、ハンチントンなどばかりでなく、中途障害の脳損傷も是非含めてほしい。間接的に脳損傷による高次脳機能障害も克服ならんことを!

朝起きて顔を洗うまでの長い時間、一日の始まりの手続きをなにもしようとせず、椅子に座り続けている息子。言ってはいけないことだが、言いたくないことだが、29才の人間とはとても思えない。「トイレは?」と言えば、トイレの便座を上げずに小便を。当然、便座はびしょ濡れ。便所のドアは開けっ放し、電気もつけっぱなし。その度に電気を消しに行かせるが、決して自分では消さない。着替えも長時間。椅子に座ったまま着替えようとするので立たせるのだが、脱ごうとするパジャマ、また着て座ってしまう。着替えたつもりなのだ。上着、ズボン、靴下と着終わるのにかなりの時間がかかる。着終われば、普通の青年らしくなる。息子の前にモーニング・アイスコーヒーがある。手を伸ばせばすぐの位置である。なかなか飲もうとしない。そのうちに朝食が並べられる。アイスコーヒーが手前にあってトーストや目玉焼きが遠くにある。アイスコーヒーをずらさねばパンも目玉焼きも取りにくい。そしてなによりも椅子をもう少しテーブルに近づけなければ食べにくいだろう。息子は何にも移動しようとしない。腕を曲げて窮屈そうにパンを取る。「アイスコーヒーずらしたら?」「もっと前に出たら?」と毎日のように注意されている。斜めの方向から手を伸ばしてテーブルと椅子の中間にぼろぼろ食べ物をこぼす。毎日のように注意しても正しい位置関係を理解することができない。なぜ、アイスコーヒーをずらして食べ物を前のほうに持ってこられないのか。

なぜ、それより先に、さあ食べましょうとテーブルと椅子の関係を考えられないのか。まずは食べること、なによりも食べること。

息子よ、それじゃあチンパンジーとおなじじゃないのか?

順次性とか便利性とか、考えてほしいんだよな。

注意しても注意しても変わっていかないとすれば・・・

これ以上、進歩改善が見られなければ、どうすることもできない。介護者はあきらめの状態に、誰でもなっていく。

誰も助けてくれない、誰も耳を傾けてくれない、隠れて生きていかなければならないのなら、わたしたちの存在理由も薄れてゆく、このままでは当たり前のごとくわたしが先に死に、日常生活をひとりではできない息子はいずれ一人に・・・共に死を待つことしかできないのなら、共に死のう。もちろん、こんなことがあってはならない。愛する者を道ずれにはどんな理由があっても許されるものではない。

やはり、このままでは彼ら息子たちは、個として判断すれば人間とはいえないのではないか?親としてあるまじき気持ちになってしまう。昔のように人の前さらけ出してはいけない伝染病患者、精神異常者たちは隔離されても人間だった。明らかに人間としての思考能力を、記憶をたずさえていた。なのに、息子たちは・・・

いまや、知的障害者も身体障害者も精神障害者も健常者とともに外へ出よう、みんなと一緒に行動しようという時代である。健常者の意識レベル、知的レベルはものすごく向上している。中途障害の脳損傷の高次脳機能障害者たちとその家族は、いま、非常に中途半端な立場にいる。これまでの障害者と違ってレベルの差がとてつもなく広く、こんなことは言いたくないのだが、ちょっと騙すだけで高レベルの障害を獲得できてしまう。判定を当事者への問答形式で決定するという愚かな誤りは避けてもらいたい。

残酷な表現だが、人間の姿をしていながら人間ではなくなってしまった。

何年も何十年も、悲しくて苦しくて辛くて、どうしようもなくて叫びたくなってくる。

それでもわたしの子は人間であると叫ぶ!

が、違う!!違う!

息子や娘や伴侶はわたしと違ってしまった!あの日以来、悔しさと歯がゆさにさいなまれる日々。彼らはまったく自らで生きていく術を忘れてしまった。家族と共にしか、いま、生きていけない。わたしの息子たちはあの日以来人間らしさを失ってしまった。靴下もパンツも自分ではけない息子たちに向かってわたし達は、それでも、誰より愛する“人間”だと叫び続ける。

大脳辺縁系、大脳新皮質のところどころの破損が息子たちを動物のようにしてしまった。失われ破損してしまった神経細胞(ニューロン)は二度と再生しないと言われてきた。確実なる失望を事も無げに医師たちは患者家族に宣言してきた。とすれば、不可思議なことがあまりにも多すぎることに医師たちは目を向けようともしない。いわゆる、習ってきたことはこうだから式の無慈悲の解説。せめて「成人の脳にも神経幹細胞が存在することが明らかになってきた」くらいの新しい事実で夢と希望を持たせてくれてもよさそうなものだ。どの当事者家族の言葉も医師に反発していることが多い。日本だけでなくアメリカでも「植物状態にあります。彼は脳に損傷を受けていて、発作を起こし、そして頭蓋に反応がありません。死は差し迫っています」「3週間は持たないでしょう」と脳損傷の神経細胞の死を強調するばかり。家族はどうすればいいのだ。ただただ助けてほしいと願うばかり。助かっても、それは人間としてではなく、非人間として!人間に至る道は断たれている!

つらいけど、憎いけど、6(数字は年々変わる)年たった今、認めざるを得ない部分が・・・

息子たちは、一体何者なのか?と問い続ける日々。

それぞれ愛する家族の一員であることには、これまで以上に強い。

この子のために生きるという家族の思いも強い。

だから、やっぱり、わが息子は誰よりも愛する“人間”だと叫び続ける。

だから、やっぱり、わが息子を誰よりも愛する“人間”として家族とともに、愛する人々とともに世界に出る。

ただ、ただ、待ち続けることはできない!

だれでも今すぐなりうる脳損傷による高次脳機能障害、この非人間的な日々を、誰よりも愛すべき若者たちに知ってもらいたい。「脳を守る」ために、脳損傷を避けるためにどんな方法があるのか、一緒に考えてゆきたい。

今の段階では間違いなく、医師の言うとおり回復の見込みはほとんどなく、その日から、君たちは非人間的な生活を家族とともに、あるいは施設の中でくらしていかねばならない。

元気なうちから頭を守る意識を持っていこう。

そのために、頭=脳の意識を毎日数回持つように!

周りを丈夫な骨で囲まれ、さらに頭髪。内側からでも脳血液関門で厳重に守られているはず。それで十分なはずだった。徒歩で移動し、曲がり角での衝突や落馬ぐらいしかなかった江戸時代では中途障害の脳損傷は少なかったことだろう。瓦の落下事故、喧嘩による事故、水の事故などで、なによりも交通事故はなかったろう。籠屋の事故もなかったろう。

しかし今はより早く移動するための道具、機械が氾濫している。頭=脳を無防備にさらけだしたまま道具を駆使し機械を活用している。小さな一個の石ころで脳損傷による高次脳機能障害に、という危険の中で生きている。

最早、大家族の時代も終焉した。愛するもの同士との生活は無防備の危険にさらされていると言っても過言ではない。

守られていない脳への恐怖を知るべきである。

ナノエコーは若者たちへ「頭=脳を守る」意識の高まりを啓発していきたい。

ナノエコーは様々な手段方法を考え「頭=脳を守る」ことを、より具体的に表現していきたい。

ナノエコーは「頭=脳を守る」を実践していくことで「平和」が訪れることを信ずる。

谷口 正幸の人生に意味あらんことを!

              

最後に有名なオリバー・サックスの「火星の人類学者」(吉田利子訳)の終章。

「わたしがとても不安なのは、こういうことなんです・・・」ハンドルを握りながら、ふいに口ごもったテンプルの目に涙があふれた。「図書館には不死が存在すると読んだことがあります・・・自分とともに、わたしの考えも消えてしまうと思いたくない・・・なにかを成し遂げたい・・・権力や大金には興味はありません。なにかを残したいのです。貢献をしたい・・・自分の人生に意味があったと納得したい。いま、わたしは自分の存在の根本的なことをお話しているのです」

 わたしは驚嘆していた。車を下りて別れを告げるとき、わたしは言った。「あなたを抱きしめさせてください。おいやでないといいのですが」そして、彼女を抱きしめた・・・そして、彼女もわたしを抱きしめてくれた(と感じた)。


  

34:中途障害

  再度、脳の本を読むと以前見過ごしていた発見がある。うっかりではなく、その当座は、
  正幸にとってそれほど重要なこととは思わなかった。今は各地に高次脳機能障害や脳
  外傷の会が立ち上げられ、関係文書も豊富になってきた。また、神経幹細胞のことや、
  いまだに「わたしは認知・記憶障害から解放された」という報告・記録がないことなど、な
  んと深い迷路にはまりこんでしまったことか。ある人が言った。過去の知識が残っている
  として、中途障害でも小中学から不登校になった場合と、教育を終えてから引きこもりに
  なった場合と違うと。前者は神経幹細胞が生まれたとしても知識を引き出すことも蓄える
  こともできないが、後者はしっかりした知識や経験が残っているのでそこにつながる神経
  がつくられれば社会復帰も可能と。これ、夢なのだろうか。頭の病気は治りっこないと諦
  念がどうしてもきてしまうこれまでだったが、そうではないのでは?
  放置されれば退化する。諦めは放置につながる。せっかく生まれてきた神経は短いまま
  退化していく。伸ばすためには伸ばすための教育が必要。中途障害者の義務教育、社会
  復帰のための義務教育によってシナプスは探りあてようと軸策を伸ばすはず。でなければ、
  新しい記憶が残っていくようになる説明がつかない。この教育を家族だけで行っていくのは
  偏った結果になってしまう。脳損傷中途障害者のための学校が欲しい。音楽や体操、社会
  理科、算数、国語などの授業でバランスよく脳神経の伸長を計ることができる。家族だけで
  行うことは放置につながる。
  

