(大城)
沖縄で活動している…
僕は生まれた時から目が見えません
この夏沖縄各地を巡る旅に出ました。
沖縄戦に巻き込まれた障害者の話を聞くためです
本当はつらい事や悲しい事がたくさんあって思い出すのさえ苦しいはずですが包み隠さず話してくれました
沖縄で生まれ育ったのになぜこうした現実を今まで聞く事がなかったんだろう?伝えなければならない事とは何だろう?終戦から70年を前に考えたいと思います
はい皆さんこんにちは。
今日も始まりました「大城友弥のハートフルライフ」パーソナリティーの大城友弥で〜す。
今日もよろしくお願いしますという事なんですけども。
僕大城友弥は地元沖縄でライブやラジオを中心に活動しています
突然ですが昨日の…これ2日でいい?2日でいいかな。
2日妹に赤ちゃんが生まれ僕は伯父さんになりました。
おじさんと言われるのは一生嫌だよね?本当?僕なんかちょっと好きかな。
本当!?
感じた事をありのまま伝えるのが僕のスタイルです
何か自分で言うのちょっと好きなんですよ。
そうなんだ。
そうそうそう。
へえ〜。
「にぃに」って言われるよりは「おじちゃん」みたいな。
ずっと大切にしているテーマは家族愛そして平和です
今回の旅でまず訪れたのは中部の読谷村。
アメリカ軍が上陸を開始した所です
左足にマヒがあります
70年前の1944年10月10日沖縄の上空をアメリカ軍機が覆い尽くしました。
10・10空襲です
多くの市民が犠牲となった無差別攻撃。
その集中攻撃を受けたのが読谷村にあった日本軍の基地…
その時15歳だった神谷さんは基地の近くの雑貨店で働いていたそうです
1人では逃げられない。
助けをじっと待つ間の不安と恐怖は目の見えない僕にも痛いほど分かります
アメリカ軍は沖縄本島に上陸
日本軍の司令部がある那覇を目指して激しい攻撃を繰り広げます
その混乱の中で那覇を抜け出し北へと避難した方を訪ねました
屋富祖さんですね。
初めまして。
どうも初めまして。
大城友弥です。
ひとつよろしくお願いします。
当時5歳だった…
両足にマヒがあるため歩く事ができません
視覚障害のある…
ある決意をお父さんに告げたといいます。
それは僕には絶対に言えない言葉でした
口癖のように…
懸命に家族を守ったお父さんは終戦後2年で亡くなったそうです。
屋富祖さんは父への思いを込めた歌を今も歌い続けています
(三線)
続いて僕がお会いしたのは聴覚障害がある…
こんにちは。
よろしくお願いします。
大城です。
真夜中に山の中を逃げた時の恐怖は忘れられないといいます
爆撃のほかに西平さんはもう一つの恐怖を感じたといいます。
それは戦況の悪化によって日本兵が変わってしまった事でした
沖縄戦終盤住民はアメリカ軍に投降していきました。
日本軍が住民に疑いの目を向ける中特に障害者は厳しい状況に置かれました
僕は当時の状況を知ろうと住民の半数近くが犠牲になった南部の町南風原町を訪ねました
ここには聴覚障害があったために日本兵に疑われた方の証言がありました
(上地)文章を読んでみますね。
「スパイ容疑をかけられた」というタイトルです。
学芸員が紹介してくれたのは当時22歳だった聴覚障害者大城永三郎さんの話です
「ガマ
(洞窟)の近くの岩場から海を眺めていた永三郎さんが戻ろうとした時日本兵に捕まった。
『何をしている?』と言われたようだった」。
耳が聞こえないために日本兵が何を言っているか分からないんですよね。
そして言葉もしゃべれないもんですから説明ができない。
「殺されるかもしれないと感じるほどの緊張があり永三郎さんは声にならない声で必死に父親を呼んだ」。
やっぱ恐ろしいものだったなって今聞いてて思いましたね。
今だからこそスパイ容疑に聴覚障害者の方がかけられたっていう事聞いてちょっとひどいんじゃないとかそういう…いやひどいんじゃないっていうかいやそれはちょっとあんまりだよっていう事今だからこそ思えるんだと思います。
今の僕は恵まれていて正直戦争中の事を想像するのは難しい
でも僕に一つの疑問が生まれました。
なぜ悲しみやつらさを障害者はこれまで口にしてこなかったのだろう?
