仮説。僕は叫ぶ。仮説なんて言葉を使う奴は今日からムスと呼んでやると決める。そしてひたすらムスムス叫ぶことに集中する。
(「Self-Reference ENGINE」)
もう少し、円城作品の素になっている言葉について伺いたいのです。言葉を道具として意識し書いていくと、出来上がった小説は難解になりがちでは? 難解さは譲れないポイントなのでしょうか? あえて難しいものにしているものなのか否か。
あえて難しくしているつもりはまったくないですし、わかりづらいのであれば改善したいともおもっていますよ。それが文章技術上の問題であれば、どこがどう難しいのか指摘してもらえたら直したい。でも、そういう指摘はしてもらったことがなくて。難しさが、専門用語に起因するのであれば、そもそも専門用語は業界の人にしかわからないものだから、ある程度やむを得ないともおもいますし。
ひとつおもい当たるのは、僕の文章には代名詞が多いという点ですね。「あれ」「それ」「その」といった言葉を多用してしまう。気づけばこれは憲法の条文か? という感じになってしまう(笑)。注意したいとはおもいますけど、小説の文章って量が膨大で、つい書いているとその心がけを忘れてしまうんですよね。
ちょっと難解そうにみえるのは、ふつうの小説のルールを逸脱しているからということもあるとおもいます。明快なキャラクターを持った主人公が登場し、その彼または彼女がはっきりとした目的のもと行動する。その過程でだれかと出会い、影響を与え合いながら何か内面の変化を経験する……、といったことですが。
ああ、それはそうですね。ふつうの小説のルールをあまり採用していないのはたしかです。それはいわゆる、ちゃんとした筋のある小説ということですよね。でも、主人公がいて事件があってオチがあるというのは、主にミステリーのような分野で発達してきたものであって、文学史全体のなかでみれば、むしろ特殊なものですから。
いま商品として部数がよく出て、広く読まれているのがそういう小説だということですね。
はい。ただ、文学の歴史では、みなかなりムチャクチャなことをやってきた。僕なんてわりとおとなしいほうです。小説とはこういうものだというおもい込みは、無視していいんじゃないでしょうか。男女が出会って、でも最後は結ばれず涙で終わる、といった小説を書く人はいっぱいいるでしょうから、僕にそれを期待するのはおかしい。まあ、そういうのもやりたいとはおもうんですけど、どうやればいいかわからないのです。僕がやると、恋人が病気になって、でも純愛を貫いてという設定にしたとしても、最後には主人公まで病気になってしまって収拾がつかなくなるとか、きっとそういう訳のわからないことになってしまう(笑)。
円城作品のいくつかは、一行目ではそうした「まっとうな」小説が展開されるのかと期待させる面もありますが。
それなのに、すぐ違う方向へ内容が逸れていってしまう。わざとそうしているつもりもありませんけれども。
ストーリーのつくり方においてふつうの小説のルールを踏み外しているのと同時に、文章の「綴り方」においてもふつうじゃないところがみられます。通常の小説の文章は、かたちのうえでも意味のうえでも一本の線でつながっていて、順に目で追っていけば破綻なく内容が読み手のなかに入ってくるようにできている。
が、円城作品では、一文、またはひとつの段落までは一本の線になっていてかたまりを形成しますが、つぎの一文や段落とはスムーズにつながらず、線が切れています。何の前触れもなく違う話になったり、突拍子もない知見が披露されたり。それで読む側としては、「う、なんか難しい」とおもってしまう。
それも、一本の線で最初から最後までつながっているというのがふつうの読み方だと信じ過ぎているからでしょう。
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