33:正幸の日常障害2

  これまでのことは、記憶を頼りにしなければならない。記憶はかなりいいかげんなことを
  伝えかねない。記憶はいろんなことを修飾して嘘をついてしまいがち。そのために日々の
  観察記述が重要になってくる。過去のことはこれまでの「きょうの正幸」を参考にしていた
  だくとして(どなたか正幸の日常障害の整理分類していただければ)、高次脳機能障害の
  実態調査の項目に照らし合わせて、これからの正幸を再び観察し治療に向かっていこう。
  モデル事業の審査項目も手に入れて、低酸素脳症による高次脳機能障害者はどんな項
  目を追加すればいいのか。

32:正幸の日常障害1(低酸素脳症による高次脳機能障害)

  わたしたちの日常生活、それは用に応じて自ら処理する世界。日々変化していく自分と
  周りに無意識のうちに対処している。だから生き続けることができる。
  高次脳機能障害のモデル事業が実施されている。識者は高次脳機能障害をどうとらえて
  いるのだろうか?はなはだ疑問、こうですという全体は伝わってくるけど部分が入ってこ
  ない。障害者の家庭に訪問してとも記してあるが、それが実施されているという情報は一
  向に入ってこない。失礼だがつまり病院に行ける障害者のみを手軽に診ているということ
  か。それとも、これからなのか。低酸素脳症による高次脳機能障害者を入院させて調べ
  るとなると莫大な人件費がかかるはずです。患者一人に最低二人の介護をつけてもらわ
  なければ、われわれは安心して入院させることはできない。
  みなさんは1日24時間の介護を嘘だと思ってやしませんか?寝てる時間は休んでるじゃ
  ないかと。家族はすぐ目覚める状態で休んでいるのです。愛する子どもだからできること
  です。愛する家族だからできることです。
  なぜ、訪問しますという案内がこないのだろう。不思議だ。
  ということは我々自身でやっていかなくてはならないってことか。
  これが低酸素脳症による高次脳機能障害者の現われている障害ですと。
  正幸の場合ということで(決してこれがすべての低酸素脳症による高次脳機能障害者の
  障害ではない)これまで見てきたことをこれから現われるであろうことを忘れないために、
  またいつかモデル事業の訪問者が来ることを期待して書き記していこう。

  
  

31:意識の継続

  低酸素脳症による高次脳機能障害者は体に欠陥がないように見えるが、最近、本当に
  そうなのかと疑問をいだかせることが多い。例えば、簡単な体操をする時、彼らは連続
  の動作をとることができない。そのつど終了体勢に入ってしまう。彼らの体操を見ている
  といつも始まりで終わり。順番に指を開いて閉じてを5回やってと言っても1回で終わって
  しまいそれ以上やろうとしない。これはこれまで意識の継続ができないからと考えていた
  が果たしてそうなのか。ひょっとして体が細かな動きを継続できないのでは。脳に原因が
  あるという早とちり、先入観ではないのか。継続的な動きの代表、歩行はできるのだか
  ら(何時間でも歩く)、簡単な体操ができないというのはおかしい。もし、体の障害ならば
  リハビリが可能、十分に可能。意識が継続しないという脳の致命的欠陥ととらえていたの
  でリハビリ不可と考えていたのだが、いま、原点にもどって試行してみよう。逆もまた真。
  

30:介護2

  育てると介護ちょっと似ている。一人では生きていけない人を他人が助けることを介護
  とするなら、われわれは子どもたちを介護していることにならないか。なんの苦痛もなく
  育っていくのを楽しみにしながら。こう考えようと思う。介護とすれば負担が大きい。だ
  れか助けてくれと叫びたくなる。低酸素脳症による高次脳機能障害者・正幸は成長しつ
  つある子ども。わたしたちは正幸を育てている。喜びを持って。息子は死に瀕しているわ
  けではない。亡き母の時、持てなかった共有時間はたっぷりある。正幸と同じ空間で同
  じ時間を持って成長していこう。亀の速度、蝸牛のように。
  それゆえ、子の場合と親の場合、介護はおのずと変わってくる。微々ではあれ成長を共
  有できる比重ははるかに子の場合のほうが大きい。親の場合、残された少ない時間を
  悔いなく共有することになる。ある程度、施設病院の協力を得て。また、伴侶の場合もあ
  る。いろんなケースがあるが、基本的には介護は家族がというのがどの国でもあたりま
  えのようだ。本当にそうなのか、それでいいのかをよく考えてみたい。福祉の進んでい
  る国ほど介護から自立へ向かっているようだ。ここでは、低酸素脳症による高次脳機能
  障害者を子に持った場合についてのみ考えてみたい。なお、彼らへの介護の根底にある
  のは回復である。また、これは決してマニュアルではない。
  低酸素脳症の特徴の
  a)意識が継続しない。b)関心度が小さい。c)悔しさが見られない。d)行動に意味を見
  出せない。これらの4点から介護についてどうすれば最適なのかを述べてみたい。

  a:意識が継続しないについて。
    彼らの特徴は目や耳から入ってくる特定の情報に敏感であること。介護者はそれが
    どんな情報であるかを知らなければならない。それを見逃すと彼らはしつこく情報を
    追求する。これは一見意識が継続しているように見えるがそうではない。その情報
    を遮断してしまえばすぐ元に戻ってしまう。この特定の情報はそれぞれである。彼ら
    の目や耳が情報をキャッチしても頭の中の残っていかないようだ。分かってるだろう
    と判断するのは危険。「ここで待ってて」と言っても彼らは待ってはいない。介護者に
    も生理現象は避けられない。同性の場合はいいとして、異性の場合は困ったことに
    なる。当事者の生理現象については出口で待っていればよい。しかし異性の介護
    者の場合は我慢するか、障害者用トイレをさがして一緒に入るか、二人で介護する
    かになる。彼らは介護者と来たことを忘れている。もしそこが施設ならば、一歩そこ
    から出てしまうと、施設にいたことを忘れてしまう。彼らにとって移動は元に戻ること
    ができない移動。トイレに入って出てくる、この短い時間さえ意識が持続しない。長
    くて3分。彼らに理解を求めることは不可能に近い。3分間の理解と理解しないといけ
    ない。見た目は普通人と変わらないので他人にお願いしてもトラブルのもとになる。
    3分間以上目が離せない。こんな介護、一人でできますか?愛なくしてできますか?
    でなければ、沢山の理解する目が必要です。

  b):関心度が小さいについて。
    個人差はとうぜんあるにしても、彼らがなにに関心を持っているのか分からないこと
    のほうが多い。朝、起きて、当然せねばならない歯磨き、洗顔をやろうとしない。パジ
    ャマから普段着への着替えも同様。自ら進んで行くのはトイレ。トイレに関心があるわ
    けではあるまいに。テレビを見ていてもチャンネルを変えようとしない。かって好きだっ
    た事柄についても同様。大河の一滴のように希釈されてしまっている。希釈されても
    残っていることは残っているのだが。彼らの日常は無関心の連続のように見える。
    言葉をかけてやることでようやく目覚める。細かく出された指示の言葉に従って彼ら
    は日常を生きている。一つ一つの動作に関しても手伝ってやらねばならない。他人に
    は見せたくないこともある。知られたくないこともある。日常生活には個人情報があり
    すぎる。彼らの恥部がいっぱいある。それを彼ら自身がなんとも思っていない風に見
    えることが家族にとってはつらい。彼らにとって本来恥ずかしいことは我々にとっても
    恥ずかしいこと。フルに介護をまかせることができるだろうか。また、こんな彼らを介
    護してくれる人がいるだろうか。個々を愛して介護するか、機械的に介護するか。
    一部の介護を依頼することになるのではないか。それも、当人のことをよく知ってい
    る第三者に。親以外の人に。それが兄弟ならば最適。交流している地域の人(当人
    を知っていることが条件)がいい。

  c):悔しさが見られないについて。
    生まれて兄弟がいたら食べ物の争奪戦で、団体生活をするようになると負けたくない
    ファイトを持って人は大きくなっていく。そこには、なにくそという気持ち、悔しさがある。
    だが、彼らにはそれが見られない。数秒、あったにしても、戦いにまではいたらない。
    戦わなくていい、蹴落とされてもやさしい子がいいと言えるのは健康な人の場合。意
    識が継続せず、関心度が希薄な低酸素脳症の場合はなんとか、すこしでも悔しさを持
    ってほしい。ここが介護=リハビリとなる。これに関しては家族の関与の限界を感じて
    いる。子を想う気持ちが邪魔をしている。理解ある第三者の介護がどうしても必要とな
    ってくる。よく、受験の時は家庭教師をつける。週2回、1回2時間。この家庭教師を一
    家族で採用すると大変だが同じ目的をもった数家族でやればいいのではないか。病
    院の場合はマニュアル化され機械的、しかも短い。低酸素脳症の患者に対する介護
    =リハではない。はじめから可能性なし進展なしと勝手に思い込んでいる。先入観は
    介護=リハを見当違いのものにする。低酸素脳症による高次脳機能障害者に健忘症
    患者と同じリハを、脳外傷患者と同じリハを。低酸素脳症とは?が分からないままのリ
    ハ。つまりa,b,c,dが分かっていない。家族を熟知した知りあいを家庭教師として招
    いて家族が低酸素脳症の介護=リハの専門家を養成していかねばならないのかもし
    れない。(養成費用は国もしくは自治体に請求しよう)

  d):行動に意味が見出せないについて。
    悔しさのない行動はひとつとしてひかるものがない。別にひかってほしいわけではない
    が、訴えてもこない答えてもこない、行動といえない動きは見ていてつらいし悲しい。
    親が、このままではいけないと思うのは当然のこと。時には家族との密着生活から逃
    れたいという外出行動にでることはある。空腹で冷蔵庫をあけることはある。意味の見
    出せる行動もあるにはあるが、残念だが動物並。箸を持ったままの移動。空間を埋め
    ないままの行動。その他の無関心にみえる反応。自分以外の他者に表現することの
    ほとんどない彼らは家族にすら意味を与えてくれない。こころやいろんな問題で他者を
    避けるようになったのなら彼らの意味のなさは、そうなのかと理解もできる。しかし、そ
    うではない。彼らは決して他者を避けてはいない。他者に伝えるさまざまな表現能力が
    事故によって欠如してしまった。数年というゆっくりとした時間でわずかの回復。文字を
    二つ三つつないだ文を時には発言するように。このように彼ら自体のことがつかめない
    ままの、ここでは介護=生活支援をだれに依頼すればいいのか。職業的介護集団でい
    いのか。彼らを愛する家族、兄弟、協力者が最適。この最適なケースをなんとか模索し
    たい。どこか、大きな山荘を借りて1週間ほど共同生活してみるのもいい。できたら、畑
    があって土まみれになるのがいい。一番楽しい食事時間になる前に畑に行く。きっと彼
    らは自らの意志で畑に行くようになる。

