「ためがい」から「たべい」へ

(呼び方が変わる歴史)

 
田部井と書いて「ためがい」と読むは明治時代まで

「ためがい」と呼んで「田部井」と書くのは、姓ができて以来田部井一族の悩みでもあったことと想像できる。いま『太平記』では「田井」や「部井」と記され、たの南北朝以降の古文書などを開くと「多目井」などとも記されて(「田部井」)と注が入っているものが多い、歴史学者を悩ませていたとも考えられる。さすが江戸期には「田部井」と記され、「為我井」「為貝」などは江戸期に分れた「ためがい」さんである。


田部井姓の出自とする[新田庄田部井郷]の地名も、群馬県佐波郡東村田部井(ためがい)から、現在は合併して伊勢崎市田部井(たべい)と呼ぶようになっている。では何時ごろから「たべい」に変わっていったのかを儀右衛門は次のように考えている。

 儀右衛門の祖父・明治十年生まれの信平(しんぺい)までは、昭和に至るもその教え子たちが「ためがい先生」と呼んでいたことから、「ためがい」と呼んだことに間違いはないと思う。明治末期生まれの父も、昭和6年生まれの私も(田部井)と称していた。

 祖父の十二歳年上の兄・儀一郎が慶応二年に生まれ「田部井儀一郎源経信(ためがいぎいちろう みなもとつねのぶ)」と記した文書が残り、江戸時代の正式文書には多分そう書かれていたのであろう事が想像できる。
 また、儀右衛門の小学生の頃の女先生に「ためがい」とちょっと前まで呼んでいたとも教えられ、悪友は「肥え溜め(糞尿を溜める場所)」を連想し、「俺の小便を買ってくれ」などとからかった。


では、変わったのはいつごろだろう(字を呼び名に合わせて)

 江戸時代に田部井氏の分流では為我井、為貝、に呼び名を漢字に代えたのもあり、三春岡山氏のように明治時代後半に他姓に変わったのもある。

三春田部井氏のように、田部井と書いて「ためがい」と呼んだことや、「ためがい」と呼んで田部井と記すなどの、煩はしさに音をあげて改姓した例もあり、先の為我井、為貝なども同じようなことが原因で改姓したのではと想像してもおかしくない様な気がする。


為我井氏は
 (茨城県八千代市出身の為我井忠敬氏はこう伝えています。
)

 明治時代には近隣にまれにある豪農を中心とした「為我井」氏の一族があり、田部井源四郎と新田尼の伝承があり、その「墓地群の中には田部井と記されているものもある」と知らされていました。その事などから田部井経氏(つねうじ)の後裔と信じています。


三春岡山氏は
(小野新町の今泉令子氏によると)

 福島県の三春藩に仕えた田部井求氏が海外で活躍する弟が「田部井と書いて、ためがいと読む」煩わしさに閉口しての改姓の要望で、兄弟一同の合意により岡山氏を継ぐことによって、岡山と改名した。


鯖江市の田部井氏は「ためがい」と呼ぶ

 鯖江市の田部井氏は、江戸時代高崎藩時代から廃藩の明治まで間部氏に代々が仕えていたが、現在はたった一軒の田部井姓が残って、平成のいまでも「ためがい」と読んでいるそうだ。


逆に「田中」から「ためがい・たべい」へ


 源姓系の田部井ではないが、栃木県足利市の田部井さんは平成から遡ること約千年の古くからあり地名の「田中」を姓としていたが、何時の頃からか「田部井」と変えた。と言う伝承もある。

儀右衛門の結論


 この問題は、学問的には諸説があると思われるが、「田部井」と書いて「ためがい」と読むなんてことは、現在でも至難のことで、一般にも読みやすいように変えたというのが真実であろう。

 『太平記』でも 田部井を、「田井・(たい(@)」 と記されたり、古書には多目井と記されていることなどから「ためがい」とは読まれず。昔から一言付け加えなければならなかった事であろう。それが一族の悩みであったことだろうと思う。
  (@の説は、歴史学者の峰岸先生や『群馬県史』などにも書かれている。)