7100分de名著 荘子 第2回「受け身こそ最強の主体性」 2015.05.20


古代中国で生まれ2,000年以上にわたって読み継がれてきた「荘子」。
人間より国家が優先される世の中で「荘子」はいち早く個人の幸せについて考えました。
中でも最大のテーマは「人はどうすれば主体的でいられるのか」。
「荘子」は「全てを受け入れると人は最も強くなれる」と説いたのです。
この思想は仏教特に禅の教えにも強い影響を及ぼしました。
「100分de名著」。
今回は「受け身こそが最強の主体性」その真意に迫ります。

(テーマ音楽)「100分de名著」司会の…さあ今月は「荘子」でございますがもう前回から飛ばしててすごく面白かったですね。
面白いですね。
すごくその「渾沌」というキーワード一つありましたけどあの事ばかり考えて今日まで過ごしてまいりました。
そして「荘子」ほどのね2,300年前に書いた言葉が今残ってるような人が言葉っていうのはとても無力とは言わないけど。
頼りないなっていう。
はい。
変化しやすいし気をつけて使わなきゃいけないなみたいな事を念頭に置いて書かれてるというところに何かちょっと我々も気をつけなければとか思っております。
さあそれでは指南役の先生をご紹介いたします。
よろしくお願いします。
さて今回のテーマは…もう前半と後半がねバランス取れてない感じしますけど。
前回の話で個性をあえて主張する必要なんかないんだという話がありましたけどもでもやっぱり「荘子」の最大の関心は…蛇がね…「荘子」は大変尊敬してるんですけども蛇って地面がぼこぼこしてればそこに沿って歩くじゃないですか。
「私はこんな曲がったりするの嫌だ」という主体性は何の役にも立たないじゃないですか。
骨折するでしょう。
弱いですね。
いかに自分が外側のぼこぼこに合わせられるかという事で結局地に足着いた道を歩めるわけですよね蛇は。
そういう考え方が実は私が属する禅の中にも生きてるんですね。
つながってきますか。
それでは「荘子」の教えと仏教の関係をまず見ていきましょう。
「荘子」の時代からおよそ300年後漢の国にインドから仏教が伝わったと言われます。
当初儒教優位の世の中で個人の生き方を説いた仏教はあまり浸透しませんでした。
しかしやがて政治の世界で敗北した者たちが心のよりどころとして宗教や哲学を求めるようになると老荘思想と仏教が爆発的に広まっていきます。
この時インドの仏典を翻訳するに際して「老子」や「荘子」から多くの言葉が用いられました。
そして国家が仏教や「荘子」を重んじるようになると両者は神格化されていったのです。
最初は何ですかね仏教あんまはやんなかったというのはその儒教の方がちゃんと秩序みたいな事を皆に浸透させるみたいな事の方が国としてというか政治として正しかったというかやりたかったんですかね。
やっぱり混乱の時代が長かったですからそれが漢の時代になってようやく国としてまとまるんですね。
その国をどうやっていくのかというのでやっぱり儒教が大変重要だったわけですね。
まず筋通しましょうというかみんなで共通の道徳みたいのを持ちましょうと。
そのあとひずみみたいな時に仏教だったり個人の事。
そういう政治の時代になりますとどうしても敗北する人たちが出てきますので文学とか哲学とか人生にまともに向き合う事になるんですね。
世界はどうなってるんだろうとかいかに生きるのがいいんだろうといったテーマを老荘が受け持つというか。
そこに仏教が老荘が広がった所にわっと広がるんですね。
それこそほぼ同時期に入ってきてあんまりほぼはやらなかったものがほぼ同時にはやりだすみたいな。
そうですね。
面白いですね。
教えもちょっと似通ったところがあるんですか?仏典を翻訳するという事は中国にその時に既にあった言葉を使ってインドの言葉を訳すわけですよね。
「荘子」の中からは例えば今仏教語に完全になってますけども「衆生」とか。
生きとし生けるものという意味ですね。
あるいは仏教語として欠かせない「解脱」という言葉がありますね。
これもみんな「荘子」の言葉なんです。
そうなんですか。
ほぼ同じ意味として使われてるものがあるからはまりがよかった?はい。
その老荘思想と禅に共通する概念という事でちょっとこの言葉をご覧下さい。
これ老荘思想と禅に共通する概念。
そんなに難しい言葉だと思ってませんけど。
「このドラマの主人公は誰々です」。