29:介護

  GNPという言葉が流行しています。Gは元気、Nは長生き、Pはぽっくり死ぬ。元気で
  長生きしてぽっくり死ぬことが一番いいということらしい。本当にそうでしょうか。
  10年前、母がクモ膜下出血で急死したとき、出張先から駆けつけた時はもう意識もな
  く秒読み段階でした。なんの言葉もかけれず、ただ、廊下で、控え室で”死の呼び出し”
  を待つだけでした。わたしに言い残す言葉があっただろうに。なんの介護もできず死ん
  でいくなんて、母に対していっぱいやりのこしたことが次から次に浮かんできます。迷
  惑をかけるから母は死に急いだんでしょうか。介護の苦労をかけさせまいと、あっとい
  うまにあの世にいってしまったんでしょうか。ぽっくり死んでいってしまいました。
  一日でもいい、母の意識を残しておいてほしかった。一週間、一ヶ月、数ヶ月ならもっ
  といい。別れはゆっくりやりたい。愛する者が死にゆくとき、ゆっくりと共有できる時間を
  持ちたい。それが介護といえるかどうか分からないけど。できが悪いけど母に愛された
  息子だったわたしに母はなにも言っていかなかった。悔しかっただろうに。介護したか
  った。母のために、自分のために。
  そこに職業的なものが介在しないのだから、わたしは自分のために一日でも意識ある
  母を介護したかった。
  そんなことがないように、わたしは正幸と共有する時間を持っていきたい。それが正幸へ
  の介護。
  

28:蘇生2(済生会滋賀県病院の報告)

  「命だけは助けてください」どんな状態になろうが命さえ救われればいい、それが当時
  の家族の真実。混乱と絶望の時、片足がなくなっても、半身不随になっても、話せなく
  なっても、この子が帰ってくれればいい。後のことなど家族になんにもない。助けてほし
  いの一念のみ。
  助かる確率が救命救急の進歩と規制緩和の推進で高くなってきている。特に交通事
  故からの回復にはめざましいものがある。事故はどこかで毎秒起こっている。夏には
  水の事故なども多い。
  彼らは復学復職できただろうか。彼らの家族はどうだろうか。
  その後の大変さを克服すべく、いま、闘っているはず。
  その後の大変さは助かった喜びの後に来る。
  ここに、その後の大変さのない、助かった喜びのまま復学した事例を紹介します。この
  ような事例をマスコミが大きく取り上げないのはなぜなのか。障害もなく復学したこと
  にニュース性はないのでしょうか。大事件に相当するニュースだと思うのですが。
  
  ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 
  済生会滋賀県病院が報道関係に提出した報告書の一部

<要旨>ショック状態で搬入され、まもなく心停止に陥り、心肺蘇生術にも反応しなかった劇症形心筋炎の患者が、治療により後遺症もなく完全回復した。このような場合、経皮的心肺補助装置(percutaneous cardio−pulmonary support:PCPS)を用いない従来の治療法では生存不可能であることから、この治療法の成否が患者の運命を左右する。また最近、蘇生後の脳障害の対策として脳低温療法が注目されているが、今回PCPS装置と大型の恒温槽をドッキングさせる新しい方法で血液温を一定の低温に正確に保ち、脳神経障害の予防に努めた。PCPSや脳低温療法は近年急速に進歩してきた治療法であるが、患者が早期に適切な治療を受けられる救命救急体制の充実が不可欠である。今回の成功は、地方においても高度救急医療が可能であることを示すとともに、病院スタッフにとっても貴重な経験となった。

<患者> 16才女性(高校生)

<現病歴>平成13年4月10日にかぜ様症状(39度の発熱と頭痛)あり、近医受診。翌日、腹痛、吐気、全身倦怠感のため、夕方、石部医療センターを受診。その診察中に突然、意識を消失した。急性心筋炎が疑われ、ショック状態で当院の救命救急センターに搬送された(救急隊覚知17時30分、到着17時48分)

<搬入時所見>意識混濁、全身発汗を認めた。
血圧70mmHg触診。心拍数160/分、モニター上は心室頻拍であった。

<治療経過>救急部、循環器科、麻酔科のチームで初療から対応した。直流電流により心室頻拍が停止した後も血圧は回復せず、まもなく心室細動に移行した。来院20分後のことである。電気的除細動を行ったが心肺停止状態となり、ただちにPCPSの準備を開始した。人工呼吸・心マッサージ下に右大腿静脈から右心房に脱血管、左大腿動脈に送血管を挿入した。心マッサージによる弱い脈では血管の位置がわかりにくいため、この手技に手間取った。対側の動脈の外科的露出も開始したが、幸い通常の方法で挿入できた。そのため、心室細動から人工心肺の稼動まで約50分を要し、脳障害が懸念された。そこで、PCPS装置と恒温槽をドッキングさせて血液温を34・5℃に自動制御して低体温療法による脳保護を行った。PCPSの稼働時間は65時間で、この間、心臓はほとんど動きのない状態からやや回復がみられた。入院3日目にPCPS離脱とともに意識は回復し、神経学的後遺症はまったくなかった。
併用療法として、炎症物質の除去のため血液浄化法を2日間行った。抗ウイルス療法としてγグロブリン点滴、炎症対策としてステロイド・パルス療法を併用した。心不全に対してPCPS離脱後に2日間は血液濾過による水分管理を行い、7日間の強心薬点滴を要した。
入院後9日目にCCUから一般病棟に移り、リハビリを開始した。左室収縮機能は15日目には正常範囲まで回復した。23日目に心臓カテーテル検査を行い、心筋生検を実施した。5月19日退院となり、元気に復学された。

<今回の治療のポイント>
1)適切な蘇生処置、同時にPCPSの準備にとりかかったこと。
2)PCPS経験:当院では平成11年から栗東町の補助によりPCPSを常備し、急性心筋梗塞の患者を中心に使用している。救命例は本患者を含め3例、死亡例も3名経験した。この中には深夜にPCPSを装着して心臓外科チームを他院から招聘し救命にこぎつけた致死性肺塞栓症の1例も含まれる。
3)専門医師団を中心とした連携のよいチーム医療:救急医、循環器科医、麻酔科医総勢6名およびコメデイカルスタッフ(臨床工学士、放射線技師、看護婦)の献身的な協力体制が不可欠である。
4)CCUでの緻密な集中管理:PCPSは合併症の多い治療であり、緻密な管理が求められる。
5)低体温療法も脳保護に有効であった可能性がある。特にPCPSとドッキングさせた方法は報告がないが、今後も使用できると考えられた。

  

27:蘇生

  25日の朝刊に「50分の心肺停止から障害なし、脳低温療法」という記事がのって
  いた。滋賀県の女子高生が障害もなく復学。うれしい記事です。救命治療の進歩には
  目を見張るものがあります。とにかく蘇生させることから、蘇生後のことまで考えた救
  命治療です。
  これまでは、正幸の場合もそうであったように、助ける、蘇生させるがすべてであった
  ように思えます。蘇生後のことは、分からない。
  心肺停止ならば、脳の障害は明らかに予測できる。馬鹿でも。
  脳を守る緊急蘇生の時、医を学んだものなのに、脳の温度を下げること、障害が残る
  ことに気づきながら心肺蘇生を行っていたということになる。救うことは大切である。
  その後の人生を、より障害のないようには、もっと大切なような気がします。
  重度と軽度。その差は、あまりにも大きい。


  蘇生したこと、救われたこと、決して忘れません。発見して連絡してくれた人、救急士
  のみなさん、救命救急センターのみなさん、励ましに来てくれたみなさん、決して忘れ
  ることはありません。
  時代だったのでしょうか?いまだ、救命の意味は救うだけだった時代にという運の悪
  さだったのでしょうか。
  いま、明らかになっていることは、心肺停止でも脳を守る蘇生を心がければ障害が少
  なくてすむ、という事実です。使命として、助けはする、しかし後は知らないでは困るの
  です。まして、救急車で搬送される救急病院を選択できません。運ばれる先によって
  は重い障害が、では困るのです。どの救命病院に運ばれても、事後の結果を考えた
  蘇生を望みます。人為的な運命はお断りしたい。
  済生会滋賀県病院の救命治療、まさに、救命と治療を同時に行ったものでした。もし、
  救命だけなら、正幸と同じ結果になっていたことと思います。

  生きることの大切さはすべての感性があってはじめて成り立っていくし、見出していく
  もの。できることなら、一つの感性でも失いたくない。失わせたくない。多くの感性を
  失ってしまった正幸たちが、再び、それらを取り戻す日が来ますように。


26:裁判

  6月20日(水)、Iさんが訴えていた裁判がありました。勝訴でした。水の事故による
  責任所在はダイビイング会社側にあるというものでした。この間、2年間です。こんな
  当たり前の裁判に2年間です!!Iさん家族にとって長すぎる2年間だったのではない
  でしょうか。会社側が控訴することがよそうされます。また、2年間も闘わなくてはなら
  ないのでしょうか?なぜ、裁判はこんなに長いのでしょうか?結審を出すのにそれほ
  どの時間が必要とは思えないのですが。訴えられた側が引き延ばし作戦をたてると
  いうことを耳にしますが、これは多分(全く知らないので予想です)法と裁判過程を知っ
  ている者が訴えた人への圧力として、つまり、あきらめさせるために行う。裁判自体は
  決まってしまっている。結審を、先に先に。弱い訴訟者なら引き下げてしまうことを目
  論んで。裁判の舞台は訴えられるものと訴えるものとの公正な場。訴えられる側にとっ
  ても公正であるのは当然ですが時間の引き延ばしという無駄はなんとかならないので
  しょうか。あのオーム裁判も、何年かかってることか。ながすぎます。
  Iさん、お疲れさまでした。これで悲しみや怒りがおさまるわけではありませんが、一つ
  の山を乗り越えましたね。まだまだ先に大きな山があります。明るく、共に過ごしていく
  ために、乗り越えた事実を記録し、われわれに勇気を!
  

