大阪の町のシンボル大阪城。
その壮大さに惹かれ日本のみならず今や世界中の人が訪れています。
年間180万人もが押し寄せる一大観光スポット。
しかし今からちょうど400年前の慶長20年1615年5月。
この地では壮絶な死闘が繰り広げられていました。
豊臣・徳川総勢20万の兵が天下取りを懸けて激突しました。
この時徳川家康を向こうに回し豊臣方を率いた総大将は豊臣秀頼。
豊臣秀吉の息子です。
しかし後世描かれた「大坂の陣」の屏風絵には数々の武将の姿こそあれど秀頼はいません。
一体なぜ?戦国末期天下を治める豊臣家に生まれた豊臣秀頼。
いわば名家のプリンスですがその実像は多くの謎に包まれてきました。
数少ない史料をもとに語られてきた秀頼といえば「パッとしない2代目」。
「自分では何もできないマザコン」などさんざん。
ところが…。
こちらでございます。
最近になって新史料が発見されたり新たな研究が進んだりした結果全く別の姿が明らかになってきました。
僅か5歳で能力を開花させた「神童」。
更に!百戦錬磨の家康と対等に渡り合ったしたたかな策士!そして…。
冬と夏2度にわたった大合戦「大坂の陣」で見せたリーダーシップ!400年前我が国の大きな転換点となった「大坂の陣」。
そのキーパーソンの知られざる素顔に迫ります。
しかし子が生まれても幼いうちに病死するなど…この時秀吉57歳。
もはや子はできないと諦めていただけにとことん愛情を注ぎます。
まず名前からして凝っています。
付けた幼名は「拾」。
ちょっと変わった名ですが当時「拾った子は強く育つ」との迷信が広く信じられておりそこから取りました。
ただ実際には拾ったわけではありません。
そこで秀吉は「拾った」という事実を作るためにわざわざ赤子を道端に置き改めて連れ帰ったと伝えられます。
更に生みの母に代わり…とにかく世継ぎとして無事に育て上げたい一心でした。
このころ政務に忙しい秀吉は大坂城に秀頼と淀殿を残し京の都に単身赴任中。
しかし片ときも秀頼の事を忘れられなかったようです。
幼い秀頼に書き送った手紙が何通も残っています。
まるで恋人に送るラブレターのよう。
更にはこんな手紙も…。
「今度わしがくちすいしてあげるのでそれまでは母上であってもくちすいさせてはならぬぞ」。
淀殿にも嫉妬めいた様子を見せる溺愛ぶりがうかがえます。
我が子への愛が膨らみ続ける秀吉。
しかしそれとともにある人物の存在が問題となっていきます。
甥の秀次です。
実は秀頼が生まれる2年前世継ぎに恵まれなかった秀吉はこの秀次に豊臣家の家督を譲っていたのです。
かわいい我が子の誕生で状況は一変しました。
心の声世継ぎは秀頼しかおらぬ。
秀吉は後継者問題を白紙に戻そうと秀次に謀反のあらぬ疑いをかけます。
そして追放し死に追いやりました。
その後秀次の妻子に至るまで皆処刑してしまいます。
全ては秀頼への異常なまでの愛のなせる業でした。
えい!や〜!何不自由なく育てられた秀頼。
しかしただ甘やかされていたわけではありません。
武芸はもとより…こちらは秀頼5歳の時の書。
書かれているのは学問の神様…神様としての名です。
現代で言えば小学校入学前の子がこの筆遣い。
立派ですよねえ。
こちらは和歌をしたためた色紙。
秀頼の達筆ぶりは幼い事から評判で諸国の大名は直筆の書をこぞって欲しがったとか。
秀頼は天下人秀吉の後継者として申し分のない能力を身につけ成長していきました。
秀頼6歳のこの年豊臣家を揺るがす出来事が起きます。
秀吉が病に伏したのです。
死期が近い事を悟った秀吉は遺言を残します。
方々なにとぞ秀頼の事を頼みまするぞ…。
それから間もなくして秀吉は死去。
秀頼は豊臣家当主として歴史の表舞台に立つ事になります。
心の声私が…私が豊臣の家を守らなければ…。
秀吉が亡くなってひと月余り。
まだ喪も明けぬうちから秀頼はその存在感を世に示し始めます。
まず第一歩として行ったのは豊臣家の菩提寺京都・方広寺の改修です。
しかし目的はただ寺を直す事ではありませんでした。
豊臣家の威光を示すための大工事。
寺では壊れた部分の修理だけでなく奈良・東大寺と並ぶ巨大な大仏殿の建設まで始まります。
父・秀吉の愛情を一身に受けた秀頼。
夢は父と同じく天下人になる事でした。
このあと秀頼は成長するにつれ更にその能力を開花させていきます。
ようこそ「歴史秘話ヒストリア」へ。
豊臣家が拠点とした大坂。
