田部井四郎経氏と、現代の分流

(利根川水運の衰退によって消えた一家に、その伝承は儀右衛門には伝わっていなかった。
これは、儀右衛門の調査の記録である。)

上州新田郡田部井郷 (現伊勢崎市田部井) を出自とする、岩松の四男・四郎経氏が後裔は、
中先代の乱で孤軍奮闘し戦力は全滅するが、その裔は群馬県内を中心に分流して残った。


その出自の地に、早川の流れを四方に取り込んだ田部井屋敷跡が史跡指定されている。  
また、それ以前の田部井屋敷跡と推定できる地が、村内の天神沼遺跡にある、と言う
(『東村村史』)

田部井姓の起源は、4系統に分けられる
@ 清和源氏・新田岩松系、      
A 南朝の重臣・岡田四郎友治の系、
B 豊城入彦を太祖とする田辺氏系、
C 明治新姓系の、          
4系がある事が、各系の出自・伝承によって、その違いか見いだされた。

田部井姓の各系も、その一部は第2章で紹介しています。
(田部井儀右衛門調べ)

初めてご来館の方は、第2章からお入り下さい。↓


第1章 分流の史料(出典の概要) 

第2章 田部井姓の分流は何処に
(クリックすると「各地域の田部井姓の伝承へ」移動します)


「太平記」の時代に分流したと思われる一族、国定・為我井・為井・為貝等は、現在調査中。

 追加・・・武蔵多摩郡平村・小野氏が、『武蔵風土記』により田部井流と分かり本ホームページにその
内容を記しました。

山梨県韮崎市の小野氏も武蔵多摩郡平村の小野氏と同じ、田部井流とも伝わる。
ホームページをご覧になった岡山氏から、江戸時代に先祖が田部井姓を代々名乗って三春秋田氏に
仕えて、明治に入り岡山姓に改姓したと連絡があり、『秋田氏分限帖』『家臣系図』等によって、間違い
ない事が分かり、追加しました。


三春田部井氏の系図に直近が見え、その養子に藩内の小野寺家より山鹿流兵学を修めた直矩が入り、
のち小野寺披呂見忠武と改め、天保3年(1832)お小姓となり、俳名を「井田養斎」。この詳細史料を
「小野寺氏」を研究する茨城の加藤(仁藤さんが正しいのでお詫びして訂正します。)雅也さんから頂きました。



第1章 分流の史料(出典の概要)
戦国の世には、庶流が、主君と共に館林、足利名草、三春等の各地に移り、・・・
江戸期には、奥利根川や周辺の河川で船問屋家業のため各地に庶流を分出し、
(清和源氏の貴種と「館林記」に記されている。その一族として、各地に分流して
江戸時代には、名主や、村役人を務める者が多くあった。)

現代に見られる歴史書等に記載される「田部井姓」。

『姓氏家系辞書』
田部井氏
(ためがい)上野【出自未詳】為ヶ井、為我井、為家井に通用。
佐位郡為が井村より起る。岩松系図に「時兼ー経氏(田部井四郎と称す」とある。その曾孫泰寛は北条高時に属し(疑問あり)、元弘三年分倍河原の戦いで戦死する。
【太平記】
利根川の合戦記に、北畠軍に国士の武士・田井(田部井)十郎(重邦)と見える。
【日本の苗字七千傑】
順位 1923位・・人口 8000・・・・(意外な順位にある)
【新田家臣祖裔記】(永禄年間に楠氏編)
牛沢、西谷、田部井は御末は房州にて、里見殿より御一族と等同と承る。

「村田」の項に、村田源四郎、足利持氏公鎌倉に召して本国旧里に外2カ村を添えて賜うなり。この時大嶋、横瀬、田部井等も少分の旧里をそれぞに賜うよし。
【上州新田雑記】東京大学史料編纂所蔵
1 「上州勢田郡新川村善昌寺旧記写」
・・・・前略・・・義貞公十三回忌を密かに行う、其の時氏族が参加者の中、旭泉快応・田部井十郎重邦、忍びの廟参なり。

