公明党の市議らは会議を開き、「総合区」について橋下市長や維新の市議団と議論していく方向で話し合いを進めています。
一方、維新の会も「総合区」について協議していく姿勢を示していて「大阪都構想」に代わる改革案が検討されることになります。
『徹子の部屋』祝!10000回放送カウントダウンスペシャル!
(黒柳)さあ今日のお客様1万回まであと6回という…。
ラブリンというお名前で大変今人気の片岡愛之助さん歌舞伎俳優でいらっしゃいます。
よろしくお願い申し上げます。
よろしくお願いいたします。
『出張!徹子の部屋』の時には色々と私とマツコさんの旅の間に色々なものを教えていただいて色んなものを食べたり乗ったりあなたの指示に従って…。
ありがとうございます。
片岡愛之助さんです。
どうぞよろしくお願いいたします。
大変人気の方でいらっしゃいましてもう大変なんですけど。
歌舞伎だけでなくて映画でもそれからテレビでも他の舞台でももう…。
それから声の吹き替えなんかもおやりになってますかね。
はいそうですね。
コマーシャルもおやりになって大変お忙しい方なんですけど。
よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
まあそれにしてももう本当にお忙しいですよね。
ええありがとうございます。
おかげさまでもう本当に。
歌舞伎っていうのは昼間の部は11時から?はい。
11時開演ですね大体お昼は。
それでお出になって夜の部もお出になると夜の部は?そうですね4時なり4時半から大体8時9時ぐらいですかね?9時前ぐらいですね。
色々出ていらっしゃるとそういうのに全部お出になったりなんかして。
それが終わったあとからなんか他の収録とかってコマーシャルとかそういうものお出になったり。
そうですね。
やっぱりドラマが入ってると…ドラマの撮影が入ってると結構大変になってきますね。
『半沢直樹』の時のあの面白い役。
ちょっと…。
黒崎の…。
オネエ言葉の人。
あの時はもう本当に1時間か2時間しか夜寝られないぐらいだったんですって?スケジュールからいうと。
そうなんですよね。
それも結構…。
今も撮ってるんですね…。
えーと…局が違うかもしれませんけど。
これがやっぱり朝明け方…4時5時から撮影で9時ぐらいまで…撮影なんですね。
3月はそうでしたね。
10時に楽屋入りして11時からの舞台に出ましてですね。
全然お休みになってないの?なく…。
それからまた舞台が終わってからもまた再入ってもう一回現場に入りまして9時ぐらいから夜中の1時2時まで撮影。
それが毎日なんですねこう…。
すごいね。
じゃあ全然…。
もう本当に徹夜が…本当の意味の徹夜がずっと続いてる感じ?そうですね。
でも現場も楽しいですしね。
パワーいただいて頑張れてます。
でもお若いにしても相当のスケジュールですよね。
セリフ覚えなきゃいけないしね新しいの。
そうなんですよ。
それで寝られないんです。
ですから仮眠を1時間ぐらいしてそこから起きてセリフを覚えてそのまま明け方現場へ入るみたいな感じですかね。
すごいですよね。
それでなんか…。
誰が勧めてくれたんだっけ?ブログ。
ブログは…海老蔵さんがブログをですね勧めてくださいまして。
それでご自分で撮ってやるっていうんで…半顔に。
僕ですか?はい。
自撮りでいつもこう…。
そうなんです。
それがありますのでちょっと皆さんご覧ください。
半顔っていってこう…。
これ本当の半分ですね。
ここから上だけなんですね。
でもご自分で撮るとこんなふうになるんですね。
はい。
これがすごく面白いの。
これ…楽屋?いえこれはね…声の収録のスタジオですね。
マイクですねこれ前に出てるのは。
下がってるものはねそうですよね。
収録の合間に。
コマーシャルの声の収録の間ですね。
あっこれすごいですねなんか。
これ車の後ろの窓…。
運転してる時じゃないですよ。
でも向こう側全部ネオンサイン。
銀座ですね。
写ってますね。
大体でも半顔になりますね半分ね。
面白い。
あっこれ歌舞伎座の中?これは違いますね。
これはえーとねシスティーナ…システィーナ歌舞伎と申しましてですね四国の徳島にあります大塚国際美術館で僕今毎年2月にやらせていただいてるんですけどもコラボ歌舞伎を作ると…。
ものすごい長い…。
歌舞伎もすごく長いのができました…。
この前行って驚きましたけど。
わっ!こういうのももう相当…。
