東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 千葉 > 5月6日の記事一覧 > 記事

ここから本文

【千葉】

小さな拳 千葉の戦後70年(4) 空港のもとで生きる

成田で有機農業に取り組む元少年行動隊の堀越さん=成田市駒井野のさくらの山で

写真

 今年三月末、成田闘争の「歴史」を感じさせる二つの出来事があった。

 三月二十六日、空港北の「さくらの山」に観光物産館「空の駅 さくら館」=成田市駒井野=がオープンした。

 「昔の駒井野は闘争の最前線だったのに、こんなに多くの人が来てくれる場所になるとは思わなかった」。開館前、約二百人の観光客の行列を眺めつつ、同館の管理責任者を務める堀越一仁(58)は、感慨深げに話した。

 一仁は元少年行動隊のメンバー。高校卒業後、父親昭平(86)が始めた有機農業に取り組んだ。空港建設反対派の農家は長期化する闘争に耐えるため、高価な化学肥料を使うことができなかったからだ。苦労して野菜を育てても反対派農家は販売ルートから敬遠され、首都圏の支援者などを通じ独自の販売ルートを開拓せざるを得なかった。

 空港が完成してからも、政府、空港に反対する気持ちは消えなかった。だが一九八九年十二月、江藤隆美運輸相(当時)が反対派(熱田派)の質問状への回答で、「地元への不十分な説明が問題長期化の原因」と謝罪。話し合い解決の機運がうまれると「反対する理由がなくなった」と感じるようになり、一仁は昭平とともに二〇〇〇年、空港敷地内の東峰地区から出ることにした。「もう反対はしないが、農家として生き残る闘いは続いている」

     ◇

 三月三十日正午、一九七八年の空港開港以来続いてきた「入場検問」が事実上廃止となった。

 元少年行動隊で農業を営む萩原明彦(55)=芝山町香山新田=は高校生の時、開港を阻止しようと廃タイヤを運んだことを思い出した。

 全ての空港利用者らの身分証明書を「検問所」でチェックする世界でも特に厳しいとされた警備。「どうして始まったか、今となっては知ってる人も少ないだろうね」

 九一年十二月、政府、新東京国際空港公団、反対派が参加した成田空港問題シンポジウムで、萩原は青年農家として空港への思いを訴えた。

 「この地で百姓として生き続けたいと思う若者の意欲をつぶさない道はないでしょうか」

 思いを直接ぶつけたことで、萩原の気持ちに踏ん切りがついた。二〇〇二年、二つ目の滑走路の利用開始に合わせ、騒音地帯にあり移転を求められていた自宅を離れたのだ。

     ◇

 長野大環境ツーリズム学部(長野県上田市)助教の相川陽一(37)は成田闘争が盛んだったころの芝山町岩山地区に生まれ、少年行動隊だった母親など反対派や支援者に囲まれて育った。「普通の人ばかりだった」。過激派やテロ事件など、ニュースが伝える姿と懸け離れていた。

 大学入学後、「成田闘争とは何だったのか」を検証するため体験者の聞き取り調査に取り組んだ。「巨大な国家プロジェクトに直面した時、反対派も賛成派もいかにして生きのびるかを模索していた」と指摘する。

 故郷の芝山町は空港はできたが、人口は減っている。騒音が原因だと指摘する人も多い。相川は今年から空港が地元に及ぼした影響を調べている。

 「国家による巨大開発の時代は終わっていない。激しい反対運動があった成田の経験を無にしないためにも、住民が何を考え暮らしているのか考えていきたい」 (敬称略、砂上麻子)

  =おわり

 

この記事を印刷する

PR情報