三春藩危うし

(三春・田部井家の戊辰戦争)

 
 
三春藩の選んだ道

江戸城の無血開城により、東北の諸藩は会津の松平容保に付く佐幕か、薩長土肥に付く勤皇かの決断を迫られていた。その決断は藩の重鎮たちの合議にゆだねられ、ゆれ動いていた。

外様五万石の三春藩も同様で、最後の殿様になる少年藩主・秋田映季も、慶応元年に父の遺領を8歳で継ぎ、この時11歳になるが、その叔父の秋田主税が後見を務めていた。そして、この戊辰戦争では奥羽列藩同盟(幕府方)に参加したが、一方で小さな藩を守るために京の岩倉具視(官軍方)との密約ができ、7月26日藩内を戦火にさらさない無血開城の道を選んだ。
それらの三春藩の一連の動きが列藩同盟の参加藩にはどう映ったのか、またその選択の善し悪しは、見る人の判断と、後世の歴史家にお任せして。あとを続ける。

近代武器を持つ官軍に対抗する三春藩の戦力は
 参加できる兵・・・二百五十名余
 士族・・・・・・・・・・445戸
 卒族・・・・・・・・・・459戸
 死傷者・・・・・・・・なし

三春藩の戦い
 4月 奥羽鎮撫軍に属し、白河城に2小隊を派遣。
 7月 同盟軍に属して棚倉城奪回に出る。
 7月 白河口軍(土方歳三を隊長としていた)に属し、二本松城攻撃の案内役を務めた。
 8月 本宮援兵として1小隊を出す。

「官軍の進撃に、迎え撃つ同盟軍と三春藩」 (『小野町史』通史編より)
 官軍の一隊が三坂から小野新町を経て三春攻略に向かうことになった。一方同盟軍は西軍を迎撃するため七月十五日ごろから、阿武隈山地の交通の要所小野新町村にも軍陣を張った。(官軍がここまでの途中に「平城は7月13日落城して安藤家は城を残らず焼き払い仙台まで引き下がる」との情勢がある )。

七月二十六日 朝五つ頃官軍が仁井町まで進軍すると、待ち受けていた同盟軍は二本松藩隊長大谷与平平島孫三郎を物頭に二百人余、三春藩隊長渡会助右衛門物頭赤松兵太夫が率いる二小隊。その加勢に仙台角田藩八十人ほどが守備を固めた。

七月二十四日 官軍は棚倉・平より行動を開始し、三春を目指し、小野新町に官軍が侵攻したのは七月二十六日の早朝であった。
「官軍の兵は薩摩、備前、柳川、佐土原の兵士は、上三坂に泊まり明け七つに出陣し、谷津、作田、原井口より進撃して来た。同盟軍は二本松藩明神山に仮台場を作り待ち受けた。官軍の発砲によって双方の撃ち合いになり、薩摩藩物頭吉井甚之助戦死。同盟軍にも五〜六人の即死がある。三春の兵士は赤沼村にて待ち受けていたが官軍の攻撃に小戸神辺にて敗北し、城へ帰る。

この戦いは午前中で終わり、官軍は新町で昼食後、敗走する同盟軍を追って三春へ侵攻した。すでに降伏を決めた三春藩はいち早く開城した。
三春藩の降伏は官軍を勢いづかせ、五日後の二十九日には二本松城も落城した。


そして田部井氏の活躍

田部井求(もとむ)氏と三春藩

 求氏は近習を務めていたが、三春田部井家の十代目で代々三春藩大目付、町奉行、物頭、小郡代、大郡代等を務める家柄で、田部井家の大祖経氏(つねうじ)から数えて八代の後裔・直重が常州宍戸の城主秋田俊季に召しだされ二百石をいただく。直重から9代の後裔が求氏。
 維新後は県内の戸長、郡書記、文殊村村長、三春町学務委員等を務め、明治28年9月13日 田部井を「ためがい」と呼ぶ煩わしさに岡山と姓を変える。

田部井求氏の戊辰戦争
 官軍が三春攻撃を仕掛けるうわさに、藩の首脳は会津藩に援兵を求めその案内役の隊長に求氏を選んだ。三春藩を救う道は会津藩の力を借りなければと、使命に燃えた求氏は会津藩主松平容保公のもとに急いだ。
 『明治2年三春藩分限帖』によると、「田部井求 遊撃隊支配頭 石100石」とある。

 容保公のお許しを得て会津の藩兵を引き連れ帰城する途中で、三春藩の官軍への帰順(7月26日頃カ)を知り「遅かりし」と悲憤の涙にくれた。

時に求氏の年齢は、大正元年七十歳で没した事から推定すると、戊辰戦争時は二十代前半であったと考えられます。



このお話の原資料は以下の@ABCのから、こんな話になりました。

@三春、二本松の両藩が、官軍の前に「危ない」との情報に、仙台口にいた新撰組の土方歳三が急遽三春に向かった。「官軍記」
A昭和12年1月26日付けの『東京日日新聞(現毎日新聞)福島版』に掲載の、岡山求氏(田部井求)の妻が語った話によると「藩の命令で会津藩兵を連れ帰るが、時すでに遅し」と。
B慶応四年官軍の会津攻撃への道筋 『小野町史』
C『幕末諸藩の戦い』

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