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※以下、尊称は省略
一九四三(昭和十八)年に入ると、牧口は二度、警視庁へ出頭を命じられます。五月には中野署に一週間留置され、神札や神社への礼拝などの問題について取り調べを受けています。
牧口の謗法厳戒の指導によって、学会員が神札を受けないことが、弾圧の口実になると恐れた宗門は、同年六月に、牧口会長ら幹部を大石寺へ呼びつけて、会員に神札を受けさせるように命じました。
当時の状況を、戸田第二代会長は、「創価学会の歴史と確信」の中でこう述べています。
『当時、御本山においても、牧口会長の宗祖および御開山のおきてに忠順に、どこまでも一国一家も個人も、大聖の教義にそむけば罰があたるとの態度におそれたのである。
信者が忠順に神だなをまつらなければ、軍部からどんな迫害がくるかと、御本山すらおそれだしたようである。
昭和十八年六月に学会の幹部は登山を命ぜられ、「神札」を一応はうけるように会員に命ずるようにしてはどうかと、二上人立ち会いのうえ渡辺慈海師(庶務部長)より申しわたされた。
御開山上人の御遺文にいわく
「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」、この精神において、牧口会長は、神札は絶対にうけませんと申しあげて、下山したのである。
しこうして、その途中、私に述懐して言わるるには、
「一宗がほろびることではない。一国がほろびることを、なげくのである。宗祖聖人のお悲しみを、おそれるのである。
いまこそ、国家諌暁のときではないか、なにをおそれているのか知らん」と』(戸田城聖全集第三巻一〇六頁)。
このとき、牧口が宗門の権威に従わず、正義をつらぬき、日興上人の遺誡を守りぬいたからこそ、正法の命脈と、広宣流布の道は断絶することはなかったのです。
しかし、日蓮の正義を守ることよりも、難を恐れ、我が身の保身を第一にした宗門は、法主である日恭の立ち会いのもとで、信徒に神札を祀るという「謗法を行う」ように命じたのです。
牧口は、「神札は絶対に受けません」と、その勧告を拒否します。
そして、六月二十八日、再び大石寺に登山し、日恭に直接、「神札を甘受することは誤りである、いまこそ国家諌暁のときである」と諌暁しています。
しかし、それは受け入れられず、当局の追及を恐れた宗門は「申し渡し」を聞き入れない「牧口・戸田」をはじめ学会幹部を「登山禁止処分」にしたのです。
以前から、牧口が出席している座談会には特高警察が立ち会うことがありましたが、一九四三(昭和十八)年ごろからは話が「神札」や「国家体制」のことなどに及ぶと、「弁士! 中止、中止!」と、直接さえぎるようになりました。
牧口は、そのたびに話をそらし、また神札のことに話を戻します。すると再び「中止!」の声がする。
官憲によって何度中断されようとも、牧口は国家崇拝・邪宗崇拝の非を訴えることを止めませんでした。
牧口は、自分の神札排斥の言動が不敬罪などに問われ、それが不当逮捕につながる危険性があることを予想していました。
そうなれば、法廷で自分の考えを主張しようと、「国家諌暁」の姿勢をつらぬく決意を固めていたのです。
そんな覚悟を表すかのように、牧口は春ごろから本部の二階で、「立正安国論」の講義をはじめています。
そして牧口は、逮捕を現実の問題として受け止めはじめていたのです。
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