禅とかの言葉なんですか?もともと禅語なんですがですから今使ってる意味は「主役」みたいなもんですよね。
まさに主役です。
脇役と主人公という形ですよね。
そういう意味ではなくてどんな役であろうと自分をなくしてそこに没頭できるという人を禅語で「主人公」というんですね。
だからさっきの蛇の話じゃないですけども「我」というのをなくす事で結局主体的になれるという事なんですね。
でも役者さんってそうじゃないですか。
私の地はこういう役にはなりきれないというのは単なるわがままでしょう。
小我を捨てるという事ですね小さな我を。
小我小さな我を捨てると。
はい。
そしてもっと大きなものに溶け込むんですね。
どういうところから生まれてきた考えなんですか?自分をなくすっていうのは。
大体時代が戦国時代ですから人間一人の存在がもう吹けば飛ぶって言いますかものすごく大変な世の中だったと思うんですね。
こう揺すぶられながら生きてる中で自分が受けた状態が例えば天命だったと思えれば誰かを恨まずにすみますよね。
誰かを恨んでる状態って非常に不自由じゃないですか。
要は自由になりたいんですから。
究極の受け身として「荘子」独特の思想なんですが「やむを得ずの思想」というのがあります。
やむを得ず。
やむを得ずの思想。
「やむを得ずの思想」ってこの言葉の響きだけ言うととてもぐだぐだな感じですけど。
やむを得ずに興味が湧いてまいりました。
ちょっとここでまた怪しげな動物整体師周さんに登場してもらってもいいでしょうか。
どうぞ。
こんばんは。
お仕事中ですか?おおかまへんかまへん今終わったとこや。
このワンちゃん自信なくしてはったから話聞いてたとこや。
これこの間のお返しに。
ああありがとうありがとう。
周さんもう今日はすっかり面接で自信なくしちゃったんです。
どないしたんや。
また就職活動か?うん。
どうしても「御社に入ってからの計画と目標」というとこがうまく言えないんです。
今回も絶対駄目だ〜。
もうこれで何回目だろう。
計画とか目標て…あんた孔子みたいな事言うとんな。
やめといた方がええ。
えっ?そんなもん人生で一番やっかいなやつやで。
昔こんな事書いたんやけどな。
自分の意志で動いたり変化したりするんやのうて周りに迫られてやむを得ず動いてやむを得ず行動する。
それが一番ええんや。
「やむを得ず」。
まあ言うたら「やむを得ず」いうんは究極の受け身やな。
はあ?周さんそんな事で内定取れるわけないじゃん。
それどころか一生出遅れたままでまともな人生歩めないよ。
まあまあまあ。
そんな無理したって命縮めるだけやで。
分かるような…まあ分かるような。
でも「分かる」と言っちゃうとそこまで悟りきれてない。
「已むを得ずして而る後に起ち知と故とを去りて天の理に循う」と。
状況がそうするしかなかったので起ったわけですね。
こざかしい知恵や意志を捨てて天道自然の理に従う。
今やっぱり計画とか目標というのが大事に思われすぎてるわけですよね。
でも予想外の事が起こらなければ充実感もないし自分も広がらないわけですよ。
例えば私らもそうですけど計画立てませんからねお坊さんの。
また立っちゃ駄目ですもんねなかなか。
「今月はお葬式4件やろう」とか。
そうかそういう理由…。
その計画は立たない。
「来週の終わりにお通夜があるんだよね」ってなってくるともうつきあえないそのお坊さんたちとは。
ですよね。
やむを得ずやってるわけです。
それがだから最高の行動原理なんですね。
計画とか目標と呼ぶと何かいいもののように見えるんですが予断ですからね。
予断?あらかじめ判断してしまう事でしょ。
私ってなるべく天気予報を見ないんですけども。
なるべく見ないんですか?見ないんです。
天気予報を見ると単に曇っていても「晴れだったはずじゃないか」って何かむっとくるでしょ。
余計な気分じゃないですかそれ。
雨降ってたとしても曇りのはずじゃなかったのかと。
それは要らないものですよね。
日本語で「しあわせ」という言葉があるじゃないですか。
奈良時代からある言葉なんですけども奈良時代にはこう書いたんですね。
幸福の「幸」じゃないんですね。
この字は見た事ありませんね。
これ「する」という動詞ですけども主語は天なんですね。
天がこのようになさるのでそれに合わせるしかないと。
これは意味としては運命みたいな意味だったんですね。