これ五右衛門ですね。
赤毛の五右衛門なんですけど。
これは舞台の最中にですね色々早変わりとかするんですけど。
これね客席の売店なんですよ。
えー!僕時間があるから早変わりで走るついでに自分のカレンダーが売ってるからちょっと宣伝しとこうと思って携帯持ってきてですね。
芝居…舞台ではやってるんですけど撮影してからまた舞台に戻りまして。
えー!松竹座ですねこれ。
これは…。
はい。
これも半顔ですね。
これも半顔…。
そもそも僕自分の顔ってあんまり好きじゃないんですよ。
本当に?そうなんです。
だからもう全部なんか載せるのはちょっと申し訳ないなと思って半分ぐらいでいいかと…。
これ歌舞伎座の向かい側から撮ってるの?歌舞伎座の…そうですね。
車に乗ってましてですねちょうど…。
あっそれこそテレビの収録が終わりまして歌舞伎座へ向かってるところですね朝。
入れ込みが始まってるとこですねお客様が。
お客様もうお入りになってらっしゃるところですよね。
はいそうですね。
これ楽屋ですか?楽屋ですね。
後ろに愛一郎という弟子が写っておりますけど。
でもどんなに忙しくてもお撮りになるのが…。
これはどうしました?次の月のかつらをですね合わせて…。
かつらができ上がってこのかつらが合うかどうかっていうことを試してかぶるんで素顔にこれかぶってるんですよね。
これ素顔なんですか?随分お奇麗な。
いえいえ。
これは?これは3月の歌舞伎座の梅王丸という役なんですけど。
すごいメーキャップですよねこれやっぱり。
楽屋ですねこれは。
ねえ。
ああいうブログあれだけお出しになって…毎日毎日お出しになって。
ああいう…反応は?皆様からの。
そうですねたくさんコメントっていうのを…。
コメント欄っていうのがございまして皆様からの…本当に直接コメントがいただけるのですごくなんかこう…。
僕そんな友達いないんですけど友達が増えたような気分になりますし色んな皆様の意見新鮮な意見っていうのが聞けますので。
あっこういうふうに思っていらっしゃるんだとか初めて歌舞伎をご覧になられたんだとかいうことがすごくわかりましてうれしいです。
それとやっぱりみんなが歌舞伎に関心持ってくださってるっていうことがわかるでしょ?それはだんだんね。
はい。
今日ももう今そこで上げてきました。
「これから『徹子の部屋』収録」って。
本当?あらうれしい。
ありがとうございます。
そうですか。
でもあれですよね色んなものに出ていらっしゃるんだけど普通の現代ものにお出になると女優さんと一緒にお出になると所作なんかちょっと教えておあげになったりするからみんなとても人気がおありだって…。
あなたのね人気がねみんな教えていただいた方が…。
いえいえ。
そんな大したことできないですけど。
例えばね名取裕子さんとか藤山直美さんとか竹下景子さんとか。
大先輩ばっかりじゃないですか。
でも皆さんがなんかとてもねそういうあなたに教えていただいたちょっとした所作が…。
うれしいって。
自分の気がつく範囲ですけど。
でもやっぱり知らないのと知ってるのとじゃものすごく違いますものね。
そうですね。
やっぱり時代劇とかそういうふうなことに…着物のことになると何となくちょっと違うなと思うところは「こういうふうになさったほうがいいんじゃないですか?」っていう提案はさせていただきますけど。
お父様という方が非常に理解があってお家がそういうスクリューとか作ってるお家なんで危ないから家の中に入っていなさいって。
でもそれでも…そういうのね覚えたほうがいいっていうことで子役の劇団にお入りになって。
はい。
それで太刀持ちを…。
『勧進帳』のそうですね。
あれ私考えたら相当長い間…。
正座してますね。
私ねこの間ね考えたんですよ。
『勧進帳』の太刀持ちって…えっ?って。
あれあの…富樫と…。
富樫の横に…。
それからあっちの弁慶とがずっとやってる間座ってるわけでしょ?後ろに。
そうですね座って…。
刀持って…。
あっ可愛い。
このぐらいの時ですか?はいそうですね。
それでずっと刀持っていて。
それで最終的に刀渡すかなんかするでしょ?そうなんです。
非常に長い間座ってましてですねいざその弁慶…義経一行を通す時に番卒から怪しいということを聞いて何!ってなっていわゆるこちらが戦闘態勢に入る時その太刀をサッと渡すんですけど。
それまでずっと座ってるわけですね。
そこでこうパッと動かなきゃいけない…。