25:センス・オブ・ワンダー

  6月18日(月)NHKで深夜、レイチェル・カーソンの特番を放映していました。知人から
  連絡が入り
見るようにと。わたしがレイチェルの信奉者と知っていたからです。午後
  11時はわたしにとって深夜です。HPのメタセコイアの森とこの部分の打ち込みを午前
  4時から6時までと決めているので就寝は早いのです。しかし、眠くならずに見ることが
  できました。やはり、好きな題材は神経を覚醒させてくれる。
  放映の最後で朗読されたレイチェル・カーソンのセンス・オブ・ワンダー。
  背筋がぶるぶると来るほど感動しました。
  このHPを開かれるみなさんにぜひ、『センス・オブ・ワンダー』の一読をおすすめします。
  正幸との水元公園の散歩が楽しいのもレイチェル・カーソンのおかげです。
  余計な解説は無用。
  センス・オブ・ワンダーでレイチェル・カーソンのやさしいこころを感じとってください。

24:next

  ネクスト。好きな言葉です。失敗しても、ネクスト。高校時代、テストに明け暮れている
  とき、成績が悪くてもいつも”次があるさ”。目標を次に持っていくことで落ち込まずに
  すんだ。ネクスト。いい言葉です。
  このNEXTがなくなったら、どうなるんでしょう。
  次がないとは、どんなことなんでしょう。いつも、悪かろうがよかろうが”いま”なんでしょ
  うか。そんな人にも時間はあるはずです。10秒前も、10秒後も。時間としての”次”は
  否応なしにやってくるはずです。なのに”次”がないとはどうゆうことなんでしょうか。
  わたしたちにも”次”がない感覚に陥ることがあります。それは普段来るはずのない危険
  に遭遇したときです。極端ですが、今、殺人鬼にナイフを突きつけられています。手形を
  落とす資金が足りません。ガンを宣告されました。不渡り手形を。リストラを言い渡されま
  した。自分には、もう明日がない。
  限りなく死(自殺)に近い状態に陥った時、いたって健康なわれわれにも”次”がないを
  味わいます。とても長い年月、耐えれるようなものではありません。それをなんとか回避
  したら、直ちに”明日があるさ”に変わってしまいます。
  それが、できず、常にそうだったらと想像してみてください。あなたはいつもナイフを突き
  つけられ、いままさに死に直面しています。これが、ずっと続くのです。想像できても、その
  状態が続くという感覚は、われわれには分かりません。誤審の死刑囚の状態です。
  低酸素脳症による高次脳機能障害者はまさにそれが続いているのです。来る日も来る日
  も、”次”がないのです。彼らと関わり続けている家族もまた、制度的に”次”がない大変
  な緊張状態を持続しています。壊れるのは家族です。耐えれなくなった家族はどうなるの
  でしょう。”次”がないのですから、たどる道は・・・
  こんなことがないようにしていかねばならない。
  低酸素脳症による高次脳機能障害者にも、その家族にも
  ”NEXT”
  ”次”を求める権利がある。

23:再び学習

  一番初めに見た、接した対象が母親というのは動物たちばかりでなく、人間もそうなの
  では?もし取り間違えられた赤ちゃんをそのまま育てていったらどうなるのでしょう。刷
  り込まれていく記憶は、間違いであるにかかわらず、しっかり蓄えられていく。遺伝子は
  どうなるのだろう。違う遺伝子を持った母親は子どもを自分の遺伝子で育てていく。それ
  でも、子どもは吸収していく。3才ぐらいまで、人間としての教育をほとんど終えてしまうと
  いう。もし、それが、人間でなく、他の動物だったとしたら。一番初めに見た動物を親と
  インプットされてしまうのだろうか。すがた形は人間なのに。とすれば、学習はストップし
  てしまう。動物の生きるための成長は早く、そして止まってしまう。
  ここに、学習しても学習とならない人間がいる。学習ができなくなった人間がいる。
  「どうなってんだ?」彼は一時、ほんの一時、疑問をいだいた。
  おかしい。違う。それっきりだった。
  学習しようと他人が協力しても、学習にならなかった。
  「さっき、だれが来てた?」
  「わからないよぉ」
  大学を卒業し、就職までした青年が悲しそうに苦しそうに答える。
  

22:学習

  ウクライナ(?)で犬と一緒に生活させられた女性が発見された。すでに大人になってい
  る人間の女性である。人間として生まれながら、人間の脳を持っていながら、彼女は納
  屋で犬と生活する。人間の脳はどうなってしまったのか・・
  ハロルド・クローアンズの「失語の国のオペラ指揮者」のー私がであったルーシーーを思
  いだした。人間社会から離れた生活を続けた人間は人間でありながら人間としての脳の
  発達をしていない。
  ウクライナの女性の動作は犬のようだった。
  脳は記憶の蓄積なくして、学習なくして発達はないようだ。彼女は犬との生活で犬の動き
  を学習していった。人間との接触がないので人間の言葉、動作の学習ができなかった。
  彼女の脳は、きっと、それで固まってしまった。きっと、犬として生きている。
  柔軟性があるといえばそうだが、それも、幼い期間。脳が未開の時期に目や耳から取り
  入れた情報で学習して脳の組織を構築していく。いったん構築されたネットワークは、
  そう簡単には破壊できない。破壊しないまでも、そこに新たなネットワークを組み込むこ
  とは非常に困難。再び、神経学者たちがウクライナの女性に関心を示すだろう。
  いかにしてこの女性が人間社会に溶け込んでいくか。いかにして言葉を習得していくか。
  伝える手段がなければ、学習していくことができない。人間としての学習を20年以上も
  してこなかった。脳は学習を求める。相手は犬。犬の動きが学習の対象。
  人間として生まれた以上は人間の脳を所有している。
  脳は学習によって変化していく。
  それは、幼児期だけなのか。
  成長を終えても、学習は脳を変化させるような気がするのだが。

  中途障害の正幸たちは、どうなんだろうか。言葉も動きも人間社会の中で受け入れて
  るはず。ただ、それらを受け止める脳に問題がある。どんどん入ってくるけど、それを
  引き出せないでいる。つまり、学習できないでいる。引き出せないという事実は、つらい
  現実。彼らは新しい人間社会を学習できない。引き出せないは記憶していないと同じ。
  たとえ、脳のどこかに残っていたとしても。
  どう、学習していけばいいのか。
  土曜日は「えこーたいむ」日曜日は「教会」と「ジャズダンス・スタジオ」
  パターン化された動きが正幸の脳に刷り込まれて「言葉」となって現われればいいのに。
  障害者施設ではなく、普通の人たちが集まる場所に定期的に参加する。決まった時間
  に必ず同じことを普通の人たちと、する。
  家でも、何時になると、これ。あれをやったり、これをやったりではなく、この時間になっ
  たら、これをする。なかなかできないが、正幸たちの脳に負担を与えることなく(あまり
  にも多くのことがストレートに入っていく)やっていきたい。
  「えこーたいむ」では2時過ぎになったら散歩するが定着してきた。
  彼らに定着するものをひとつひとつ増やしていきたい。
  

21:脳・高次脳機能障害

  頭蓋骨に守られた脳について考える個人は自らの脳を駆使して脳について思考する。
  脳にはそれまでの記憶が蓄積されている。その記憶は人間社会で構築されてきた無限
  数の人間の歴史でもある。微積分ができないとか、英会話がにがてとかは関係なく、
  我々は普通に人間社会に参加し、記憶を継続して蓄えていっている。意識することなく。
  そこで、その個人が「脳」について思考する時、個人の脳であるにもかかわらず、普遍的
  な脳について、つまり、全体を思考する。あいつは何を考えてるのだろうという考えは
  個人の脳の働きだが、普遍的な脳の働きでもある。脳にそれぞれの感性、努力、環境
  などによってシナプス配列が異なって、個としての特性が生まれてきても、脳が脳につい
  て考えるときは個を離れるような気がする。まったくの個での作業であるにかかわらず、
  それは普遍、いわゆる人間という種にまで高められているような気がする。
  人間の中で成長してきた個の脳は、個であって個でないのではないか。他の臓器は個の
  ものだろう。記憶の蓄積によって思考する脳は他の臓器とどこか違う。あなたの心臓と
  わたしの心臓は心臓で同じであるが、あなたの心臓はわたしの心臓ではない。だが、
  脳は。あなたの脳とわたしの脳、単なる臓器ではないと思いませんか?臓器としてとらえ
  れば、確かに、あなたの脳はわたしの脳ではない。しかし、あなたの脳があなたの脳に
  ついて思考する時、どうでしょうか。正しいかどうか、それは分かりませんが、何かを判断
  するとき、解決するとき、選択するとき、あなたの脳のたどる道はわたしの脳のたどる道と
  大差ないと思いませんか。例えば、小泉首相がハンセン病の控訴をしないと決断した日、
  そのことをあなたの脳はどう判断しましたか。わたしと同じような気がします。

