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ボケ爺さんは見ての通り、『ネット対策』の輩です。
掲示板では過去にこいつが『弓だろ?』という指摘にまともな返答が無かったから確認をしたらいい。
ずいぶんと地に堕ちて『乞食同然』が今の弓の姿だ。
先生にダレだったか不正の追求を命じられ、逆にしてやられて今は『反逆者のシモベ』としてすっかり飼いならされたようだな?
そして今はこうして『冬眠者』をネットで虐めるのが『現在のオシゴト』らしい(乞食と変わらんではないか笑)。
いったい何が『現場』だ?
それならなぜ弓はいち会員としてボケ爺さんの言う通りになっておらん?
まさかこんな『日』が来るとは思わなかったね。
『事実は小説より奇なり』だな。
『改変』は認めない意味で引用しておく。
利己目的に『先生利用』しての『正当化』など吐き気がするというものだ。
こいつの言ってるのは『創価学会』ではなく腐敗幹部への私物利用が『正しい』と言ってるだけの『詭弁』であるよ。
『アホ』かまったく。
現実の自分の足元から広布は進むのだ 投稿者:ポンコツ爺さん 投稿日:2014年10月24日(金)17時42分7秒
先生の指導を読めば、地区の現場でコツコツ地道に闘うことの
大切さが、しみじみ判るというものじゃ
創価学会の庭で闘う事こそ王道じゃよ
先生の指導の前では 太さんの邪義はクソの役にも立たんのう
まあ、せいぜい創価学会誹謗を毎日繰り返すがよいわい
第11回本部幹部会より 1988.11.30
”地道””真剣”の人に栄冠
戸田先生が第二代会長に就任された昭和二十六年五月――。
当時二十三歳の私は、蒲田支部の大森地区委員の任命を受けた。
現在でいえば地区部長の立場にあたる。
私も、本日参加の皆さま方と同じように、地区、支部の第一線の役職を務めてきた。
戸田先生は、将来のために私を決して甘やかさず、すぐには高い役職に任命されなかった。
同僚の役職がどんどん上がっても、私はいつも地味な部署で戦っていた。
当時、戸田先生の事業は危機に陥っており、大変な額の負債もあった。
私はその先生の事業を支えに支えながら、一方で懸命に時間を生み出して弘法に走った。
当時、私は日記に次のように記している。
「先生、必ず吾が地区も前進させます」
「吾が大森地区が心配でならぬ。地区が完璧になるよう、御本尊に祈る」
「吾が地区も頑張らねばならぬ。
……自分が頑張ることだ。自分が責任を持つことだ」と。
私には”戸田先生の構想をなんとしても実現したい“との一念しかなかった。
たとえどんなに小さな組織であっても、自分の担当した地域に全魂を注ぎ、広布の城を完璧に構築していくことだ。
千里の道も一歩からである。
現実の自分の足元から広布は進むのだ――こう決意して私は戦った。
「地道」であっても、強い「責任感」をもって「必死」の取り組みができる人は、どこへいっても勝利の道を開くことができる。
反対にそれができない人は、何をやっても中途半端になる。
私は広布のために、どんなに地味で小さなことでも全力でやりきり、勝ち抜いてきたつもりである。
「信心」の精髄、また「師弟」の強い絆といっても、こうした地道な努力と戦いなくして絶対にありえないからである。
この精神は、その後の文京支部、男子第一部隊の時代においても、また関西や山口の法戦においても、まったく同じであった。
どこにあっても私は命懸けで戦いきった。
その歩みにいささかの悔いもない。
どこまでも広宣流布のために、戸田先生と「師弟一体」の戦いであった。
”ここで勝てば、戸田先生に安心していただけるだろう
“”ここに手を打っておけば、学会員が守られるだろう“――。
私はつねにそのことを考えながら、今日まで広布前進の先頭に立って勝利の指揮をとってきた。
これからも全く変わらぬ覚悟で、皆さまとともに進んでいく所存である。
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