2 綿打大慶寺古跡 綿打殿の項に
綿打殿家老に田部井、峰岸の両家老 家老屋敷あり。

3 「西矢島村市兵衛系図」 田部井の条に
 経氏ー泰家ー泰寛ー朝宴・世良田侍従。(延元2年金崎にて討ち死に。)
【永禄日記】永禄8年(1565)、
世良田長楽寺の僧・義哲によって記された、永禄8年の1月から9月末日までの日記。(新田庄の戦国の世を浮き彫りしてい.る)

1 武田信玄上野進出という時代に、穀物納入の代金のことで裁判が長引き平塚郷の百姓等 「平塚下地等捨ておき・・・・今日まで鍬をも立てず」と 耕作を放棄した郷民の中に田□□又□□などある。

2 日記中の一項に、「田部井右馬之助弟青蓮と住職になる挨拶に延べ紙50帖を持参する。餅を肴に酒を馳走して帰す」とある。他にもう一項あり。
(青蓮の没後、菩提寺の西光寺葬を行うと過去帖にある)

3 由良氏家臣団の郷一揆衆に田部井助四郎の名が見える。

 【新編武蔵風土記稿】より 田部井流小野氏

武蔵国多摩郡に、「平氏(平村)は小野氏なり、、家系一軸を蔵す。これを閲するに遠祖は上野国勢多郡(新田郡の誤り)田部井の住人田部井六郎忠繁の三男真三郎義泰、のち甲斐国八代郡穂坂郷小野に移住せしにより在名を称し、小野大膳亮と号す。明応4年北条氏茂に属し、豆州日向郷において500貫文の地を宛がわれ、武相両州の間にて数度合戦す。云々。
家康関東御打ち入り、所所御巡覧八王子城跡上覧後川越まで供奉なせしにお暇の節金銭、および一村不入の旨奉書を賜りしが、その子内膳の時寛永12年12月27日夜、失火の災いにかかりて、奉書を始め持ち伝えし武器、感状などの類悉く失せしまま、同13年上知の事を願い奉り、百姓収納に命ぜられ諸役免許せられて、それより民間に下り、世世名主役を務め連綿として今に至れりと」とある。「歴史と家紋」より

 甲斐巨摩郡穂坂郷小野 (山梨県韮崎市穂坂町) の田部井流小野氏
 上野田部井氏の後裔という説もある。

● 国定、為我井、為井家は、田部井経氏の子、孫などの、初期の分流とされています。
『群馬県の姓氏家系大辞典』(角川文庫)によると

田部井 たべい・ためがい 【中世】 新田荘田部井郷(田部賀井郷とも、佐波郡東村)を本拠とする武士団の姓。当初は『ためがい』と称した。応永11年(1404)に作成された「村田郷地検目録」によると多目井七郎太郎給分・同七郎二郎給分が見え(正木文書)、多目井氏はこのとき新田荘を支配していた岩松氏に給分を与えられており、同氏の被官であった。
 
 なお『長楽寺系図』によると、岩松時兼の子に田部井四郎経氏が見える。下って、天文24年5月19日の由良成繁書状によると長楽寺領において公事が滞ったのに対して、そのうち平塚郷(境町)については田部井氏にその沙汰を申し付ける事を伝えた『正木文書』(長楽寺文書)。田部井氏は由良氏の被官で平塚郷の年貢収納にかかわった。

 さらに、永禄四年と見られる『関東幕注文』の新田衆の中に田部井孫四郎・田部井隠岐守が見え、この頃は横瀬雅楽介(のち由良氏)に属しており、家紋は「もっこうにたて二匹両」(上杉家文書)。

         その他、『群馬県史・中世資料編』、『新田家資料・由良文書』、『正木文書』、『新田老談記』等にもあり。       



第2章 群馬県の内外各地で、田部井姓の集住する地域の伝承

各地の田部井家の「家紋」は、それぞれが移住先で軍功により家紋を下賜されるなどの伝承によって、
現在は違う紋を使用しているところが多いが、派生した時期等から一族と考えても間違いない。
『関東幕注文』『太平記絵巻』に記載の「もつこう紋」は、現在では境町平塚の田部井一族のみが使用する。

集住する地 (下線のある地名をクリックすると移動します)
館林市  館林赤生田  館林楠  板倉町  邑楽町  赤堀町  境町  伊勢崎市  前橋市  尾島町
熊谷市中条  足利市田中  足利市名草  茨城県八千代町佐野  福井県鯖江町  加須市小名浜
福島県三春町  