  この作業、自分の脳について考えられなくなった人たちがいます。時間的な長短がある
  ようです。どこかで記憶が途絶えてしまうか、ずっと記憶が残っていかないか。
  途切れ途切れの記憶。想像できない。記憶が残らない。どんな記憶であれ、いろんな
  記憶の種類があるようだが、埋められていくはずの時間に空白ができてしまう。うまく
  いくはずがない。どうしても寡黙になってしまう。どうしても思い出せないことはよくあるが
  なにかの拍子に思い出す。しかし、空白になったことを思い出すことはできない。それが
  どんなことか、どんなにつらいことか、まして、かつて、脳が脳を思考することができた。
  記憶を意識することなく一人の生活を楽しんでいた。
  ある日を境にして、脳は個であることも、全体であることも否定してしまった。単なる臓器
  となってしまった。彼らは、この苦悩をうまく伝えることができない。理解を求める方法を
  見出せないでいる。激しい葛藤の末、彼らは自らの「脳」を考えないという結論に固定化
  しようとしている。自らの意志で「脳」を思考できない、と。だが、「脳」は彼らの否定を
  無視して、ゆっくりとシナプスを伸ばして、復活を目論んでいる。
  臓器から脳への果てしない闘いが、その日からはじまっている。参考になる資料はない。
  まるで手探り。特効薬も効果的なリハビリもない。脳の神経組織の成長は生まれながら
  の障害を持った子どもたちの脳の成長が極めて遅いことから、否定的。
  果たして、そうだろうか。脳外傷の人たちは?低酸素脳症の人たちは?
  かつて記憶が正常だった彼らの脳は、いま、なにを。空白になったことを彼らは間違いなく
  何らかの形で感じ取っているはず。でなければ、疲れるはずがない。話せるのに寡黙に
  なるはずがない。なにかがおかしいと感じ取っている。それが怒りになって現われるか、
  無関心になって現われるか、彼らは自己表現を何等かの形でとりながら生きている。
  怒りも、無関心も彼らの表現なのです。
  常に怒り、常に無関心ではなく、それを交互に繰り返しながら日常生活をおくっている。
  そうすることで彼らの脳は修正修復を、気の遠くなるゆっくりした速度でおこなっている。
  いつか、かならず、進んで参加してくるようになる。かならず!
  小さな参加からはじまる。
  見逃さないようにしよう。
  そんな時、手をたたいて讃えよう。
  「きみは天才だ!」と。
  あきらめず。
  あせらずに。
  かならず、あしたがある。

  ここで、ある程度、伝えることのできる人と、まったく伝えることのできない人がいる。
  前者は主に脳外傷を原因とする高次脳機能障害。
  後者は低酸素脳症やビールス、血管障害を起因とする高次脳機能障害。
  脳外傷の場合は当初、確かに、傷もあり、変形もし悲惨です。
  低酸素脳症の場合は傷もなく変形もなく、ただ意識を失うだけ。
  見た目の差は歴然としています。
  不思議なものです。見た目の形が保たれていることは、なんら無関係。
  神は悲惨な人に御手を差し伸べます。
  なぜなんでしょう。
  これは、想像でしかありません。たぶん、家族の深い悲しみを見捨てることができな
  かったのでしょう。息子の変わりように父親が人知れず嗚咽しているのを神は見逃す
  はずがありません。彼らの脳は徐々に、そして急速に回復していきます。参加は、もう
  すぐそこに来ています。自己表現も、もうそこにあります。
  しかし、神よ。形の変わらない、見ただけでは、なんら普通の人たちと変わらない正幸
  たちのことをお忘れなく。
  生きて、もどしていただいたこと、感謝しております。


20:12番目の天使を読んで

  妻子を交通事故で無くし、生きる望みを失っていた男を救ったのは、小さな子どもだった。
  帯に「泣いた」「泣いた」と書いてあったので、気が進まなかったが、博多の紀伊国屋で
  正幸が手に触れた本だったので、正幸のために買った。「これ、正幸の本だよ」と正幸に
  持たした。いつか読んでくれるだろう。
  小説だから、事実ではないが、身につまされる。
  少年は自分の運命を知っていた。まさしく天使だった。
  メッセンジャー医師に教えられた暗示の言葉。
  「ぼくは、日に、日によくなっている」「あきらめない、絶対に、あきらめない」
  やはり、少年を正幸と比べてしまう。
  少年は自らの意志で、正幸は家族たちの愛で。
  「正幸は、日に、日によくなっている」「あきらめない、絶対に、あきらめない」
  絶望の淵に沈めたのも、蘇り、数々の喜び、希望を与えてくれたのも正幸。
  少年はエンジェルスを一つにし、「日に日によくなる」を感動を持って表現した。
  少年は手術不可能な脳腫瘍を持っていた。
  なのに、「あきらめない」「日に日によくなる」と自分に言い聞かせていた。
  正幸は?
  誰よりも、生を、生に浸っているにちがいない。
  なんでもない近くの宇宙を正幸は我々に教えてくれている。
  「おとうさん、ぼくは、あきらめないで、歩く」
  正幸の大きな背中が、そう言っている。
  正幸と一緒に歩く。
  少年がリトル・リーグの最後の決定戦で、初めてのヒットを打ったように。
  正幸は「ぼくは、日、一日とよくなっている」と無言の訴えを伝えている。
  だから、今日も、あしたも、正幸は歩く。
  少年は、誰にも自分の病を伝えなかった。残る時間、「あきらめない」で行動した。
  誰も知らなかった。少年が脳腫瘍であることを。
  見た目では誰も判断できなかった。
  少年の、あきらめない姿、三振しても、エラーしても喰らいついていく。
  はじめは失笑し、馬鹿にしていた仲間も、何時、少年がヒットを打つか、期待と祈りを持って
  待つようになった。観客にもそれが伝わる。
  しかし、だれも、知らない。見た目で分からない病。
  少年はリトル・リーグで残りの命を燃やした。
  監督は、その少年に、生きる意味を教えてもらった。
  監督は、その少年の病を知らなかった。
  少年は、正幸。
  監督は、わたし。


  

19:Center Stageとサボテンの花

  タイタンズを忘れないもそうでしたが、センター・ステージも夢と希望に向かっている青年た
  ち。実現できる者、脱落していく者。
  「ジョディーは輝いている」
  バレーはそれほどうまくないのに、なにかがある。
  クラッシックバレーがうまいかへたか、下手なダンサーは上手いダンサーにとってバレーの
  障害者かもしれない。
  ジョディーはバレーの障害者。
  しかし、踊りたい。踊り続けたい。
  音楽と踊り、大きな画面いっぱいに繰り広がれる躍動。
  観客はたった3人。若いカップルと私。
  夢を実現するために情熱を注ぎ、苦悩する青年たちの姿。
  どうしても正幸にてらして見てしまいます。もし5年前がなかったらではなく、今を受け止めて
  今がスタート、そんな気持ちで見てきました。
  「輝いている正幸」に。
  続けること。あきらめないこと。スタート(基本)にもどること。
  ジョディーのように、「言われるからやるのではなく、好きだからやる」
  見つけよう。
  正幸といろんなものに触れよう。
  なんでもいい、正幸が関心を示し、続けるようなら。
  
  もう一つ
  6年前、知りあいにもらったサボテン。
  深紅の蕾を日増しに大きく 成長しています。
  まったく、繁茂するだけだったサボテン。
  花の咲かないサボテン。
  見損なうなよ!おれは、サボテン。
  間にあったかい?
  サボテンが語りかけます。
  多分、2輪の花が、あと数日で咲くでしょう。
  ながいながい6年。
  やっと、咲きます。
  
  正幸も、きっと、ながいながい年月を経て、輝いて咲いてくれる。

18:芝生

  ”けん”が生きていたころ、鎖の長さの行動範囲の芝生は踏まれ、地面が露出していました。
  小さい庭ですから、庭の半分ぐらい、きれいに土でした。
  見ると、無くなった芝生は欠損した脳の組織のようでした。
  昨日の夕立に残った芝生があおあおとしています。
  それを、じっと、眺めます。
  残っていた芝生の周囲から新しい茎が地面に這って伸びています。
  ところどころでからんでいます。
  摘み取られた雑草の芽、くっきり、芝生の先々まで見えます。
  自然そのものを見るようです。
  まるで、正幸の頭の中を見ているようです。
  伸びていくシナプス。
  絡まりあうシナプス。
  がんばれ!正幸。
  雑草に栄養を取られないように、
  正幸にエネルギーを!シナプスの栄養を!
  さあ、きょうも、歩いて、歩いて目から栄養を!

