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「善いことをしない」のは「悪いことをする」のと同じ
『瞋恚は善悪に通ずるものなり』(御書584頁)と大聖人は言われている。悪への正義の怒りは「善」、エゴの怒りは「悪」。怒りそのものが善いとか悪いとかは言えません。善悪は「関係性」です。だからこそ、積極的に「善の関係」を創っていくことです。
牧口先生は、獄中にあっても対話を続けられた。「悪いことをするのと、善いことをしないのは同じか違うか」。こういう質問を、他の獄房の人にも聞こえるように言って考えさせたというのです。普通なら、「悪いことをする」よりは「善いことをしない」ほうが、まだましと考えるでしょう。悪いこともしないが、かといって善いこともしない――それが、多くの現代人の生き方にもなっている。しかし、牧口先生は「善いことをしない」のは「悪いことをする」のと同じだと言うのです。
たとえば、だれかが電車のレールの上に石を置いたとする。これは悪です。一方、それを見ながら注意せず、石を放置した人がいるとする。この人は、自分ではたしかに悪いことはしていないかもしれない。しかし、善いこともしなかった。そのため、結果として、もしも電車が転覆したならば、悪いことをしたのと同じだというのです。悪を放置し、悪と戦わなければ、それ自体が悪なのです。
ここから牧口先生は「積極的に善をなす」人生を教え、自らも実行された。しかも、小善を積み重ねてもだめだ、と。「『塵も積もれば山となる』というが、実際に塵が積もってできた山はない。できるのは、せいぜい塚ぐらいのものである」――牧口先生の表現はおもしろいねえ。また的確です。
〝山は地殻変動によってできるのだ。人間と社会の根底から変革していかなければ、間に合わない。それが大善であり、法華経を弘めることである〟と結論されたのです。
法華経の智慧(中)提婆達多品(第十二章)
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