希望の哲学

大河さんが運営されている「希望の哲学」ブログで、創価学会に
批判的な自称学会員さんに対し、数名の方がコメント交換をされていました。

ネット上ではよく見かける「学会員に迷惑をかけられた」とか
「心の病気なのに自分を認めてくれない」といった不満を書き込む
タイプの方でしたが、ブログ管理者をはじめ、ほとんどのコメンターさんが
親身に対話をされていました。
結局、自称学会員さんが一方的に悪態をつくばかりでしたのでスレッド
そのものが管理者によって不可視状態にされました。
おそらく、ブログを開設されている学会員さんの中でも
「学会批判をする自称学会員」さんの応対を経験をされた方も多いのでは
ないでしょうか。

どんなに、自分が苦労をしてきたか、虐められたかを長々と説明できても
自分が他人の為にどのように頑張ってきたかが、主張できない人がいます。
学会員さんにかぎらず、一般の人にも言えることかとおもいますが、
自分が本気で頑張ってきた経験のない人は、他人がどれだけ頑張っている
のを理解しようとしない傾向があるように思います。

それはなぜか。
自慢をすることで自分を慰撫し、他者に誇示することが目的なので
相手がどんな苦労をしているのかまで、思いを馳せる必要がないからです。

たとえ「~をしない理由」を沢山あげることができたとしても、また、
「~をする理由」がただの「自己満足の実現」が目的であるとするならば、
発した言葉は、それを聞く(見る)外の誰かをイケニエにする行為に過ぎません。

特に「過去の失敗体験」にネガティブな意味を持たせつづけようとする人は
要注意です。

自己啓発の元祖と言われている、医師であり心理学者のアドラーの説では
「心的外傷(トラウマ)」による不実行は否定されています。
アドラーは「目的の為に過去に意味を付与している」と考え、非論理的かつ
非能率的であると論じました。
なぜなら、同じ苦しみを味わっている多くの人が、同じ反応をしめしている
とは限らないからです。

たしかに、ネガティブな感情がまさってくると「そうなった理由」を、自分以外の
誰かの影響であると結論づけて、その「理由」に固執する場合があります。
「お金がないから」「親の愛情を受けなかったから」「生まれつき体が弱いから」
「社会が自分を認めないから」「政治が悪いから」などなど。

実際にそういった「事実」がまったく関係していないとまでは言いませんが
自分でもどうしようもない過去の事実に縛られて、未来の可能性を閉ざすのは
道理に反するのではないでしょうか。

ネット上で、誰がしから相談を受ける際にアドバイスする側が注意して
おかなければならないのは、あくまで、次の一歩を進めるのは相談者本人で
しかないと腹をくくることではないでしょうか。
優しく接してあげれば、なんでも言うことに同意してあげれば、現実問題も
上手く対処するだろうと安直に考えるのは、所詮、自分が最後まで責任を
負う立場でないと心の底で考えているからだとおもいます。

ならば、学会員としてなにを指導するべきなのか。

お題目をあげること、学会活動(教学を含む)に励むこと。
これ以上の指導はありませんし、その他は副次的かつ相対的なものでしかありません。
「一緒に頑張りましょう」と言えるのは、相談者本人が学会活動を真面目にされる
までフォローできる場合だけだと思います。

ここを間違えると、ネット上で気楽に活動をこなしているように毎日報告する
ことで学会員さんに喜んでもらえる。励ましになる。意義があると勘違いされます。
本気で活動をすれば必ず壁にぶち当たります。
むしろより大きな悩みや苦悩が出てくるはずですが、それが感じられないのは、
些細な事で有頂天になっているだけではないでしょうか。

もしネット上で「功徳の自慢」をしている人がいても、私には「幸せそう」には
見えません。
よくよくみると、男性は自分の財産や仕事上の「得」の話しに終止し、女性は
コミュニティでの「自己評価」を求めています。
むしろ、現場で気さくに話せる同志がわずかしかおられないのではないか、
と危惧してしまいます。

特に「学会員」として他愛ない日常や、聖教新聞のコピーを毎日アップして
いる人、あちこちのブログに毎日あいさつコメントを書き込む、あざとさい
ブログ主には要注意です。
学会を批判している人が「個人的欲求を満たす」ためにネットを徘徊
しているのであれば、創価学会・学会員を褒めちぎってネットを徘徊して
いる人の中にも「個人的欲求を満たす」目的の人がいてもおかしくないでしょう。

さる2月28日付けの聖教新聞に、ニッポン放送のアナウンサーさんとの対談
が掲載されていました。
その対談の中で「コミュニケーションに自己顕示欲は必要ない」という
話題がありました。
背伸びしなくても、等身大の自分で、なにかを伝えることはできるのです。
相手がどう解釈するかまでも、話し手の表現力で思い通りにできると考えるのは
慢心に他ならないでしょう。

どんなに自分を取り繕っても、善いことをいっても、相手が納得するか、また
、相手から予想しないような事を言われても自分が納得できるかは
その境涯によってちがうはずです。
その場では低い境涯が涌現し反発心がおこったとしても後で、境涯が
高まれば「当時の言葉の意味」が変化する可能性は十分にあるのです。

だから、相談を受けた学会員さんは信仰者として「一番伝えなければならないこと」
を最優先で答えてあげることが肝要です。

それこそが「希望の哲学」となるのではないでしょうか。














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