17:手帳

  身体障害手帳、療育手帳、精神障害手帳がある。
  中途障害の者たちが上記の三つの手帳の中にすべて入ると思っているのだろうか?
  脳組織の欠如。
  いつか回復するものと家族は奇跡を望んでいるが、行政も医学もそう思っているふしがある。
  なんの努力もせずに。記憶も日常生活の不備も脳が回復すれば普通に戻ると。治療の処方
  箋が無いということは、ほっておけば治ると思っているのか、その後の実態調査もせず、
  完全放置である。
  調査もせず、知らせもせず、役所仕事のごとく「高次脳機能障害」は精神障害手帳の対象。
  なにかがおかしい。
  本当に「高次脳機能障害」を知っているのだろうか。
  唯一、骨で守られている組織のピンポイント的喪失。
  正幸たちは、こころを病んでいるわけではない!
  片足を失ったと同じように、一部の脳組織を失ってしまったのだ。
  加齢とともに失うのではなく、ある日、突然に。
  正幸たちへの手帳として、単なる「障害手帳」を切に要望。
  上記の区分された手帳制度に組み込まれない正幸たちに。

16:モデル事業

  高次脳機能障害の審査
  見た目では判断しにくい高次脳機能障害者をどのように審査するか。
  正幸の場合は事故前までの知識は記憶しているので、質問に関して事故前の知識で正しい答えを
  言うことができる。
  問答形式では、十分とはいえない。
  本人に問う(筆記にしろ)形式には問題点が多すぎる。
  原因と経過、現状を説明できる介護者のメモ、記録が最も症状を表している。
  介護者は「高次脳機能障害」という障害認定のために障害者の記録を可能な限り残しておいて
  ほしい。
  「高次脳機能障害」の審査をマニュアル化することは、より多くのデータのもとに作成せねばなら
  ない。
  それぞれの違いでの共通項はあくまで統計的なものであって結論ではない。
  多分、高次脳機能障害ほど例外項目を必要とする障害はないだろうと思われる。
  画一的なマニュアルは危険。
  より多くのケースのより多くのデーターの収集を!
  家庭での介護がほとんどの高次脳機能障害についてのモデル事業が一部のデーターで結論をだ
  すということにならないように。
  想定される細部の症状、各家庭の介護者に配布し問診形式でデーターを取っていってもらいたい。
  予算がとても満足いくものではないが、1日4件、1年250×4=1000件
  4人×1000件=4000件のデータを各地区でとってほしい。
  病院は誰が高次脳機能障害者か、調査すればすぐ分かるはず。調べる人材がいないか、病院
  相互間の意思疎通が取れていないか、やる気がないか、どちらなんですか。ファイルはどんどん
  焼却されてしまう。
  個人情報という性格上、これは病院がやらねばならない仕事。
  ぜひ、早急に病院間の壁を取り払って、データ収集と確認、調査、分析をやっていただきたい。

  ある大きな心身障害センター(公立)を訪ねました。
  相談員は「高次脳機能障害」を知りませんでした。
  かなり知名度が上がったと思っているのは関係者だけかもしれません。

  『高次脳機能障害』のモデル事業を実施することを、
  『高次脳機能障害とは何か』を添えて各施設、公的団体、役所の福祉課などに配布してもら
  いたい。
  相談しにいっても知らないでは、福祉に携わる人の勉強不足を指摘されても反論できない。
  また、彼らを統括している自治体の長は一体何を、次の選挙の票ばかりを考えているのではと
  思われてもしょうがない


  


15:拝啓 小泉総理大臣殿

  「恐れず、ひるまず、とらわれず」の所信表明演説、社会福祉の充実を願う障害者を抱える家族は
  心から期待しております。かつて厚生大臣の御経験のある首相です。期待に胸をふくらまして
  おります。
  総理大臣殿、「高次脳機能障害」を御存知でしょうか。
  元気だった人が交通事故やその他の事故、病気などで脳に損傷を受け、日常生活をひとりでは
  できなくなる、そんな人たちが陥っている障害を「高次脳機能障害」とよんでいます。
  いわゆる中途障害の中の脳の機能に支障をきたしている人たちです。
  このような人たちが救命救急治療室から毎日のようにおくりだされています。
  総理、彼らの受け皿はどこだか御存知ですか?
  なんと、家庭、家族です。
  働いていた母親は彼らのために仕事をやめて、全時間の世話をせねばなりません。
  彼らは生まれたばかりの子ども。
  お手本も何もありません。
  このまま、ずっと、図体の大きな赤ん坊を成長させるために家族は手探り。
  福祉も医療も「高次脳機能障害」を認知していません。
  これから、これからなのです。
  かって、水上勉が『拝啓 池田総理大臣殿』を中央公論に発表したこと、私も真似て。
  正幸たちの「高次脳機能障害」、知っていただきたい。
  どんなに重度の障害であるかを。
  『米百表』、小泉総理大臣殿、「高次脳機能障害」を知る福祉関係者、医療関係者、公務員の
  育成を望みます。そして、WHOに順ずる障害認知を!
  


14:奇跡

  科学も医学も、そして家族も子どもたちが治らないと思ってやしませんか。
  死ぬはずの子どもたちが生きている、これ自体が奇跡です。
  たかだか3世紀ほどの記憶の蓄積で、えらそうに判断してしまうのはやめましょう。
  もう私の子どもはこのまま、そう、家の中や病室に閉じ込めてそのままにしておいたら、
  そのままかもしれません。かつて、我々の子どもたちがそうであったことを毎日、
  親とともに実行していきませんか。
  悲しんでいたり落ち込んでいたりする暇はないはずです。子どもたちの頭に覚えさせるの
  ではなく、身体に覚えさせるのです。たっぷり時間がかかります。子どもたちへの愛が
  なければできない献身です。
  そして浅薄な科学に『奇跡』といわせてやりましょう。
  「昔さがしの旅」を子どもとやっておられる方がいます。彼は山が好きでした。
  山に連れて行くと彼は昔のようにしっかりと歩き、身体で覚えていた自分をいかんなく
  発揮するのです。
  低酸素脳症による高次脳機能障害者はこれから親とともに学んでいくのです。
  ながいながい道のりです。
  どれくらいかまったく分かりません。

  『奇跡』は起こるのを待つのではなく、起こすためにパトスを注ぐことです。
  


13:アリシン

  数年前の健康雑誌にアリシンが海馬のニューロンを刺激し伸ばすという東大薬学部の研究が
  のっていました。人工的に痴呆状態にしたねずみを2つのグループに分け、一方は普通のえさ
  (A)、一方はアリシンを混ぜたえさ(B)を与えます。ねずみには暗いところに行くという
  習性があります。
  暗室に入ると電気ショックを受ける装置があります。Aのグループは何度も暗室に入っていきます。
  暗室に入ると電気ショックを受けるということを記憶できず、何度もショックを受けるわけです。
  Bのグループは一度ショックを受けると二度と暗室に入ろうとはしません。
  スタートはAもBも痴呆なのです。違いはアリシンだけです。しらべてみたら、
  なんと、アリシンを与えたねずみの海馬の神経組織が複雑に伸びていたのです。
  アリシンが脳障害の救世主になるかもしれません。
  ところが、アリシンは寿命が極めて短いのです。
  アリインとアリナーゼが結びついてアリシンになるのですがわずか数分の命です。
  にんにくを傷つけるとアリシンが発生しますが数分しか持ちません。空気に触れて別の物質に
  変わってしまいます。
  ですからBのようになろうとするなら生のにんにくをかじらねばなりません。
  不可能ですね。
  アリシンは多分、アリナミンの名前のもとではないかと思います。ビタミンB1を持続活性
  させるためにアリシンが必要なのです。
  アリインとアリナーゼが結びつかず、口の中に入って腸ので結びつけばいいわけです。
  そんな食品がありました。
  飲んだり飲まなかったりですが、正幸は、もう2年ほど、それを飲んでいます。
  正幸の海馬のニューロンがのびてのびてのびまくるのを期待して。


12:もう5年、まだ5年

  正幸たちも参加した「いるかの夢」公演の4月1日で丸5年の月日がたちました。
  5年前の4月1日は正幸が新入社員として初出勤した日です。もう5年なのでしょうか。
  まだ5年なのでしょうか。8年、9年といる仲間たち。2年、3年の仲間たち。
  同じ高次脳機能障害者でも自ら意見を発表できる人たちに接するとき、
  考え込んでしまう。
  高次脳機能障害とは何か。
  単に重度と言っていいのか。
  あまりにも広範囲な高次脳機能障害。
  あまりにも捉え難い高次脳機能障害。
  曖昧で、現実味のない高次脳機能障害。
  あれもこれも高次脳機能障害。
  「きみは、どんな高次脳機能障害?」
  「ぼくは、高次脳機能障害」
  なにが正常なのか。世の中ほとんどが高次脳機能障害者なら・・・
  さあ、正幸は。いったい、高次脳機能障害者なのか。この5年間、そう思い込んできたけど、
  果たしてそうなのか。
  総ての人間を網羅してしまいかねない高次脳機能障害という言葉で済ましていいのか。
  加齢とともにニューロンは失われていく。それは20才ぐらいから始まっている。
  だれもが何らかの生活習慣上の高次脳機能障害者。5年間の正幸には高次脳機能障害
  という言葉では括りきれないなにかがある。
  それが何なのか。
  それが、まだ、もう、なのかで判断を迷ってしまう。どう、とればいいのか。
  まだ、まだ5年なら、この5年は正幸にとっての1年。
  もう5年なら、正幸の5年は我々の5年と同じ。
  どちらがいいのでしょうか。


11:動物人間

  寝たきりで移動できない重度の低酸素脳症者を植物人間というなら、移動できる重度の
  低酸素脳症者は
  動物人間?
  かつて人間だったことのある動物人間?
  彼らの記憶の中には人間がある?
  考えることができず、訴えることができず、動くことができても、ただそこにいるだけ。
  言葉は持っていても、文章を持っていない。
  声は出せても、言葉が出てこない。
  なによりも彼らは一人では生きていけない。
  それに反して動物は個で生きていく。その才能を持っているのが動物。
  移動できるという意味においてのみ、彼らは動物的。
  動物であるには間違いないのだが、いわゆる犬や猫のように個で生きていけない。
  人間であることには間違いないのだが、主張したり反省したり、学ぶことができない。
  彼らは何者になったのだろう。
  われ思う、ゆえにわれあり
  一般人の我々の理解し得ないところで彼らの「われ思う」があるのだろうか?
  考えているようにも見える。
  見える範囲での判断しかできない、またそのように生きてきた我々にとって、
  彼らの非伝達の生き方から
  彼ら自身の生存主張が見えてこない、聞こえてこない、伝わってこない。
  彼らの時間と、
  彼らの空間は特殊なものかもしれない。
  彼らの主張はずっとずっと遅く伝わってくるのかもしれない。
  遥か彼方の銀河系からやっと存在を示すひかりが地球に届くように。


10:メリル・ストリーブの「誤診」を見て

  医学への痛烈な批判
  患者と家族の心情を省みない、情報を伝えない
  医学界のいう科学とは?新薬、薬頼み。手術。
  なにが治療なのか?治療とはなにか?
  薬の投与は患者をどんどん無抵抗、弱くしていく。
  「あす、手術、頭を切ります。サインを」
  信頼していいのか?本当に頭を切り開いていいのか?
  メリルは猛烈な勢いで調べ始めました。
  医者が教えてくれなかった治療方法をみつけたのです。
  絶食による食事療法でした。
  思い当たります。われわれも、自分で調べるより道はなかった。
  だれも教えてくれず、だれも治療法方を知らず、さがしまわるより方法はなかった。
  『癲癇』にケトン療法、薬に頼らない食事療法?
  古い映画なので、今、どうなのか。ケトン療法は認知されているのだろうか?

