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3、「背正帰悪」 …誹謗正法に由る故(日寛)。 = 民衆に活力を与える法、哲理の排除。
さて、ここで三点目に挙げるのは、「世皆正に背き、人悉く悪に帰す」ということです。
順番からいうと、一番先に挙げるべきことですが、あえて三番目に持ってきたのは、教条的な理解を避けたいと思ったからです。
こういう場合には原理原論から入るよりは、現実の理解から入ったほうがいいと思うからです。
ここで日寛は「誹謗正法に由る故」と言っていますが、平和の問題を考えるのに、あまり教条的な解釈は避けたほうがいいでしょう。
これは、勝手な私見ではなく、日蓮大聖人自身が『立正安国論』においては、その正法なるものを「実乗の一善」としか述べていないからです。
ここに日蓮大聖人の極めて現実主義的な一面があると思うのです。
では、ここでいう「正」とは何か。
「悪」とは何か。
これは、民衆に活力を与える法を「正」といい、民衆の活力をそぐ法を「悪」というのだと考えたい。
この発想に立てば、仮に日蓮大聖人の「名」を語ろうとも、もし民衆の活力をそぐ方に働くならば、それは「悪」と指弾されてもやむをえないと思います。
私たちは日蓮大聖人を信じてさえいれば「正義」なのではなく、
日蓮大聖人を信じてさえいれば「平和主義者」なのではありません。
むしろ、自分が平和に向かって何をしているか。
民衆の活力の象徴として、自発的に何を行っているかが問われることになると思います。
自分が所属している教団が何をしているかではなく、自分自身が何をしているかです。
権力者にとって目覚めて自立した民衆ほど、扱いにくいものはない。
だから民衆の自発的な行動に眉をひそめることになるのです。
古来から権力者の座右にあるのは次の言葉です。
「百姓は知らしむべからず、依らしむべし」
「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」
つまり、情報のコントロールであり、民衆の分断です。
『立正安国論』の上で、同じ事を端的に述べたものとして注目されるのは次の言葉です。
「捨・閉・閣・抛の字を置いて、一切衆生の心を薄(おか)す」と。
「捨てられ、閉じられ、差し置かれ、排除され」るのは、先に述べた「民衆に活力を与える法」です。
いいかえれば、民衆の指導原理、生活原理であると言えるでしょう。
そういう大切な情報がコントロールされるとしたら、民衆にとってこれほど不幸なことはない。
まさに、それは「一切衆生の心を薄(おか)す」であり、民衆の活力、自立力を弱らせることになります。
日蓮大聖人は、その勢力と戦うために道理を立て、対話という戦いの方途を指し示したのです。
日蓮大聖人が示した平和への道はここにあるのだと思います。
いうまでもなく、対話とは、決して上下なく、一方通行でない、たゆまぬ一対一の心のふれあい、心の触発の連続作業のなかで前進していくと思うのです。
以上。
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