【館林市】 館林には、江戸時代の『館林記』に、「慶長19年(1614)大坂夏の陣には、筋目正しき者田部井、加賀美、荒井、古山、奥沢、宮杉の2家、の七人が、人夫を率いて兵糧などを寄付し、徳川に尽くした」とあって、小寺丹後守、青山出雲守、の二人の町検断のもとで町事務を行った。新田義重を遠祖とする、現在大字館林の二軒の田部井は、応永年間に館林に移住して、かっては宗家岩松に属した。
主家・岩松の没落後は帰農した。江戸時代に家柄のよさを買われて代々町年寄りとして町政に参画し、特に領内の2代騒動の一つの享保4年の『館林騒動記』の筆者田部井敬信は同家の人で原本を所蔵し、系図、館林古地図などもあるという。
館林市赤生田(あこうだ) の田部井氏は、ルーツを田部井勘解由として、一族はこの地に広がった。明和村から養子にきた重吉(昭和10年没)は篤農家で赤羽かぼちゃを育成、赤羽村長を務めた。
【足次町の田部井家】からは、県教育界に尽力した鹿蔵(昭和30年没)・平人(昭和44年没)親子が出た。
【館林楠の田部井】楠正成の遺臣と伝える。正成の首級を、後の楠木神社となった地に埋葬した五人がそれぞれ名を変えて当地に土着した。その一人の岡田四郎友治が田部井監物正茂となったという。 
【板倉町】 板倉の田部井氏は、板倉郷成立時の18軒百姓の中に含まれ、字川入に多い孫衛門系と、字中三に多い八郎兵衛系との2系に分かれる(荻野家文書)。どちらも慶長14年の土着というが(邑楽郡史)、本家筋は不詳。江戸後期、田部井小左衛門佳一は荒木新流の免許皆伝の剣客で、板倉上地区の茂二家の屋敷に道場を開き、館林藩の子弟や農民に棒術・柔術・槍術などを教え、弟子の数1,000余人といわれ、遠く下野国鹿沼(栃木県)からの弟子も居た。坂東十七番札所出山満願寺(栃木県)に寛政年間の献額がある。

【邑楽町
 藤川の田部井は江戸期からの定住。江戸末期に名主を務めた又蔵は、後戸長となり、同系で百姓代を務めた新平らと、藤川村絵図面の作成にあたった。又蔵家の金十郎は、昭和5年から同13年まで第五代高嶋村長を務めた。

【赤堀町】 五目牛の田部井は靖朗家を本家とする。新田氏の一族・岩松時兼の四男経氏が田部井氏を名乗って祖となり、太田金山城主由良氏に仕えたが、天正18年源左衛門の時、豊臣秀吉によって領地を没収されて五目牛村に帰農したという(田部井靖朗家蔵田部井氏系図)。江戸期には村役人を務めた。本家筋の寛一郎(昭和33年没)は、農会長や赤堀村長を3期務め、弟仁(昭和35年没)も農会の嘱託技手として果樹園芸の普及に務めた。

【境町
 平塚の田部井氏は田部井家系譜および源兵衛家系図によると2系統あり、新田一族岩松時兼の四男田部井四郎経氏を共通の先祖とすると『群馬の苗字』(角川書店)はいう。

 四郎経氏は文応年間頃の所領の分割相続により、譲り受けた領地田部井郷(佐波郡東村)に館を構えその地名を苗字とした。田部井郷を出自とする「田部井隠岐守右馬之助忠正」 (平塚西光寺に右馬之助の名が刻まれた墓がある) の系統は応永年間(1400年代)頃に平塚に移り住んだともいわれ、寛永10年に没した右馬之助忠正まで中世の武士であった事が数多くの戦史の中に記録され(徳川の時代になって帰農し、のちに利根川の平塚河岸で水運業を営む)。江戸期に入り、次代から二代は右馬之助を襲名し河岸問屋となり、その後の江戸期には「儀右衛門」を世襲名とし、西浦の屋号で明治に至るまで平塚河岸で河岸問屋を営んだ(『群馬県史』・中世資料編、水運)。だが明治になって鉄道が敷設され、急激に船荷が減少して没落し、再起を図るが投機の失敗などで土地、家屋等一切をなくした。
 (現在に残る古諸本に「右馬之助の戦記」が多く残っている。)