  インターネットで検索してみると件数は少ない。
  研究対象とはなっていない印象をうけました。
  製薬メーカーおよび大病院・医大などは新薬の開発と利潤追求なのでしょう。
  闇に薬の副作用で死んでいった人たち、報告されずにほうむられてしまった人たち
  きっと数え切れないほどいたし、いるにちがいない。
  いまも、ますます身体をむしばみ、悪くしていっている。
  「誤診」とは?
  『癲癇』で手術するのではなく、副作用の悪化で手術するという医学の「誤診」です。
  発作をおさえることはできても、治療にはならない。
  『治療』に基づいた医学は
  高次脳機能障害に関してもみあたらない!
  


9:「いるかの夢」公演を終えて

  低酸素脳症による高次脳機能障害者とジャズダンスの生徒たち、三郷市のヨサコイ・ソーラン
  のおかあさんたちとの「いるかの夢」公演が4月1日、三郷市文化会館でありました。
  400人前後のお客さんがきてくれました。プログラムには高次脳機能障害を明記してあります。
  三郷市の市長も応援に来てくれました。
  ハイリハ東京の人たちも見に来てくれました。
  プロデュースしたのはスタジオ・ウィの主催者、正幸の母です。サークルEchoのメンバーです。
  たくさんの人たちがかかわり、協力してくれました。ビデオは聾唖者のホスキンさん、
  文化会館の音響、照明の人たち、朗読の村田さん、衣装の空閑さん、映像の村上、田村さん、
  スタジオ・ウィOBの川上さん、重野さん、さっちゃん、モッキー、そしてスタジオ・ウィのみんな、
  ウェーブみさとのみなさん、そしてなによりも  サークルEchoの若者たちと家族。
  ありがとう。
  感動を、ありがとう。
  この感動を忘れずに、前に進んでいきましょう。


8:高次脳機能障害?

  たぶん、動物にはない脳の障害?
  動物の脳より新皮質の面積・容積がはるかに大きい人間の脳。深い皺の表面にピンポイント的に
  読み込まれている記憶の蓄積。無限といっていいくらいのパターンがある。1つのピンポイントの
  損傷でもピンポイントントの数だけ、2つならばその倍、数多くの場合ならば気の遠くなる組み合
  わせとなる。低酸素脳症の場合は数多くの損傷ピンポイントの点在。ピンポイントの損傷レベル
  ではMRIなどの映像に現われないようです。たから、一人として同じ症状はないようです。
  この高次脳機能障害となる原因にはいろんなものが考えられます。高熱、交通事故、他の事故、
  ショック血流不全、B1不足など。
  これまで脳外傷、低酸素脳症、発達障害、若年性痴呆症など様々な名前で呼ばれてきたものが
  高次脳機能障害という名称で統一されてしまう危惧を感じる。
  高次脳機能障害とは、それにいたる前はそうでなかった人、ごくごく普通に生活していた
  人がなんらかの原因で脳に損傷を受け日常生活の一部が一人ではできなくなった障害
  
と定義したい。生まれながらの脳のなんらかの障害や進行性の脳の障害はそれぞれの障害名を、
  あるいは症状名をすでに与えられている。
  ある日、突然、叩きつけられた複数のピンポイント損傷による大脳新皮質の障害が高次脳機能
  障害。
  その原因の一つが低酸素脳症。

  


7:乙武さんの結婚!

  うれしいニュースです。
  「こどもがほしい」
  乙武さん、よくやった!
  頭の良い乙武さんは身体のハンデを感じさせないほど凛々しい。
  あの明るさはどこからくるんだろう。天性のもの?移動椅子の上にちょこんと乗って話している
  姿は五体満足の我々より晴れやか。
  
  頭脳が明晰な当事者とそうでない当事者。
  考えさせられました。
  負けてはいけない!
  くじけてはいけない!
  乙武さんに続け!


6:安芸灘地震

  瀬戸内に大きな地震がありました。神戸から5年が経っています。
  地震のときいつも思うことがあります。
  石炭と石油のことです。なんで?と思われるかもしれませんが、今の地球を見ていると、
  植物や動物たちから石炭・石油ができるはずがないと思ってしまうからです。
  かって、植物や動物が地球上に満ち溢れているころ、天地がひっくり返るような巨大地殻
  変動があったとしか思えないからです。
  突然、倒壊した巨木や動物たちの上に大量の土砂が積もらなければ石炭や石油はできっこない。
  何億年か前の地球は美しい自然と大らかな文化を持っていたのではないか。物を作ったり破壊
  したりする人間はいなかったので。
  再び生命が生まれ、何億年もかけて+遺伝子を持った人類が生まれた。
  どれくらいの世代が繋がれてきたのだろう。よくぞ途中で途切れずに来たものだ。
  何回かの氷河期にも耐え、部族間の闘争にも生き残り
  あまたの戦争にも絶えることなく、いま、ここにいる。
  絶えていった人たちも数え切れないほどいただろう。
  きょうの読売夕刊「生命館」には、500万年前10万人、100万年前に1万人まで激減。絶滅。
  祖先は20万年前、アフリカから。
  アフリカを飛び出しては滅んでいったグループの中で、うまく生き残り、最後に世界に広がったのが
  我々の祖先と書いてありました。
  アフリカにすべてあり、人類の祖先がアフリカで誕生し、各地に広がった。
  正幸も。
  しかし、
  正幸は?絶えるかもしれない。
  正幸の遺伝子を持つ+遺伝子は生産されないかもしれない。
  正幸は絶えていくだろう。
  さまざまな事情で絶えていく人たち。
  交通事故、災害、病気、山や海の事故、医療ミス、殺人、様々な障害などで、いまで終わる人たち。
  何万年後にも続いている人たちはどれくらいなのだろうか。
  アフリカを脱出して絶えていったように・・・チャレンジならば納得もしよう。
  どうしようもない事情で、やむを得ず、絶えてゆく。



5:ロボット

  映画や漫画でこんなのをみたことがありませんか?
  人間と人造人間(ロボット)が未来で戦争しているのを。
  結末は、ロボットを操っている中枢部、巨大なコンピューターを破壊するというやつ。
  ロボットのチェスマンがチャンピオンを破っています。
  何億通りもの解答をだせるロボットです。
  ただし、彼は歩行することはできません。チェスだけの対応です。
  彼も電源を切ってしまえば終わりです。チップを一枚取ってしまえば終わりです。

  対象はロボットになっていますが、
  個を動かし思考させる中枢は脳にあります。
  脳の活動、エネルギー源はブドウ糖です。脂肪でもたんぱく質でもありません。
  ブドウ糖を燃焼させてエネルギーを得ています。燃焼させるために酸素が常に必要なのです。
  それともう一つ、必要な原料があります。
  ガソリンをそのまま置いていても発火しないように、ブドウ糖も酸素があるだけでは燃焼しません。
  ガソリンにはプラグのような発火材、ブドウ糖の燃焼にはビタミンB1が絶対にいるのです。
  酸素は大気から、水溶性のビタミンB1は食べ物から
  人間はその行為を怠ると死に到ります。

  普通、呼吸が止まった場合、5分を超えるとあぶないといわれています。
  血液中に含まれている酸素は、補給がない限り、炭酸ガスに取って代わられてしまいます。
  脳の機能はストップしてしまい、意識はもうろう、いわゆる中枢の働きがなくなってしまいます。
  普通はそうなのです。
  
  ところが、蘇生する人たちがいるのです。
  10分、20分、30分でも蘇生する人たちがいます。
  これはどういうことなのでしょうか?
  酸素はどこから補給したのでしょうか?
  ビタミンB1は残っていたとしても、酸素は?
  酸素の製造はできないはず。
  筋肉や臓器に供給されるはずの酸素を脳にまわしたのか?

