『眠れる美女』への長い道のり 3.

 わたしはいつもそうだが、なにか都合の悪いことがあると穴にこもる。何ヶ月でも何年でも冬眠する。1992年(平成4年)の秋もある企画を中止してしばらく福岡県飯塚市の実家に戻った。
 前年の7月2日わたしは父をガンでなくした。父を最期まで看病してくれた伯母(父のすぐ上の姉)が急性乾湿性肺炎という病気に罹り、たった1ヶ月で12月に亡くなった。伯母は亡くなる前日病院のベッドでハタから見ていられないほど苦しがった。伯母の夫(義理の伯父)、3人の息子、叔母(父のすぐ下の妹)は伯母のそばでただおろおろするばかり。わたしは看護婦に言って当直の医者を呼んだ。飛んできた医者をカーテンの陰に呼びこんで患者との続柄を説明し、わたしが責任を持つからこの場を何とかしてほしいと頼んだ。医者はすぐにアンプルをわたしに示した。なんという薬か知らないが、医者は「これを全部注射すると患者さんはすぐに死にます。このくらいなら大丈夫だと思うのですが」とアンプルの三分の一くらいを指さすので、わたしは半分くらいの所を「じゃ、ここまでうったら、どうなりますか? 」と尋ねたら医者は「なんとも言えないですが」と言葉は曖昧だが、彼の表情には「すぐに死ぬことはない」とあらわれたので、伯母にその薬をただちに注射してもらった。
 伯母は注射し終わるか終わらないうちにおだやかな息づかいに戻った。そしてあくる日亡くなるのだが「安らか」な死であった。
 年内にあるプロデューサーと会う約束をしていたが、こんな事情から年を越してからにしてほしいと変更し1993年(平成5年)の初頭に会った。このプロデューサーは織田明さんとおっしゃる。深作欣二監督から1979年の夏にご紹介いただきながら、その時まで仕事が成立しないままであった。わたしは織田さんに『眠れる美女』を再開したいむねを話し、プロデューサーをお願いした。
 織田さんは丸2年かけてテレビ東京から5000万円(出資)、東宝事業部から5000万円(ビデオ化許諾料)合計1億円をこの映画のために用意して下さった。わたしは妻の実家を担保に銀行から5000万円融資をうけた。総製作費1億5000万円で1995年(平成7年)の1月に『眠れる美女』の撮影に入った。この企画を思い立ったのが東映の夏休み映画の監督を降ろされた年1986年(昭和61年)のことなので公開の日程までいれると10年の年月が流れていた。
 完成してすぐわたしは東映の秘書課に岡田茂会長、高岩淡社長に見ていただく段取りをつけてもらった。会長も社長も『眠れる美女』を試写室でちゃんと見て下さった。見終わったあと岡田会長はわたしに励ましの言葉をかけて下さったが、当然のことながらご本人は10年前にわたしを降板させたことなどはすっかり忘れているご様子。
 たまたまある先輩の監督もその日の試写に来ていて「横山って凄いよな。あの岡田茂にまるまる1本見せちゃうんだから」(ふつう映画会社のトップは映画の最後まで見ることはあまりない)と後輩の監督に語ったと後日わたしは彼から聞いて、あ、これで句切れがついたと満足した。
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by hiroto_yokoyama | 2004-08-05 09:03 | 映画
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