 一方の系統は、田部井与惣兵衛吉久が天文年間(1532〜1555)に移住したといわれる。ルーツを田部井伊右衛門(太田金山城主由良家に仕える)とし、以後、田部井与惣衛門(与惣治)を世襲名として京屋と呼ばれる平塚河岸一番の河岸問屋を営んだ。
 京屋出身の芳兵衛は明治初期に横浜弁天町に店舗「京屋」を構え、貿易商として手広く海外貿易に活躍した。島村の蚕種輸出は、ほとんど京屋が手がけた。伊右衛門家の分流とする剣術家田部井源兵衛家は盈泰(初代源兵衛)が新当流の奥義を極めて真庭念流の道場を開き、9代盈時の明治に至るまで2百年以上にわたり剣士を育てた。

 (明治になって没落した田部井儀右衛門系の家に、この与惣兵衛系の当主が盆暮れには挨拶にきたと祖母が話していた)。

【伊勢崎市】
 堀口町の田部井氏は、昌雲寺にある宝永元年の常夜灯の施主の一人に田部井五右衛門清兵衛、居玉神社にある文化14年の手洗い石に願主として田部井四郎衛門・しせ五兵衛・相見、世話人として田部井清兵衛・彦七の名が見える。道(昭和33年没)はもろの児島氏の出身で田部井家の養子となり昭和27年から同31年まで県歯科医師会長、昭和30年から同33年まで県会議員を務めた。

【前橋市】
 石関の田部井氏は、古くは「ためがい」と呼ばれる。源義家の五代の孫経氏が田部井(佐波郡東村)を領し、初めて田部井を名乗った。その後石関村に移り住んだ。田部井4家が石関での田部井の始まりと伝え、集落のほとんどが田部井姓である。元禄3年の検地帳では28戸あり、集落の中央の生品屋敷と称するところに鎮守を祀る。また、付近一帯から中世の板碑も出土し、新田氏との深い関係を伝えてきたが、明治21年神泉村よりの火災で集落のほとんどを焼失、菩提寺の高台寺(廃寺)も全焼、関係書類の一切を失った。家紋は丸に沢潟。
尾島町】 未調査 (田部井姓の方が多くあると聞く)


【足利市田中の田部井氏 は、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を大祖とする大荒田別命(おおあらたわけのみこと)の、四世の孫・田辺史を祖とする一族。
 この系を田辺氏系と整理する。


【足利市名草の田部井家 現当主田部井市介氏で14代というから1代が30年と計算しても約4百年の歴史がある。(館林の長尾顕長が高級家臣南氏の家臣として名草に移った(南氏家臣録)一族だが、顕長はのち由良国繁に従って牛久に移住するが、田部井氏は名草に残った。)

その経緯は、
「天正18年3月27日北条氏政の違約を怒った長尾顕長は叛旗をひるがえし足利に篭城した。北条氏照続いて北条氏直も出馬し足利を攻めるも、なかなか城は落ちず、氏照は政治交渉で顕長を説得し、足利城を開城させたが、足利領の支配権は長尾顕長に残された。」と史料がある。

長尾顕長は、金山城主・由良成繁の次男で館林・長尾家に入り婿し、義父の死によってその実権は由良家のものとなったことから、名草の田部井は顕長の家臣だった南氏のもとで、顕長の入り婿時に供をして館林に入り、顕長の名草入りにも供をし、名草で土着した。と考えてもおかしくないのでは。
 現在、館林と足利名草の関係については、一族の国定氏と詳細について調査中。


熊谷市中条】 いまこの地にある常光院の墓地に2系の墓があり、宗五郎系と紋之助の系が続いている。『常光院縁起』(1738)によると、「中条道閑の従者として、中世上州新田より來住す」とあり、また中条氏は鎌倉幕府討伐に「新田義貞と運命を共にする」ともある。

常光院の「由緒の者」として、田部井主計経満の名が見える。境内に「田部井家先祖の氏神として八幡宮を祀る」、「正保年中に常光院に移す」とも記されている。
この熊谷市中条には、新田一族の姓である大島・田島・金井・中山という後裔の姓が現在もあるという。