  蘇生した人たちは低酸素脳症による高次脳機能障害におちいります。

  個々の病院で蘇生するわけですがプライバシーの関係上、データーがそこから外に出ません。
  正幸は4月にしては寒い日でした。
  この”寒い日”が蘇生のキーなのか?
  低体温療法が脳への酸素供給量を少なくても可能にする。

  新皮質の酸素を特に必要としている部分はどこなのか?
  血流の多い部分がきっとそうなのだろう。
  そこが分断されるように、プツンプツンとニューロンが消えてしまっている。
  ただ存在していた小さなニューロンへと、血管が修復修正され大量の血液が流れるように
  なっていくだろう。酸素やエネルギーを必要とする部分へ血液が流れるようになる。
  小さなニューロンはやがてシナプスを伸ばして空間を埋め尽くしていくだろう。
  前頭葉、左側頭葉、海馬。それぞれ独立しているように名前がついているがすべてシナプスで
  連絡している。
  酸素不足はこれらの各部位に点在的に打撃を与えているようです。
  MRIやCTでは捕らえられないような小さな損傷です。
  ある先生の話では脳全体が小さくなっている可能性もあるということですが、
  健康体の時との比較ができません。
  


4:「バガー・ヴァンスの伝説」を見て
  
  ある町の天才ゴルファーが若くして戦争に参加します。彼は勢い込んで戦場に赴きましたが、
  周りの戦友たちは倒れ死んでいきます。彼の心はおかしくなり、なにかを忘れてしまいます。
  プロゴルファーにとって大切な「スイング」の記憶がぽっかりなくなってしまったのです。
  時は大恐慌時代。町には失業者があふれ、店をたたむところがほとんど。
  町では有名なプロゴルファーを招いて活気をよびもどそうとします。
  2人の超一流プロゴルファーと町の希望の星、「スイング」を忘れた彼が選ばれました。
  そこに、バガー・ヴァンスが闇の中から現れます。
  「あぶないじゃないか」
  「きみの球筋では真ん中には来ないから、安全」
  バガー・ヴァンスがキャディーになって(5ドルの契約)参加します。
  彼の記憶は試合中でもなかなかもどりません。
  バガー・ヴァンスは悠々と構えています。
  第一日目の36ホールでもう8打差。
  「逃げるならいましかない。逃げるかい?」
  彼を誇りにおもっている少年が「4ホールで1打追いつけば挽回できる!」と叫びます。
  再びコースにもどった彼に奇跡がおこります。
  後は、映画を見てください。

  信じられないほどの衝撃を受けて記憶をなくす。そして、それをとりもどしていく。
  バガー・ヴァンスは救世主だったのでしょうか?
  かれにとっての。
  かれのなかにあるものを引き出してくれるサポーターだったのでしょうか。

  正幸の救世主はどこに?
  たぶん、家族?
  正幸のなかにあるなにかを引き出してくれるヒントはどこにあるのだろう。
  正幸を限りなく愛する家族は捜し求め続けます。

  水俣病の人たちは人を信じることの困難さを言っていました。
  人は簡単に人を捨てていく。
  信じられるのは家族だけであったと。

  バガー・ヴァンスは人だったのだろうか?
  人だったとおもいたい。


3:音・会話・音楽・リズム・ダンス・動き

  ひとつの企画のもとにひとびとが集まる。
  ひとつの音楽がひとびとのこころをひとつにする。
  アメリカがベトナムと戦争をやっているころ、
  ボブ・ディランの「風に吹かれて」
  アフリカ諸国に飢餓のあらしが押しよせ、たくさんの子供たちが飢えに苦しんでいたころ、
  世界の歌手たちが参加した「ウィ・アー・ザ・ワールド」
  音楽は場所・時間・人種を問わず感動をあたえてくれる。
  バッハ、ベートーベンも。
  そしてそれぞれの成長のあいだ、それぞれの好みの音楽をもっている。
  だれもが。

  2001年3月18日の「いるかの夢」リハーサルに集まった約50人のひとたち。
  知らないひとたちもいます。
  広い体育館の中央でMDからながれてくる音楽にあわせて練習がはじまります。
  サークルEchoの青年たちも。
  正幸はもう立ってうろうろしています。入っていこうかどうしようかと迷っているみたいです。
  ダイアナ・ロスの「イフ・ウィ・ホールド・オン・トゥギャザー」のとき、
  女性たちと一緒に入っていきました。
  正幸がおどっています。ゆっくりとした動きが気に入っているのかもしれません。
  V6の「輪になって踊ろう」です。
  寝ていたAもむっくりおきて来ました。Bはもう口ずさみながら手を前後にゆらしています。
  Cもきました。
  神宮前で何度もこのメロディーを聞いて練習してきたかれらは「やる気」をみせてくれました。
  みんなすんなりとけこみ参加していきました。心配していたことはなにもありませんでした。

  音楽療法。
  身体の動き、口の動きをともなうリズム体操。
  ひとりではないよ、遊びを取り入れたゲーム感覚の音楽遊戯。
  親も参加して、このときばかりは子供にもどってもいいのでは。
  「ロンドン・ブリッジ」「かもめさん」など。
  散歩のときもリズムを取り入れ、はぐれない方法がありそう。



2:正幸が参加しているサークルEchoについて

  それぞれ地域の違う3家族が「高次脳機能障害」という言葉の会で3年前に出会い、
  それぞれの息子が脳外傷ではなく低酸素脳症ということで各地にできていた脳外傷の会に
  どこか違和感を持ち、出会いと同時に意気投合し、互いの家庭を訪問したり、施設を訪ねたり、
  交流をしてきました。
  会報も出すようになって、サークルEchoは低酸素脳症の家族の会として広まっていき、
  関東で5名愛知で2名(3名でしたが1名なくなられました)滋賀1名、計8名のメンバーと
  その家族および協力者と活動を続けています。
  先日、代表のことが朝日新聞に掲載されました。

  どんな理由であれ心肺停止から蘇生された方とその家族の方々、
  一緒に話し合いませんか。
  元気になられた方も大歓迎です。ぜひ、それまでのことをお聞かせください。

  
  Echoメンバーの低酸素脳症の原因は水の事故が5名、麻酔事故が1名、過労事故が1名、
  喘息が1名。
  すべて心肺停止からの蘇生者です。
  かれらは全員、介護なくしては日常生活をおくることのできない高次脳機能障害者です。
  高次脳機能障害という言葉で括っていますが症状はそれぞれちがいます。心肺停止の時間の
  相違なのか、損傷部分が違うのか、見事にそれぞれです。
    正幸は穏やかで指示通りに動き、まず、会話はしません。話せるのですが。
    Aは言葉を限定してくりかえし話し掛けてきます。元気ですがよく寝ます。
    Bは悠然としているのですが、食べ物にすぐ手をだしてしまいます。
    Cは言葉も失ってしまったけど、一番活発。
    Dはあまり移動しません。
    Eは音に異常な反応を示します。
    元気だったころの反対の生活態度になっているのか?
  疑問は山ほどあります。
    正幸を理解(?)できてもA以下はほんの一部の理解。
    土曜日ごと会っていてもそのつど変化する。先週の土曜日のようにはいかない。かれらは
    忘れてしまっている。それぞれの家族も自らの子供は理解していても他は推定。
    時間がかかる。分かっているようで分からない。いつも初対面の感覚。

  第一、第二、第3土曜日に家族が神宮前で会っています。
  それぞれの生活地域が離れているため、この定期会は有意義です。
  部分と全体をここで話し合います。
  全体をとるか部分をとるか困難な場合もありますが基本はそれぞれの
  生活の場であることはまちがいありません。
  神宮前では子供たち(青年たち)の意思疎通も重要な課題としています。

  4月1日にサークルEchoはジャズダンスの舞台に立ちます。
  そのための踊りをみんなで練習しています。
  全員が大きな輪になって踊るのです。V6の「輪になって踊ろう」にあわせて一つになるのです。
  みんな楽しそうにです。フィナーレ前に登場して、はたしてかれらは踊ってくれるだろうか?
  大観衆の前でかれらは自らを表現できるだろうか。
  できる!と信じよう。
  かれらのそれぞれの動きと表情を見逃さないように!
  



:はじめに思ったこと(1996年)

 横浜の救命救急センターを出て転院するとき、「低酸素性脳症」と記してあった。初めて聞く言葉だった。

 水の事故による心肺停止により脳の神経細胞がダメージを受け記憶障害におちいっていることは

 分かっていた。

 「高次脳機能障害」という障害名を知ったのはずっと後のこと。

 病院ではこんな団体があると教えてはいただけなかった。1996年のことです。

 NHKの脳のスペシャル番組のビデオを見たり、脳に関する本、記憶という文字のある本、

 手当たり次第に情報を収集した。これは、なにが原因であれ「高次脳機能障害」におちいった

 中途障害者を持った親は例外なく実行したことだろう。

 脳のことは分かった。しかし、捜し求めているものがみつからない!

 どうやって息子を治療していけばいいのか。

 記憶の細分化された仕組みは分かった。しかし、捜し求めているものがみつからない!

 どうやって息子とかかわって治療していけばいいのか!

 「社会復帰は不可能」という若い医師の言葉に、いまにみていろ、その言葉をくつがえしてやるという

 闘志と息子の回復、このことが一生の求道になるかもしれない。それがいまも、これからも続く。

 退院してからというもの、驚くことばかりであった。

 正幸はあらゆる制度から見放されていた。手帳制度、障害年金制度、保険制度、福祉施設など、

 なにもなかった。正幸はいわゆる健常びとだった。現在の制度のうえでは、生きていくための福祉の

 恩恵は絶無だった。

 正幸を知るだれもが驚いた。みんなだれもが給付金をもらっていると思い込んでいた。

 福祉施設でリハビリに励んでいると思い込んでいた。

 1996年4月2日以来、正幸は家族なしでは日常生活をおくることができない。

 記憶・意欲・認知の障害を持っていながら医療機関は家族よりも無知としか感じられなかった。

 いわゆる、放置です。医療から得るものは失望だけ。

 見切りをつけ、小学校4年生の添削プリントで正幸との訓練が始まった。

 毎日の記録を正幸につけさせた。

 集中力と持続力が喪失している正幸は結果として続けることができなかった。

 なぜ?いまでも、なぜ?と考え込んでしまう。家族のあくなき努力がたりなかった。

 ビーグル犬との散歩を雨の日も家族と水元公園で2時間やった。

 同じなのか?悪くなっているのか?よくなっていってるのか?まったく分からない。


表紙にもどる