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日興上人が仰せのように、平和も、国を安んずる広宣流布も、法を立てる「内外の才覚」なくしてはできない。
「人材が必要だ」と仰せである。
とくに青年は、仏法を根本に、世界に知識を求め、勉強しぬかねばならない。
日興上人の「遺誡置文」には
「学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事」(御書一六一八頁)
――学問が未熟でありながら名聞名利の僧侶は、私の末流とは認めない――と厳しく戒められている。
今回の事件の背景の一つも、この御遺誡を僧が守っていないことにあろう。
あまりにも世界を知らず、学問を怠っている。
それでいて「尊敬せよ」(名聞)、「もっと敬い、もっと供養せよ」(名利)というのでは、いったい、だれの末流なのであろうか。
また、御遺誡には
「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を到す可き事」(同頁)
――いまだ広宣流布していない間は、身命を捨てて、力の及ぶかぎり正法弘通をなすべきである――と仰せである。
だれが、この御遺誡を実践してきたのであろうか。わがSGIである。
これら御遺誡の二十六箇条は、日興上人が本来、僧侶に対して遺されたものであり、
「此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず」(御書一六一九頁)
――このうち一箇条でも犯す者は、日興の末流ではない――と、明確に記されている。
真の「僧宝」であられる日興上人に連なるからこそ、総じては他の僧俗も「僧宝」の一分になるのである。
日興上人の御遺誡に背く僧が「僧宝」でないことは、当然すぎるほど当然の事実である。
それどころか、大聖人門下を名乗りながら、謗法を容認し、御書を軽視し、日興上人の末流を名乗りながら、民部日向とそっくりの振る舞いをなすのでは、これこそ、いわば《三宝破壊》ではないだろうか。
ともあれ、無学であるほど、広宣流布に励む人を「外道」よばわりする――これが一つの公式といえよう。
【第一回アメリカ青年研修会 平成三年十月一日(大作全集七十八巻)】
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