京の都に近いとはいえかつては関西にある町の一つにすぎませんでした。
それが豊臣秀吉の大坂城築城で瞬く間に発展したのです。
当時の大坂をうかがわせる記録が日本から遠く離れたヨーロッパのオーストリアに残されています。
秀吉時代の大坂を描いた絵などはほとんど失われてしまったため庶民の様子を知るうえでもとても貴重なものです。
このころの大坂は水運の町。
もともと流れていた川に加えて新たに掘られた水路が縦横に走っていました。
全国各地の産物が集まり町は大にぎわい。
「国の富の2/3が集まった」とも言われ日本経済の中心として栄えます。
それまでほとんど見られなかった下水施設も完備。
秀吉の町づくりは時代を先取りするものでした。
大坂の町で恩恵を受けた人々は自然と「太閤びいき」豊臣家を慕うようになりました。
その跡継ぎである秀頼は次代のプリンスとして幼い頃から皆に愛されたのです。
(雷鳴)秀吉の死後世の中は再び戦への不穏な空気に包まれ始めます。
原因は豊臣家臣団の分裂。
主君秀頼がまだ若いのをいい事に天下取りに動く者が現れたのです。
それが…「関ヶ原の戦い」が起きます。
全国の武将を二分し家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍がぶつかり合いました。
結果は周知のとおり家康の勝利。
これで天下は家康のもの一見そう見えますが当時の人は秀頼が天下人になると考えていたようです。
一体どういう事でしょう?家康の政権は一時的なもの。
実際関ヶ原の戦いのあとも各地の大名は年賀の挨拶に秀頼のもとに参上しています。
秀頼がただの大名ならわざわざ出向く事はありません。
この秀頼の位置づけは外国人の目にも明らかだったようです。
当時日本を訪れていたオランダの貿易関係者はこう書き残しています。
秀頼自身も「やがて天下は我がもの」と信じて疑いませんでした。
そんな状態が続いて数年がたった慶長9年。
騎馬行列や能の上演などが盛大に行われ町はお祭り騒ぎ。
人々は大いに楽しみます。
そして皆口々に「豊国の神の威光はいやましに」と豊臣家のますますの繁栄を願って歌い踊りました。
2日間にわたったこの祭礼。
期せずして…ところが…。
秀頼を支持し狂喜する民衆の様子を見た家康は大きな脅威を感じます。
心の声このまま秀頼を野放しにしていては我が徳川家の災いとなる。
このころから家康は秀頼に対しあからさまに圧力を加え始めます。
まず全国の大名に自らの住む江戸城の強化・拡張工事を指示。
これには主従関係を改めて明らかにする意図もありました。
更に大坂を囲むように名古屋城や篠山城などの築城も指示。
兵こそ動かさないものの戦への準備ともとれる行動でした。
対する秀頼はいかに?心の声相手はあの家康殿。
考えなしに動けば戦の口実を与える事になりかねん。
ある作戦を考えます。
いつ亡くなってもおかしくない年齢です。
家康を詠んだと伝えられる句がありますがそんな家康のお株を奪うような忍耐強く待つ作戦でした。
ただ何もしなかったわけではありません。
こちらは…君主の在り方を説いた中国の本を秀頼が国内向けに編集し出版したものです。
この本を使い…このように暗に自分がいかに君主として優れた考えを持っているかを示したのです。
本はたちまち大評判に。
全国の大名も君主論を学ぼうと愛読しました。
更に秀頼は次なる行動に出ます。
それはおととし本殿を建て替える「遷宮」で話題になったあの出雲大社にまつわるもの。
こちらでございます。
つい3年前に発見された新史料です。
慶長14年に行われた出雲大社遷宮の図面。
この工事を命じた人物こそ他ならぬ秀頼でした。
秀頼は他にも長野の善光寺や奈良の法隆寺など各地の名だたる神社仏閣の改修や造営を行います。
その数は100近くに及びます。
国家の平安を願う大きな寺社の保護はすなわち国を治める天下人の役割。
家康の意に反して存在感を増していく秀頼。
業を煮やした家康はついに兵を動かします。
きっかけは天皇が位を譲り新たな天皇が即位する儀式でした。
国中の目が京の都に注がれるタイミングを家康は利用します。
まず警護の名目で…そして軍事力をちらつかせ「せっかく近くまで来たのだから会おう」と秀頼を呼び出したのです。
それがねらいでした。
これに秀頼の母淀殿は大激怒。
おのれ家康。
何様のつもりじゃ。
秀頼に会いたくば大坂に来ればよい!簡単に家康の思惑に乗るわけにはいきません。