渡す時はちゃんと渡さなきゃいけないからね。
渡し方が難しいんですよね。
両方のセリフもちゃんと聞いてなきゃいけない。
そうですね。
大変ですよねそれ。
しかも1カ月とかでしょ?でも考えようによっては特等席なんですよ。
あっそう。
お芝居毎日見られるじゃないですか…。
すごいいい角度から。
一番すごいとこね。
はい。
だから非常に勉強になりましたね。
子供ですからセリフ覚えちゃうんですよね。
全部ねうん。
意味はわからないんですけど歌を覚えるように意味はわからず全部一人で覚えちゃうんですよね。
すごい。
何の意味かわからないんですけど覚えられるっていうのはやっぱり子供だからでしょうね。
そうね。
それからこういうの何も書いてないのにこれをずっと読むじゃないですか。
ああいうね「そもそも何とか」っていうのを全部覚えちゃったりなんかして。
はい。
「つらつら惟る」でしたっけ。
そうですねよくご存じで。
いや私知ってます。
「つらつら惟る」…。
前は言えたんですよ。
ここのところちょっと言えないけど。
ちょっと仰ってみてそれじゃ。
「つらつら惟る」…。
「惟れば大恩教主の秋の月は涅槃の雲に隠れ」っていうね。
何の意味だか全然わかんないでしょ子供はね。
でも偉いと思う。
そういうのをちゃんと聞いてて。
それでいざ渡す時にはシュッて渡すっていう…。
そうですね。
そういうのを全部ご覧になって今のお養父様があなたに歌舞伎俳優にならないかってお勧めくださって…。
秀太郎さん。
養父の秀太郎ですね。
そうですね。
本当に声をかけてくださいましたの養父の秀太郎でありまして。
養父のひと声がなかったら僕今歌舞伎役者をやってない…やれてないっていうか辞める寸前だったんですね。
別に役者になろうと思って松竹芸能っていうところへ入ったのではなく子供同士の触れ合いのために実家の父が入れてくれたので勉強のほうも…。
ですから歌舞伎に入る前普通の子役で歌舞伎にも出させていただいておりまして学校をひと月休まなきゃいけないんでもう今月で全てを辞めようという時に養父に声をかけていただいたんで本当に…。
養父秀太郎そして松嶋屋に感謝ですね。
なるほどね。
でもその時に声をかけてくださった時にじゃあやろうかなってご自分でやっぱりお思いになった?僕ですか?僕はですね一番最初に歌舞伎へ出させていただいた時に…何でしょう…大人の言葉で言うとカルチャーショックですね。
何だ?この人たちは。
顔真っ白じゃないかって。
まず真っ白に塗ってることに子供…小学生ですね。
6歳とか7歳ぐらいですね。
お写真ありましたね可愛い…。
びっくりしまして。
ちょうちん持って…。
ちょうちん持って出る子。
それに驚きまして。
あと女形という…。
あっこの時ですね。
そうそう。
可愛い。
男性が女性の役を務める女形。
なんて奇麗になるんだ。
そんなことや…盆が回ったりせりが下がったり上がったり役者が宙づりで飛んでいったりすることがもうすごく面白くて。
その時僕だから6歳7歳の時から歌舞伎がもう大好きになったんですよ。
お好きになったの?大好きでしたね。
何よりも好きでした。
他の色んなお仕事をさせていただいた中で。
それでそういうふうに仰ってくださったんで僕はもうぜひやりたいですっていう…。
僕の中ではそうだったんですね。
あっそうですか。
そして歌舞伎に入るということで南座昭和56年の12月の京都の顔見世で。
それも太刀持ち。
『勧進帳』の太刀持ちで披露させていただいたんです。
それが初めて…第一歩ですね。
すごいですね。
さて2012年にこちらにおいでくださいました時にお家のお話をちょっとしていらっしゃるんでそこのVTRちょっと見ていただいていいですか?はい。
どうぞご覧ください。
「“養子にならないか”って言われまして」「いわゆる片岡家の養子秀太郎の息子としてどうかっていうお話をいただきましてびっくりしたんですけど」「そんなこと夢にも思ってなかったですし」「えっ!と思いまして…」「まあ両親にもちろん相談しそして…今の養父の秀太郎ともちろん相談したんですけど」「実家の親は自分がこの世界で一生生きていくんなら行きなさいってすぐ決断…即決でして」「すごい即決ですよね」「私嫌われてるんじゃないかなと思うぐらい…」「長男でね息子でいうと一人息子なんで…」「びっくりなさいましたでしょ」「あっさり言われましたんでどうなのかなと思ってちょっと寂しい思いはしたんですけども」「今で思うと実家のおやじのすごい…すごい判断だなと思いました」「すごいですよね」そんなふうに仰ってくださったことがね。
