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近年、学会に非難・迫害を浴びせ続けた謗法の徒がいた

 投稿者:ポンコツ爺さん  投稿日:2014年10月24日(金)16時13分14秒
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  やはり詭弁には無理があります  投稿者:ぴちょちゃん  投稿日:2014年10月24日(金)15時41分1秒
冷静に読んでみましょう。

『その例証として摘示した「宗教団体の会長(当時)の女性関係が乱脈をきわめており、同会長と関係のあつた女性二名が同会長によつて国会に送り込まれていること」等の事実は、…』

これが

>偉大な人物である、と認定された誉れ

としか読めないんなんだって。
五老僧というより完全に提婆達多。もう、どうしようもないですね。


ぴちょちゃんさんの、ご指摘通り異常ですのう



この板の異常性  投稿者:ベジタリアン准尉  投稿日:2014年10月24日(金)14時26分17秒

>昨晩は管理人さんが「月刊ペン裁判」を自己弁護のために引き合いに出しました。
何のためらいもなく引用されている最高裁判決を読んで愕然としました。
とても池田先生の弟子とは思えませんでした。

>しかし、何より驚いたのは、信濃町の人びとさんを筆頭に、この板の常連HNの方々が、そのことを諌めるどころか、むしろ擁護したことです。
師匠をデマで貶めた事件の、しかも、あの汚らわしい文面に何の嫌悪も抱かないとは。
それどころか、「こいつは◯◯だ」などと何の根拠もなく断定し、下品だ、ア◯だと、寄ってたかって人格攻撃。まったく呆れ果てました。

>おそらく、こうした話をすると、皆さん、チームワークを発揮して、すごい勢いで、ゴマカシたり、すり替えたり、茶化したりされるのでしょう。
しかし、昨日の一件は、ここの板で語られる「正義」の欺瞞性を、歴然と、冷徹に示しました。
この事実は、いくらレスが流れても、もはや永久に消えません。



ベジタリアンさんのご指摘通り

裏オニチルを諌めようものなら

ご隠居直伝の精神

「一人を! 叩く精神!」で袋叩き

酷いもんじゃのう、こんな奴らに正義など絶対に無い!!



まるで『日顕宗』だな  投稿者:太ちゃん  投稿日:2014年10月24日(金)12時13分24秒
>昨日は恫喝まであってまるで『日顕宗』のようなやりとりでしたね。



この下の発言はあんたじゃがのう??忘れたんかのう


>どんだけ幼稚な事を言ってるのか自分でわかって言ってるのか?

>一切のコメントを『遠慮』しろ。

>同様にジャマするやつもだ。


元祖恫喝男の太さん

あんたが人の恫喝をドウノコウノ言うのも矛盾しとるのう

は、は、は、は   まるで『日顕宗』じゃのう


読解力の無い、河内さんが良い投稿をしてくれたぞ
太さんにピッタリじゃから良く読めばいいぞ


>キミは現場で信心の基本から学びなさい。

>そして、まずキミが本物になりなさい。

>現場で会員さんに接し続ければ、だんだん会員さんの心の声が聞こえてくる。

>会員さんが何を言いたいのかが、わかってくる。

>そうして初めて魂と魂の対話ができるようになってくる。

>自分自身がそういう人間になって、現場の会員さんを守ってあげればいいのです。



地区の現場で闘わん奴が得々と仏法を語る食法餓鬼

現場に出てから出直してくることじゃな

その自説を地区で聞いてもらったらどうじゃ

現場の皆んなが優しくおしえてくれるじゃろ

行っておいで、頭デッカチさん


日蓮大聖人の仏法は、所詮、「行」に尽きる。

日常の「行」なくしては、光明はたちまち消え去るだろう。



一人を大勢で叩くのが常套手段の裏オニチル

正義が聞いて呆れるわい

卑怯なやり方じゃ

先生が見られたら嘆くぞ


信濃町さん、あんたの地区での闘いを具体的に載せてはどうじゃ

信濃町さんはPCのキーボードを叩き続けるのが活動と
勘違いしとらんか?

日蓮大聖人の仏法は、所詮、「行」に尽きる。

日常の「行」なくしては、光明はたちまち消え去るだろう。




東京・神奈川の記念合同本部長研修会での先生のスピーチ
1986・11・29


次元は少々異なるが、謗法を注意する姿勢について、日亨上人は、大要、次のように述べられている。

「みだりに他人を憎んで謗法の罪名をきせることは、それが真実であれ、ウソであれ、かえってその重罪を自身に招いてしまう。恐るべきである」(趣意。富要一巻)と。

近年、学会に非難・迫害を浴びせ続けた謗法の徒がいた。

彼らは正義の道を歩み、弘教に 挺身ていしん してきた私どもをおとしいれるためにあらゆる「策」を 弄ろう して「謗法」の罪名をきせることに躍起となってきた。
これは、皆さま方もよくご存じの通りであると思う。

しかし、どちらが「謗法」であったかは明白である。
私どもは、何ものをも恐れることなく、これからも真実を見極めながら、大聖人の御遺命のままに、正しき信念の大道を堂々と歩み抜いていけばよいのである。

さらに、日亨上人は、次のように述べておられる。

「大聖人も阿仏房の尼御前に”謗法にも浅深軽重の次第があり、そのすべてが取り返しのつかない重罪であるということはない。
仮に軽い浅い謗法を、知らず知らずに行ってしまったとしても、その人が色心相応した強信者であれば、強い信心のために弱い謗法は打ち消されて罪とはならない“と仰せであるが、これには『門外折伏』『門内摂受』という意義もあり、信徒を守り助けてくださる大慈のあらわれなのである。

ましてや我々末輩にあっては、自他ともに注意し合い、励まし合って、寛容さと厳しさのバランスを上手にとりながら、異体同心の姿を示していくべきである」(趣意。同前)

日蓮大聖人の仏法においては、謗法厳禁であることはいうまでもない。

「 うるし漆 千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」との厳しき仰せを心すべきである。
それでは成仏は思いもよらなくなってしまうからである。

したがって、自らの謗法の心を戒めるとともに、人々を不幸にする誤った教え、法義を慈悲の上から破折するのは当然である。

その上で私どもは、全員が日蓮大聖人の仏法を信奉する同志である。

どこまでも「異体同心」の信心でなければならない。

互いに 切磋琢磨せっさたくま し、家族のように励まし合い、包容しつつ、より信心を深め合っていくことが肝要なのである。

信心の目的は一生成仏であり、幸福境涯を確立することである。

そのための指導であることを決して忘れてはならない。

かりにも重圧感を加え、苦しめ、かえって信心の心を閉ざすような指導だとすれば、それは誤りである。

また、だれびともそのような権利はない。
本来、指導は、悩める人々をして身も心も軽く、希望と勇気をわきたたせるためである。

いかに御本尊へと向かわしめていくかが大事であるかをよくよく心に刻んでいただきたい。




 
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