しかし秀頼は…。
家康は戦の備えもしております。
母上ここは私にお任せ下さい。
秀頼と家康はついに相まみえます。
いわゆる…2人の間でどんな言葉が交わされたかまでは分かりませんが…こちらは会見のあとに…もらったタカへの礼などが丁寧に述べられています。
二条城会見をめぐる一連の出来事。
秀頼は服従を心に決めたという事でしょうか。
実は最近になって秀頼が送った手紙についてこれまでにない説が唱えられ始めています。
詳細に分析すると秀頼のもう一つの意図が読み取れるというのです。
これは頂いたタカへのお礼を述べているわけですが家康の行為を示す言葉がここですね。
「思し召し寄せ被」というところが家康の行為を表したところになります。
通常このようなところでは…そうしますと恐らくここの間「思う」と「られ」の間にですね…一方秀頼自身の行為を示すこちらの部分。
逆に空白を設け自分を敬う書き方になっています。
それをする事によって…会談に応じた事で家康に従ったように見えますが手紙で伝えた秀頼の気持ちは全く逆。
巧妙に天下人としての矜持を示していたのです。
秀頼の決意に家康は大きな危機感を抱いたにちがいありません。
もはや力ずくで決着させるしかないと豊臣家討伐の口実を探し始めます。
そこで目をつけたのが皮肉にも豊臣家の繁栄を願う菩提寺方広寺で新調された鐘でした。
問題は鐘に刻まれた「国家安康」の文字。
平和が続くようにとの願いですが…そして国の乱れを鎮めるためと大坂出兵を命令。
秀頼は否応なく豊臣家存亡を懸けた戦へと挑む事になります。
天下の覇権をめぐり対立を深めていった豊臣秀頼と徳川家康。
しかしこの2人実は親戚同士。
関係は極めて複雑でした。
まず家康の正室は豊臣秀吉の妹旭姫。
一方家康の子で徳川2代将軍秀忠の妻は秀頼の母淀殿の妹にあたる江。
そして秀頼はというと自身の妻は家康の孫娘千姫です戦乱の世を生き抜くために大名同士の政略結婚が当たり前だったとはいえ見てるこちらがこんがらかりそうです。
このように両家が強く結び付く中で家康が秀頼を高く評価する事もありました。
家康の言葉です。
戦国時代でなければ互いに認め合う老人と若者だったのかもしれません。
「歴史秘話ヒストリア」。
いよいよ秀頼と家康の直接対決「大坂の陣」の真実に迫ります。
豊臣・徳川双方は戦いへの備えを終えつつありました。
豊臣方は秀頼の招集に応えた牢人などを含め10万。
対する徳川方は20万。
大坂では徳川の大軍をどう迎え撃つかで意見が割れました。
歴戦の勇士…一方で…当時難攻不落を誇った大坂城。
巨大な堀に加えその外側に全長8kmにも及ぶ城下町と一体化した防御線が築かれていました。
総大将秀頼の決断は…。
秀頼は父が残した大坂城の防御力に賭けます。
(兵たちのおたけび)ついに両軍が衝突します。
数で圧倒する徳川方はなだれをうって攻めてきました。
秀頼は寄せ集めの兵の士気を高めようと奔走します。
広大な城の各所に陣取った兵のもとを馬で回り激励しました。
そして戦況を子細に見て戦果をあげた者には即座に褒美を与えます。
秀頼の狙いどおり兵たちは数の上での不利を覆し善戦します。
慌てたのは家康です。
実戦経験のない秀頼相手なら楽勝と高をくくっていただけに予想外の苦戦でした。
そこで作戦を変更。
最新兵器による長距離攻撃を命じます。
そのために数百門の大砲や超大型火縄銃が持ち込まれました。
(砲声)堀をまたいでのかつてない攻撃が城を襲いました。
(砲声)そのうちの1発が天守に命中。
女中たちに死傷者が出ます。
この被害を目の当たりにした淀殿は…。
もう戦はやめじゃ…。
停戦を唱え始めます。
心の声このままにては女子供まで敵の矢玉に傷つく。
秀頼は被害が軽微なうちに和睦に持ち込むのが得策と考え母の訴えを聞き入れます。
それから3日後の…去年この時埋められた堀の跡が工事現場で見つかりました。
一体なぜこんなものが一緒に埋まっていたのでしょう。
実は家康戦いのあとの混乱に乗じて内堀まで埋めるよう徳川方の兵に指示していました。
堀さえなければ再び戦になる事があっても恐れるものはありません。
そこで兵たちは工事を急ぐために大量の土砂に加えて…戦いで大きな被害を受けた大坂の町と人々は和睦のあとも更に傷つけられていきました。
これを目の当たりにした秀頼は…。