そうですね。
あまりにもあっさりだったんではい。
ここの家の子じゃないのかって。
そうですね。
でも本当に決断力ってすごいなって思いました。
大人になればなるほど思いますね…。
だって本当に先がわからない仕事じゃないですか。
そうですね。
本当はお父様が社長になってほしくて会社を継いでほしくってそういうことあとでおわかりになったんですって?そうですね。
その時の本当に…今でも生きてたら聞きたいんですけどね。
亡くなってしまったんでもうわからない…。
そうですってね。
そうなんです。
随分お早い…。
でもお母様お母様もお優しい方。
あっ可愛い。
本当あなた可愛い。
でも緊張してたんでしょうねきっとね。
ちょっとね。
緊張してますね。
顔が緊張していますね。
お父様とお母様は割と…お母様は特ににっこりしてらっしゃるんですけど。
あなた可哀想。
なんか緊張しててね。
やっぱり緊張しないといけないと思ってたのかもしれないですよね。
でもそんなふうにしてとても理解があったお家でよかったんだけどお母様が具合悪くおなりになって?がんでしたね。
がんになってしまった…。
それはすぐわかっちゃったの?そういうふうに。
はい…。
吐血して倒れましてですね。
そこで…どちらかというと実家のおやじのほうが体が悪かったので…弱かったので。
おやじが入院するかどうかってなってる時に突然母親が吐血して倒れたんでまさかだったんですね。
それで調べるとがん…。
「大きい病院行ってください」って言われてがんだっていうことがわかりましてもう本当に…。
まあいわゆる末期の状態だったので家族と1分でも過ごしてくださいっていうことで病院から帰されたんです。
「もう治療できないですから」って言われて。
何にもお母様その前具合悪いとか仰らなかったの?ひと言も言いませんでしたね。
だから我慢強い人だなと思って。
それから結局色んな治療法をしたら4年間…。
でもそんなすぐでは…。
すぐって初め仰ったんでしょ?先生…。
お医者さんは…先生は本当にもう3週間とかそういうことだったのでびっくりしたんですけど。
結局色んなことをして4年もちましたね。
でもそうするとずっとこのまんま大丈夫なんだっていうふうにちょっと…思いがちじゃありません?そうですね。
途中…途中もうずっとこれで生きてくれるのかなと思ったんですけどやっぱりそうそうはね生きられなかった…。
でも4年も生きててくれたらある意味心の準備ができましたからね突然よりも。
歌舞伎俳優としても随分色んな役もねおやりになったりもできたし。
はい。
なんか最後にお母様お手紙くだすったんですって?はいそうなんですよ。
亡くなる3日前にですね家族に宛ててうちのおやじと僕と妹と。
人間ってわかるんですかね?もう亡くなる時期っていうのが。
ちょうど本当に亡くなる3日前にですね別に遺言でもないですけどね本当になんてことないひと言なんですけど。
「みんなに好かれる素敵な役者になってくださいね」って…「母より」っていうのを。
なんでこんなの書いてくれたのかな半紙にと思って。
3日後に亡くなったんですけどね。
何歳でいらした…?53ですね。
お若いですよね今だったらね。
みんな平均でも八十何歳っていってる時ね。
うちの実家の父がねよく…。
まああの…いわゆる僕も養子に入れていただいた身ですから病気のこととか家族のこととかで迷惑をかけちゃいけないって常々母にうちの父は…実家の父は言ってたんですよね。
そうすると本当にもう駄目だもう駄目だと思ってたんですけど待っててくれてたんでしょうね。
ちょうど舞台の千秋楽の日ですね。
本当に具合が悪くなりまして。
ああもう無理かなと思ってたらちょうど僕が千秋楽夜終えましてそのまま入院したというあれを受けたので病院へ行きましたらちょうどその明け方に息を引き取ったのでみとれたのであっみとれてよかったなと。
役者って親の死に目にはあえないってよく言われるじゃないですか。
ですからそういう意味では恵まれてたのかなと思いました。
待っててくださったっていう感じありますよね。
待っててくれたと思いますね。
そうですか。
だけどそのあとお父様が今度相次いで。
そうなんですね。
ちょうど一周忌終わりましたひと月後。
いわゆる1年と1カ月後にくも膜下だったので。
