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2、「聖人辞去」 …国王の理に背く故(日寛)。 = 政治に道理が立たない。→ 力の論理。
災害や戦争が起こる二つ目の理由は「聖人は所を辞して還りたまわず」と。
「聖人」とは「道理の象徴」と捉えることもできます。
その「聖人が去る」とは、社会や政治に道理が立たないことを意味しているのだと思います。
日寛は「国王の理に背く故」と言っていますが、この「国王」とは、まさに政治そのものの象徴であることに誰も異論はないでしょう。
道理が立たない社会を支配しているのは、力であり暴力です。
道理が立たない政治に通用しているのは力の論理だと思う。
全てがパワーゲームで動かされていく。
力の論理とは、まさに権力そのものなのだと思います。
この権力を、仏教では「他化自在天(第六天)」と呼びます。
他者を自分の思い通りに動かそうとする欲求のことであり、権力欲の権化です。
「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」(『戦争論』クラウゼヴィッツ岩波文庫)とありますが、
まさに民衆を手段とし、民衆を道具とする政治が戦争なのです。
だからこそ、私たちは政治から目をそらしてはならないのだと思います。
戸田先生の「青年は心して政治を監視せよ」という言葉の意味が蘇ってきそうです。
ただ注意しなければいけないのは、
この言葉は「権力の監視」にこそ、その真意があるのであって、民衆同士の相互監視という意味ではない、ということです。
権力の所在はどこなのか。そこをはずしてはならないと思います。
政治に力の論理が居座ると、その延長線上に、かならず、敵を潰せ、敵を排除せよという排除の論理と勇ましいスローガンが横行することになります。
そこにあるのが戦争である、ということは歴史が繰り返し証明して来たことです。
そのような力の論理、排除の論理に飲み込まれてはならないと思います。
では、この権力に打ち勝つものは何か。
日蓮大聖人はそれを「道理」と説いています。
「仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に勝つ物なり」
道理の立たない世には、どこまでも道理を主張していくのが仏法の精神です。
それが私たちの言論であり、日蓮大聖人が『立正安国論』で示した粘り強い対話であると思います。
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