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※以下、尊称は省略
このことを不二の弟子であった戸田も「創価学会の歴史と確信」の中で次のように述べています。
少し長いですが、大事なところなので引用します。
「創価学会が、初代会長牧口常三郎先生に率いられて、大法弘通のために立たれたときは、罰ということを正宗信者が忘れていたときである。
牧口先生は罰論をもって大法を弘通せんとし、内外にこれを説いて、あらゆる難にあったのである。
罰論を説くのは、日蓮正宗の教義に背くものとして攻撃した僧侶すらあったのである。
牧口先生は、敢然として法罰の恐ろしさ、法罰厳然たるを説いてゆずらずして、ご一生を終わったのである。
『御本尊様は偉大な力がおありになる。罰なくして大利益があるわけがない。子をしかる力のない父が、子に幸福を与えられない。御本尊様をじっと拝んでみよ。「若し悩乱せん者は頭七分に破れん」との御本尊様のおおせが聞こえないか。御本尊様が罰をおおせではないか』とは先生の持論で、私も先生の持論は正しいとおもう。
これに反対する者は、大御本尊の威力を信じない者であり、これこそ、釈迦仏法のやさしい慈悲のすがたのみをあこがれる文上仏法のやからで、日蓮正宗の正流ではない」(戸田城聖全集第三巻一〇二頁)。
「利益と罰は、われわれ日常の真実の生活であり、価値生活の全体である。
この尊いことを忘れておって、牧口先生がこれを説くや、おどろきあわてた連中のすがたは、いま思い出してもこっけいのきわみである。
そして、いまごろになって、むかしから知っていたような顔をしている悪侶もあるのにはおどろくのである。
今日にいたって、なお、これを思い出さない愚侶もいるのには、おどろくというより無知を悲しむものである」(同一〇三頁)。
「時あたかも、わが国は太平洋戦争に直面し、国をあげて修羅のちまたに突入したのである。
牧口会長は、この大戦争の間に、強く大聖人の御精神を奉戴して、国家の悪思想たる天照大神を拝むということに対立したのであった」(同一〇四頁)。
「このとき、牧口会長は、天照大神の神札を拝むことは、正宗の精神に反すると、きびしく会員に命ぜられたのである」(同一〇五頁)。
「牧口会長のあの確信を想起せよ。絶対の確信に立たれていたのではないか。
あの太平洋戦争のころ、腰抜け坊主が国家に迎合しようとしているとき、一国の隆昌のためには国家諫暁よりないとして、『日蓮正宗をつぶしても国家諫暁をなして日本民衆を救い、宗祖の志をつがなくてはならぬ』と厳然たる命令をくだされたこをと思い出すなら、先生の確信のほどがしのばれるのである」(同一一八頁)。
「私は学会の総意を大聖人の御命令と確信し、矢島理事長の辞任とともに、会の組織をあらため、折伏の大行進の命を発したのである。
ここにおいて、学会は発迹顕本したのである。顧みれば、昭和十八年の春ごろから、故会長が、学会は『発迹顕本しなくてはならぬ』と口グセにおおせになっておられた」(同一一九頁)。
「私どもは、故会長の意志をついで、大御本尊の御前において死なんのみであります。
この確信が学会の中心思想で、いまや学会に瀰漫しつつある。これこそ発迹顕本であるまいか」(同一二〇頁)。
「御僧侶のなかには、また次のごとくいうであろう。『めったやたらに本尊はお下げしない』と。とんでもないことである。
そんなことで、寺を建てたが、本尊を下げわたさないというならば、寺は建ったが、なんのはたらきもしない。
ただ坊主の寝床をつくったにすぎないことになる。
広宣流布とは寺を建てることとかいうことではなくて、結論においては、正法が流布して中心がきまらなければならなくなって、寺が建つことである」(同一二五頁)。
このように戸田は、初代牧口会長を誹謗し、苦しめ、切り捨てた日蓮正宗の大悪(悪侶)を絶対に許されなかったとともに、牧口の意志である「広宣流布の実現」を目指して立ち上がりました。
それは、第三代池田会長の時代になっても一貫して変わってはいません。
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