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まず、
1、「善神捨国」 …万民の業感に由る故(日寛)。 = 民衆自身の活力、生命力の低下。
災難や戦争が起こるのは「善神は国を捨てて相い去」る故であると。
これを日寛は「万民の業感に由る故」と解釈していますが、現代的な言葉で「善神」とは国土や社会の活力と理解することもできます。
それが「去る」とは、民衆自身の活力、生命力の低下ととらえることができるのではないでしょうか。
日寛のいう「万民の業感」とはそういう意味でしょう。
これは、民衆自身の活力が低下するからこそ、
権力者に利用され、戦争に引き込まれてしまう、と捉えることはできないでしょうか。
もともと民衆の「民」の原義は奴隷のことであり、その文字の成り立ちは、目を針で突くことの象形であると言います。(※参考 白川静『新訂字統』二〇〇四年、平凡社刊参照)。
つまり、捕虜から視力を奪い、自由を失わせて奴隷として使ったことからきています。
また、『立正安国論』の中では『仁王経』を引いて、
「若し出でて人と為らば兵奴の果報ならん」という文があります。
人と生まれてきても「兵奴」にされてしまうというのです。
「兵奴」とは言いえて妙ですね。
兵士は命令によって動かされていく存在です。
しかも最も有能な兵士とは「黙って命令を遂行する者」のことではないでしょうか。
権力者にとって、文句を言わず、黙って命令を遂行する者ほど都合のよい存在はないのです。
私たちは、決してそのような兵士・兵奴になってはならない
戦争を抑止するためには、民衆自身が自立した判断力と行動力をもつことが必要ではないかと思います。
ここでいう民衆の活力とは民衆の自立力のことでもあると思います。
では民衆の活力や自立力を知るバロメータは何んでしょうか。
それは民衆が自らの欲求不満をどこで解消しているか。不満の捌け口をどこに向けているかをみれば明らかです。
例えば、
民衆がその不満を、自分よりも弱い立場にいる人・社会的弱者・社会的にマイナーな立場の人に向けている時はどうでしょう。
民衆の活力は、まさに弱肉強食の畜生界のように低く、結果として、権力者によって家畜のように扱われてしまうことになってしまいます。
または、不満の捌け口を外に向けている時はどうでしょう。
この時も、民衆には権力者の姿がみえていない。
だから、権力者は仮想敵を作って、常に民衆の目を外へ向けようとする。
こういうところでは、決して健全な自立した民衆は育たないと思います。
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