心の声私が大坂の城にある限り勝負はまだついておらぬ!徳川兵が去ったあとすぐに堀の復旧を命令。
更に柵を作るなど城の防御を強化し兵糧も集めます。
家康との再度の戦いに備え始めたのです。
しかし家康は態勢立て直しの間を与えず最後通牒を突きつけます。
堀が万全でない状況では劣勢は明らか。
しかし秀頼は引きませんでした。
断じてありえぬ!豊臣家当主として最後まで戦う事を宣言します。
雌雄を決すべく豊臣方と徳川方が再び激突します。
この時…野戦となれば兵の数がものを言い徳川方が圧倒します。
戦いが始まって僅か2日後の…徳川方は大坂城天守から4km天王寺付近にまで迫ります。
この日が決戦の日と見た秀頼。
大坂城本丸の正門桜門に朝から陣を構えます。
最前線での戦いに挑む覚悟でした。
その精悍な姿に多くの者が父・秀吉の面影を見て涙したと伝えられます。
「総大将出陣間近」の知らせに押され気味だった豊臣方の士気は一気に上がります。
そして夏の陣が始まって以来初めて攻勢に転じたのです。
「これで秀頼様が最前線に出れば勝利も夢ではない」。
皆がそう信じていました。
ところがここで大きな誤算が生じます。
秀頼のもとにある情報がもたらされたのです。
秀頼は動くに動けなくなります。
後になって明らかになる事ですが実はこの情報家康のはかりごとだったようです。
偽情報にまんまと引っ掛かり秀頼は出撃のタイミングを逸します。
この間に戦況は一変。
真田幸村ら豊臣方の有力武将が次々と討ち取られていきました。
勝負あったと見た家康は和睦の使者を送ります。
しかし秀頼は和睦の受け入れをよしとせず潔い死を選びます。
天下を治めるプリンスと期待され庶民に愛された男の無念の最期でした。
今宵の「歴史秘話ヒストリア」。
最後は…そんなお話でお別れです。
江戸時代大坂の陣は軍記物など多くの作品の題材として取り上げられます。
しかしそれらの多くは幕府の視点で描かれました。
「大坂夏の陣」を描いた当時の屏風絵。
ここに総大将秀頼の姿がないのも豊臣家の影を薄めたいそんな幕府の思惑が影響していたのかもしれません。
しかし当時の関西ではこんな歌がはやり始めます。
なんと秀頼が戦火をくぐり抜け落ち延びたというのです。
鹿児島市では秀頼のものと伝えられる墓が今も大切に守られています。
地元にはここで子をもうけ幸せに暮らしたとの言い伝えも残ります。
事の真偽は定かではありませんが当時の人々は幕府に隠れひそかに秀頼と豊臣家を慕い続けたのです。
その思いは現代の大阪にも根づいています。
江戸時代から続く「岸和田のだんじり祭」。
勇壮な山車の引き回しで知られますがこの山車の多くに共通するものがあります。
それは大坂の陣を描いた彫刻。
かつては豊臣家を思い起こさせると禁止されていましたが幕府が滅びた後皆こぞってこの彫刻を施すようになりました。
豊臣方の武将たちの中でひときわ勇ましい姿を見せるのは総大将秀頼です。
大坂の陣から400年。
幾多の歳月は流れましたが戦国の世に生きた秀頼の記憶は今もなお人々の心に刻み続けられています。
2015/05/20(水) 22:00〜22:45
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア「戦国のプリンス天下取りへ〜大坂の陣400年・豊臣秀頼」[解][字]
優秀な父をもつと、何かと比較される2代目。戦国の世に生きた豊臣秀頼もそんな一人だ。これまでその評判はさんざんだった。しかし最新研究で全く異なる人物像が明らかに!
詳細情報
番組内容
今からちょうど400年前、天下の覇権をかけて豊臣家と徳川家が戦った「大坂の陣」があった。この時、豊臣軍を率いたのが、秀頼だ。父は天下人・豊臣秀吉。秀頼は、名家のプリンスとして生まれたが、これまで「自分では何もできないダメ息子」「マザコン」だと考えられてきた。それが最近になって新資料の発見や、新たな研究の成果で、類まれな能力を持つ優れた武将だったことが明らかになってきた。知られざる秀頼の素顔に迫る。
出演者
【キャスター】渡邊あゆみ
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ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
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