いわゆる昨日まで元気だってボンッとくるわけですから。
そのまま倒れて意識不明になりちょうど2週間後ぐらいですかね亡くなったのは。
でももう僕は東京へ…仕事で東京へ行かなければいけない時だったんですけど。
あの…おやじが最初事故だって聞いたんです妹から連絡入って。
「事故で大丈夫やったらもう東京行くよ」って。
僕車で東京に向かうので。
走ってる最中に電話があって「どうした?骨折とか何?」って聞いたら「意識不明」って言うから「えっちょっと待って戻るわ」って言って戻ったんですよ。
そうするともう生きた顔じゃないですよね。
酸素マスクつけられて裸でバーッて運び込まれたのを見て「あら…」と思ったら…。
「意識はどうですか?」って。
「ちょっとわからないですね」ってお医者さんも仰ってたんですけども。
僕は1日お稽古を休ませていただいたんですよね本読みだけだったんで。
それでもうさすがに行かなきゃいけないなっていう時になってお医者さんに「どうですか?」って聞いたら「恐らく」…。
妹はずっとついてるんで「妹さんには言えませんけどもたぶん意識は戻らないと思います」。
「あとは心臓は心筋梗塞で2回ほど倒れてますのでポンプ入れてもたせようとすると破裂しちゃうんでもたないから自然に任せるしかないですね」って言われまして。
ああもうこれはしょうがないなと思って僕はもう…。
さすがに妹にはねもう無理だとは言えませんから「いつか目が覚めると思うよ」って妹には言うて。
それでまあ…おやじの耳元で「もうしんどかったらお母さんのとこ行っていいよ」と。
「もうあんまり無理して頑張ってもしょうがないから楽なほうを選んでや」って僕はこっそり耳元で言って握手して去りました。
そうすると…その時僕国立劇場に出てたんですね東京の。
今はなくなったんですけど国立劇場って休館日っていうのがあって館が。
休みが1日あるんです。
それが12日なんですよね休館日が。
おやじも待っててくれたんですよね。
もたない心臓で結局10日の朝に連絡を受けて10月10日の朝ですね忘れもしない。
そうすると「ああ…」と思って。
その日一日誰にも言わずに芝居するのは非常につらいなと思ったんですけど。
その日の芝居が一番つらかったんですけどもね。
終わってからすぐ大阪へ戻り…10日に亡くなって…だから10日に亡くなって11日か。
11日終わって戻ってお通夜ができたんですよ。
12日が休館日なんですよ。
お葬式も全部できて帰ってこれたんですね大阪から。
だからまたおやじも待っててくれたのかなと思うと本当になんだか…うん。
いつも僕のことを考えてくれてたのかななんて思ってまして。
その頃までね僕両親が生きてる間主役っていうのをやったことなかったんですよ。
もちろん主役ができるなんて思ってませんし。
難しいものですからやりたいなとも思いますけどいや難しすぎて自分の今いただいてる役でいっぱいいっぱいですからいつも。
そういうふうに思ってましたからね。
それからしばらくして突然どんどんどんどんシンの役を…主役をいただけるようになって。
だからこれも両親が天国でうまい具合にしてくれてるんじゃないかなって思うことばっかりですね。
でも今ふっと思い出してごらんになるとお父様は歌舞伎の皆さんのところになんかお土産持っていらしたりとか色々気を使ってくださったりとか?そうですね。
本当にうちの父もちょうど亡くなる数日前にそういうことをしてパッと亡くなったんでびっくりしましたね。
人間ってなんかこう死期ってわかるのかななんて思ったりもしましたね。
それからお母様の…骨つぼの中にお入りになってたんだけどその骨つぼのそばで仰った言葉が今でも覚えて…。
そうなんですよ。
骨つぼを見てね「なあ寛之骨つぼに入ったらもう人生終わりやから自分の好きなように生きなさい」って。
「自分の人生を生きなさい」って言われましたね。
でもお幸せでしたね。
そういう素晴らしいご両親にね育てておもらいになって。
感謝してます。
今違うお養父様がいらっしゃいますけども本当によかったと思います。
ありがとうございます。
あなたはとにかく歌舞伎をこのままとにかく続けていかなくちゃいけないっていうお気持ちがおありだし色んな歌舞伎の昔のことも大事にしなきゃいけないということで兵庫県の豊岡市にある…。
はい。
永楽館というところで毎年やらせていただきましてですね。
これは本当に…。
すごいですよねこれ。
びっくりしましたね私。