ところがこれが室町時代くらいになりますとこの字が仕事の「仕」に変わってくるんです。
こっち。
はいこっちですね。
すると主語も人になるわけですよ。
ですから相手がこう来たので私はこう応じたという「仕合わせた」という意味の言葉なんですね。
予測もしてなかった事が起こってそれにうまく仕合わせられたというのが「しあわせ」なんですよ。
あくまでも受け身なんです。
でもちょっと分かるのは計画どおりいった事の快感みたいな方に何か自分を洗脳しちゃってるようなところがあって。
だからナビゲーターもあれを使い始まると途中であんまり止まらなくなりますよね。
間違えない間違えない。
途中にあるものの方がもしかすると自分の人生を大きく左右するような出会いかもしれないんですけど。
まあ迷子になってそのカーナビが壊れてるせいでしかたがないから入った喫茶店のピラフがすごいうまい事ってあるわけですよね。
やむを得ず入ったんですね。
やむを得ずなんですよね。
さあその究極の受け身の先には一体何があるんでしょうか。
ある時「薄影」が「影」に向かって問いかけました。
(薄影)お前さっきは歩いていたのにもう立ち止まっている。
座ったと思ったら立ってるし何とも節操がないじゃないか。
すると影が答えるに…。
(影)私は別に自分の考えでそうしているのではなく本体の動きのままに従っているだけだよ。
それに私が言う事を聞いている本体だってどうも何かに従って動いているだけらしいし…。
(薄影)お前の生き方って言ってみれば蛇のもぬけやせみの抜け殻みたいなもんだよな。
(影)だったとしてもそうじゃなかったとしても理由なんか分からないね。
この話すごくない?僕は何かぞくぞくするんだけど。
私すごく難しかったな。
我々の…一応本体の影があってその影の周りにぼんやりあるのが薄影なわけですよね。
影と薄影の会話ですよ今のは。
そうか主体でもないんだ。
ところがこれが主体性についての話なんですね。
要するに薄影が影を批判するわけですよ。
「お前には主体性がないじゃないか」と。
影はもちろん本体の影ですから主体性なんかないんですけどもこの本体さえ実は主体性なんて…主体的に動いてるわけじゃないんじゃないかと。
何かに動かされてるという。
そう。
実はその状況の中でやむを得ずそう動いてるだけなんじゃないかと。
それは批判すべき事でも何でもないんじゃないかという非常に深い面白い話だなと思うんですけども。
薄影だって主体で動くもんじゃないですもんね。
薄影の方が影の影ですから主体性からは遠いわけですよね。
じゃあ主体性というのは一体何なんだろうという事になりますね。
その事って脳科学でもね「状況に関係のない自由意志というのは人間にあるんだろうか」というテーマで研究した人々がいたらしいんですけどもいろいろ研究したあげくにそれはないと。
状況に無関係な自由意志というのは人間は持てないんだという結論に達したらしいんですけども。
我々が普通言葉で「主体的」というふうに感じてるものがいわゆる「荘子」の考える主体性ではなくて「任せきれる」という事の強さというんですか。
この主体性そういう事を言ってると思うんですね。
そして「荘子」は実は自分の妻の死といういわば最も悲しい出来事も天命として受け入れました。
友人の恵施が荘周の妻の死を聞いて弔問に行くと荘周はあぐらをかいて盆をたたいて歌っていました。
驚いた恵施が…。
(恵施)荘周夫婦となって連れ添い共に年老いた仲ではないか。
その妻が死んで泣かないというだけならまだしも歌を歌うなんてひどすぎるぞ。
(荘周)いやそうではないんだ。
妻が死んだ時初めは悲しかったよ。
でも命というものの始まりを考えてみればもともとおぼろで捕らえどころのないものだ。
それが変化して命ができまた変化して死へと帰っていく。
いわば四季の巡りと同じじゃないか。
それが命の道理なのだからわしは泣くのはやめたんじゃ。
周さんにも悲しい過去があったんだね。
愛する奥さんを亡くしてだからはるばる日本まで…。
いやそういうわけでもないんやけどな。
私もこの先どんな運命が待ってるか分からないけどでも頑張る。
このままだったら就職浪人に万年フリーターやがては貧困女子になって孤独死するかもしれないけど。
おいおいあのなああんまり未来の事なんか考えたらあかん。
過去も未来も追い求めない。
今の事だけ考えて本当に生きられるのかなぁ。