 この系田部井氏嫡流の一族とも考えられるが、詳細は不詳。


茨城県八千代町佐野 (為我井忠敬氏より) 田部井和泉守・・・源三郎・・・新田長泉院・・・・善衛門・・・・(続く) とある、略系図が存在するという。

 『日本歴史地名大系』に、「西部台地の南べりで、縄文土器片を見られ、若御前とよばれた石碑も建ち、桜の大木が2、3本あったが、共に焼失。以前この地は荒地で、寺跡と呼ばれ、その西には、名主為我井家の山ノ神が小高い塚の上にあったという。(それらの墓地には「田部井」姓も併用されているという。)


鯖江市(福井県)】 『姓氏家系大辞典』に、「後世鯖江藩に田部井藤助あり」と記され、現在鯖江に1軒の田部井姓があり、江戸時代に徳川家の御用人間部氏に仕え、御次祐筆・・・御徒目付・・・御内玄関番を務め、宝暦4年没。『鯖江市史』によると、間部(まなべ)氏の高崎藩時代に仕え、享保年間に越後村上から転封された間部氏と共に移住し、明治まで鯖江藩中にあった。代々が藤助を名乗り明治まで武士の家柄であったという。(平成の現在でも、鯖江には田部井(ためがい)姓は一軒のみ)という。

 尾島町世良田の総持寺所蔵の田部井家過去帖には、初代藤助の父と年代が合致する田部井藤助が残る。

加須市小浜村】 小浜村は加須市の中心街からやや外れた東北方に位置し『新編武蔵風土記稿』によると村の大きさは東西17町、南北15町、家族120とある。
田部井家の出自は明確ではなく、同家にある位牌や菩提寺である三俣の浄土宗無着山竜光院龍蔵寺にある墓碑等から推察すると万治4年(1661)銘記のものがあることから、少なくとも江戸初期には在住していたものと推察される。明治になると名主、副戸長、村長などを務めていた。

 この地は昔利根川の河畔にあった村で、水運に携わった家とも考えられる。
【福島県三春町】田部井権右衛門直正 (三春岡山家)

 (天正18年頃)埼玉県忍藩主・成田下総守長泰氏に仕え、のち豊臣秀吉の天下になり成田氏を離れ、外様大名・宍戸藩五万石の(茨城県友部町)の藩主・秋田俊季氏に(慶長七年?)2百石で仕え。秋田氏の三春に転封後も町奉行などを代々務めていた。幕末近くになると直矩、養斎の2代に渉って、藩政の改革を訴えて「建白書」を提出したが、共にお咎めが無く、直矩は岡崎城下に移り兵法指南塾を開塾したり、養斎は自らは隠居して家督を息子の四郎直行に譲り、田部井家は明治まで秋田氏に仕えていた。直行にはムメ(通称・ウメ)と言う一人娘があり、三春藩渡辺家の次男・求氏が婿養子として田部井家に入る。
 
高2百石だった田部井氏は、田部井求氏の時代には何故か100石取りとなり、戊辰戦争の折、当初会津藩に助けを求めた三春藩は、田部井求氏を遊撃隊隊長として会津の援軍の道案内となり、援軍をを率いて帰藩の途中,三春藩の脱奥州連合化を聞いて、「遅かりし」と歯軋り噛んで悔しがったと、家伝は伝えている。
 求氏は明治になって、江戸時代には3百石の家格で近侍役を勤めていた「岡山家」を継いで岡山姓となった。 

(改姓の経緯については、本家の娘さんで郷土資料館の学芸員を務める方の調べによると、「田部井」と記して「ためがい」と読む煩わしさに、三春田部井家は、絶家して管理していた「岡山」家の再興のため、姓を変えた。と言う。)

家格は、『秋田家分限帖』では、慶応3年家中礼席・100石 田部井求。
『明治2年分限帖』では、遊撃隊支配頭・高100石田部井求とある。

 
茨城の仁藤雅也さんから、山鹿流の兵法学者・小野寺養斎は、実は三春田部井家の養子だったことをお知らせいただきました。二代にわたって当時の進歩的な学者として三河などでも軍学を教授していた。(2004,9,25)

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