近畿圏内で最古の芝居小屋といわれておりまして私も…。
出石永楽館っていうんですか?そうなんです。
出石と書いて「いずし」と読む。
「いずし」なんです。
出石町でありましてですね…。
本当に昔みたいですね。
昔みたいですよ。
客席がね300ほどしかないんですよ。
ですからどこにいても非常に近いという…。
これ花道ですか?そうなんですね。
へえー。
それでですねこちらはもう皿そばのところなんでそば屋さんが山盛りあるんですよこの周りに。
おそば?そうなんです。
おそば食べながら見ていいんですか?食べながらっていうかおそば屋さんがいっぱいあるんです。
そば屋さんがいっぱい。
おそば食べながらちょっと見られないと思うんですけどね。
おそば屋さんがいっぱい…。
おそば屋さんがいっぱいある。
そうなんですそうなんです。
もう本当に。
城崎温泉も近いですしね。
んっ?城崎温泉近い。
ああ有名ですよね。
そうなんです。
11月はかにの解禁なんでかにも食べられると。
そして歌舞伎という。
ぜひ一度いらして…。
おそばも?おそばもですよ。
おそば食べながらではなくおそば屋さんがあるんです。
おそば屋さんが周りにいっぱいある。
さようでございます。
私あそこの花道の辺りにおそばかなんか置いてあってどんどんどんどんそこで食べながら見ていいのかなと思いました。
失礼いたしました。
とんでもございません。
5月はあれでしょ?今もう出てらっしゃるんですが花形歌舞伎ね。
はいそうなんです。
私は『鯉つかみ』というものを本水を使いましてですね…。
すごいですね。
6役早変わりですね。
6役早変わりで本水あり宙乗りありという…。
すごいですね。
今やもう…。
はい猿之助さん。
そして中車さん。
そう秀太郎さん。
はい。
そして右近さん…。
6月は…。
養父が。
お養父様お出になってるでしょ?はい。
6月は大阪の松竹座で。
はい。
これがですね今回は12役なんですよ。
12役早変わりなんですね。
すごいですね。
一人で12個の役を早変わりしながら舞台の上でまた巨大な水槽を使って本水を使ってですね宙づりもありということで。
宙づりもあって水もある?はい。
もう全て含めた…欲張ったことを1日2回公演やらせていただいております。
すごいですね。
魚つかむんですか?その中で。
鯉ですね。
鯉との格闘ですね。
鯉を倒すんですけどね。
でも水の中の芸っていうのはどういうものですか?こういう水の中で…。
実際大変ですね。
プールで泳ぐんじゃないのでかつらの油が落ちたりして目がすごく痛かったりして…。
そうですってね。
こすったら…。
顔をしてます化粧してまんで拭けないんですよね。
わあーすごい。
でもお客様すごく喜んでくださって。
水がかかるんでビニールを持ったりしながら…。
見入ったりするほど面白いですもんね絶対ね。
お体お丈夫なの?あなた。
はい大丈夫です。
そんなねすごいのにね…。
意外と丈夫なんで。
お丈夫でね何より。
本当ありがとうございました。
ありがとうございました。
続いてはあの『ワイド!スクランブル』です。
どうぞご覧ください。
どうぞ。
2015/05/19(火) 12:00〜12:30
ABCテレビ1
徹子の部屋 第9994回 片岡愛之助[字]
〜若くして逝った父と母が残した言葉に…〜片岡愛之助さんが今日のゲストです。
詳細情報
◇ゲスト
今や歌舞伎以外に、ドラマ・映画・現代劇の舞台・CM・声優・ラジオのパーソナリティーなどで活躍の片岡愛之助さんがゲスト。
◇番組内容
普通の家庭で育った愛之助さんは、父の勧めで受けた子役オーディションから5歳でテレビ出演、7歳で歌舞伎の舞台を踏み、9歳で「勧進帳」の太刀持に大抜擢された。これが歌舞伎人生に踏み込む大きな一歩となり、二代目片岡秀太郎さんに認められ養子となった。陰ながら支えてくれた両親は今の活躍ぶりを見ずに50代で逝ってしまった…息子に託した夢、そして残した言葉が愛之助さんに歌舞伎役者として生きる覚悟をくれたと語る。
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/
ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
福祉 – 文字(字幕)
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