未来がないっちゅう事を遊ぶんや。
これこの言葉や。
なにも歌わなくていいとは思いますけどね。
歌わなくてもね。
単に変化しただけで悲しいんですけどもそんなに悲しみ続けちゃいけないと。
もう四季の巡りのようにその秋がよかったけど冬が来ちゃったわけですから受け入れて冬なりの暮らしをしなきゃいけないという事ですよね。
なるほどねぇ。
最後に「この言葉や」って言ってましたけど。
私大好きではんこにまで作っちゃったものなんですけども。
先の事を予測せずですね未来の事が分からないという状態で今を遊ぶ。
未来に対する予測がない。
ビジョンがない。
ビジョンというのもこれいい意味で使いますよね。
「ビジョンを持とう」って言いますけどもそういう勝手なものを描かないでもう先の事は分からない。
分からないまま進んでいきますってとても勇気の要る事ですよね。
要りますね。
この「未来を憂う」って言葉いいですね。
やりがちなんですよ。
予測してがっかりする。
そのために予測したんじゃないはずなのに。
それこそ心の病になっちゃう人とかって未来を憂うとこから始まってるような気がする。
まさにさっきのあのVTRの中でも「もうこうなっちゃったら「貧困女子までなって孤独死する」と。
言ってましたね。
彼女の演技プランではちょっと笑いながら冗談で言ってたけどあれ本気で思っちゃう人の方が多いですからね。
「この受験に失敗したら最終的に俺は貧困に落ちて孤独死だ」ってなってそれを憂う事でどんどんエネルギー失っていく人いますもんね。
「荘子」の中では理屈でもなし計画でもなくて何に頼るのかというところで「気」という言葉が出てくるんですよ。
気持ちの「気」ですね。
だからこの場で今通じるものですよね。
それをどう感じるのかっていう直感的なものですよね。
そういうものが今薄れすぎてはいないかという。
例えばこれが終わったあとどうするのかってもう決まってるでしょ。
はい。
何時にどこに行かなきゃなんないから。
そうするとそのNHKを出た途端に「何か嫌な予感がするんでこっちに行くのやめよう」という事はないですよね。
ないないないないない。
その時自分が生命体として何を感じるのか直感で感じるものというのが今生かせなくなっちゃってるんですね。
ほんとにねそれはひどすぎると自分でも思います。
だってね御飯食べに行って案外おいしいのにネットで調べたら星2つだった時においしくなかった事にしそうなんですよ世の中って。
データを見て「あれ?俺うまいと思ったのはおかしかったのかな」と思って。
これってすごいですよね直感どころの話じゃないし。
どんな変化が起こってもそれを運命として受け入れて楽しむという事でしょうね「荘子」の提案は。
もう過去も未来もいい今っていう。
そうですね。
今一生懸命生きてれば。
今に没頭するという事ですよね。
次回はですね「遊」という…遊ぶという遊ですね。
「荘子」の教えの極致について学んでいきたいと思います。
面白そう。
玄侑さんありがとうございました2015/05/20(水) 06:00〜06:25
NHKEテレ1大阪
100分de名著 荘子 第2回「受け身こそ最強の主体性」[解][字]

周囲に振り回されるマイナスなイメージがつきまとう「受け身」。だが「荘子」では「受け身」にこそ最強の主体性が宿ると説く。第二回は「受け身」の極意を解き明かす。

詳細情報
番組内容
周囲に振り回されるマイナスなイメージがつきまとう「受け身」。だが「荘子」では、「鏡のたとえ」「妻の死を飄々(ひょうひょう)と受け止める荘周」といったエピソードで、「受け身」にこそ最強の主体性が宿ると説く。玄侑宗久さんは、こうした境地が「禅の修業」と共通性しているという。第2回は、「荘子」が説く「全てを受け入れたとき人は最も強くなれる」という「受け身」の極意を禅と比較しながら明らかにする。
出演者
【講師】作家、僧侶、芥川賞受賞…玄侑宗久,【出演】古舘寛治,安藤輪子,【司会】伊集院光,武内陶子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格

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音声 : 2/0モード(ステレオ)
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