障害者が戦争体験を胸に閉じ込めてきた訳を知りたい
沖縄戦が終結して住民は収容所に連行されました。
飢えやマラリアで多くの人が命を落とす中つらい体験をした障害者もいました
お父さんに守られ生き延びる事ができた屋富祖さんもその一人です
戦争中であった事もあるところから何かまあ…何て言うのかな?心の余裕っていうかそういうのがなかったというのもあるんですかね?やっぱりそういうのもあるんじゃないかね。
何やかんやする。
障害がある事で周りから差別され続けた屋富祖さん。
戦後長い間引きこもる事になりました
沖縄の悲惨な戦争。
その中でも障害者への差別があり長い間心を閉ざしてきた人たちがいる。
その現実が僕に重くのしかかります
今年8月普天間から辺野古への基地の移設に反対する抗議活動が行われました。
沖縄には基地を含め今も32か所の米軍専用施設があります
(一同)埋め立て絶対に許さんぞ!
この日集まった住民は3,600人。
その中に僕と同じ目の見えない方がいました
自宅からバスで1時間かけてやって来ました
戦争について話をしたがらない障害者が多い中山田さんが声を上げる理由を聞きたいと思いました
山田さん今デモに参加されているっていう事でねちょっとお伺いして。
その活力っていうのはどこから来ているんでしょうか?あの…何て言うのかな?やっぱりその…この…。
なぜこの障害者の声っていうのをやっぱり残したいのかっていうのですよね。
やっぱり障害者の証言っていうのはあまり残されていないんでしょうかね?初めて聞く言葉だと思いますがね。
山田さんの言っている事はどういう意味なんだろう?山田さんの家族にはもう一人障害者がいました。
右半身にマヒがある…
その親夫さんに是非会ってほしいというので一緒に訪ねました。
戦争体験をあまり話さないという親夫さん。
複雑な思いがありました
(親幸)長い距離歩くね。
いろいろあるさ。
親夫さんもほかの生徒と同じように国のために命を懸けて戦いたいと思っていたといいます
(親幸)すごい…すごいよね。
でもあなたは…。
うん我慢もしたし。
証言をして下さった方々の全ての思いを受け止めるにはもう少し時間が必要です。
でも今言える事は戦争は突然降りかかってくるものでそうしたら多分僕は生きられない。
今回知った戦争の記憶を僕だからこそできるやり方で伝えていきたい
僕はよくライブで「平和って大事だよね。
戦争は駄目だよね」みたいな事をずっと言っていたんですけれども本当にその…実際に体験していない分やっぱり知らなかった事もたくさんあった訳ですね。
それにもかかわらず「平和って大事だ。
戦争は嫌だよね」なんていう言葉をずっと…何か…ただ当たり前のように言ってたような感じがしたんですね。
だから今回いろんな話を聞いて本当にもうあの悲惨な戦争は二度と起きてほしくない本当に平和な世の中であってほしいっていう事をライブで伝えていけたらいいなって。
ライブだけじゃなくてラジオでもそうですしそういうふうに伝えていきたいなって思います。
2015/05/19(火) 13:05〜13:35
NHKEテレ1大阪
ハートネットTV▽平和じゃなければ生きられない〜沖縄で語りだした障害者たち[解][字][再]
戦後70年を迎える今、沖縄戦を語りだした人たちがいる。当時過酷な避難生活を強いられた障害者たちだ。沖縄在住の盲目の歌手・大城友弥さんと、彼らの体験を聞く旅に出る
詳細情報
番組内容
今から70年前の1944年10月10日。アメリカ軍による大規模な空襲を機に、沖縄は戦場と化した。地上戦が全土に広がり、住民に甚大な被害が出る中、障害者は「足手まとい」と置き去りにされたりスパイ容疑で拘束されるなど、過酷な体験をした。しかし、多くの障害者が固く口を閉ざし、実態は知られてこなかった。今回、沖縄県在住の盲目の歌手・大城友弥さん(24)とともに、沖縄戦を体験した障害者の話を聞く旅に出る。
出演者
【語り】大城友弥
ジャンル :
福祉 – 障害者
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
日本語(解説)
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