STAP論文騒動の時のように
不自然な疑惑を表面化させることが
狙いです。
象徴が使えない発達障害が増えているとか
被災地のこころのケアは足りているとか
大いに議論されるべきですね。
文科省は
他大学にも広がることを期待しているそうで
大変楽しみです
月別アーカイブ: 2015年5月
『できる男は超少食』PTSDを癒して自己実現の普遍的方法
断食にはいろんな方法がありますが
少食もその1つで
社会的に成功している人には
一日一食の人が多いそうです。
ショックで食べられなくなるなんてのも
自己治癒力の働きなんですが
病院では
寄ってたかって
「食べろ!食べろ!」攻撃されるから
どうしようもないです。
お金もかからない
一番安全な方法なんですが
洗脳された現代人には
信じがたい内容のようです。
ビリー・ミリガンの多重人格が収まったのも
長期絶食だったわけで
PTSDには万能なんですが
『Dr.倫太郎』も知らないかも
PTSD理論否定の『嫌われる勇気』
フロイトの精神分析も
PTSD理論も
トラウマを前提とした理論ですが
この本は
「トラウマは存在しない」
「そんなの
何の因果もない人生の嘘だ」という立場で
人気があるそうです。
何でもトラウマのせいにして
努力を放棄し
開き直って
特権階級のようにふるまったりするのは
(援助され特別扱いされて当然だとばかりに)
困りますが
トラウマもないのに
人の顔色ばかり気にするようにはならないと思うので
嫌われる勇気がないのは
トラウマを放置しているからだと思います。
「解離」についても
「人は過去の原因
(たとえばトラウマなど)によって
突き動かされるのではなく
いまの目的によって動いている。
一例を挙げるなら
『ついカッとして怒鳴った』のではなく
『怒鳴り声をあげるために
怒りの感情をつくり出した』と考える。
怒りの目的は大声で相手を威嚇して
屈服させることなのだと」とのことですが
その無意識的防衛機制を多用し
PTSDの病理として定着させてしまった人が
問題をこじらせて
こういう本を手に取っているのだから
(あるいは何でもトラウマのせいにする
知り合いを説得したい援助者か)
やはりあるものはあると認めた上で
対応するしかないように思います。
アドラーも
虚弱体質や幼い頃の兄弟の死や
苦手な算数を克服した経験等から
フロイトに学んだ上で
独自の劣等感克服理論を
見出したと思うんですけどね。
精神科医で臨床心理士でも『Dr.倫太郎』の解離性同一性障害(PTSD)が観えない。
発達障害のある男性らの裸盗撮の施設職員も解離性同一性障害(PTSD)
さいたま市南区の
障害者就労支援施設
「キャップの貯金箱」で
今年1月
施設に勤務する
30代の男性職員が
知的障害がある男性利用者が
トイレに入っている姿を撮影
LINEで同僚4人に
送信したり
画像の一部を加工して
職場の共用パソコンに保存し
誰でも自由に見られる状態にしたりしました。
発達障害論自体がデタラメですから
現場も混乱します。
児童虐待はなかったか等
解離性同一性障害から
見直しましょう。
劇薬増量で支援学級送りとPTSD否認心療内科を真似た名古屋女子大生
高校在学中に
同学年の男女2人に
劇物の硫酸タリウムを飲ませたわけですが
「飲ませて観察したかった」と供述
一回目の女性は
手足の痛みや脱毛にとどまり
二回目の男性は
タリウム中毒で
特別支援学校に転校しています。
大学生になってからは
77歳女性に対する殺人ですから
精神科医療を
象徴的に真似てますね。
象徴が使えない
発達障害が流行しているなどという
愚説を
ユング派が垂れ流すものではありません。
タリウムの名古屋大生も佐世保高1殺人事件も解離性同一性障害(PTSD)by『Dr.倫太郎』
同級生ら2人に
劇薬タリウムを飲ませた
殺人未遂容疑で再逮捕された
名古屋大の女子学生(19)の父親は
事件直前
女子学生を連れて警察署を訪問
複数の薬びんを持参し
親のカードで勝手に薬を買っていることや
非行についての相談をしていたそうです。
なぜそういうことをするのか傾聴されず
(スクールカウンセラーは相手にされず?)
注意だけで済まされ
殺人事件に発展したわけですが
佐世保の事件では
心療内科を受診させていましたが
(こころは診ない心療内科)
やはり殺人事件となりました。
解離性同一性障害(PTSD)は
倫太郎のように
対応されるべきなのです。
『アルジャーノンに花束を』も『Dr.倫太郎』解離性同一性障害(PTSD)がテーマ
主人公は
望み通り
手術で
知能が高くなりましたが
情緒面が子どものままなので
人を怒らせたり
悲しませたりすることが続出し
温かく支えていた仲間もお手上げで
「お前は誰なんだ!」と
やるせなさをぶつけます。
究極の状態で
自己のアイデンティティをつかむのは
禅の公案から
(如人千尺懸崖上樹
木の下から「お前は誰か」と訊かれる)
『崖の上のポニョ』まで
普遍的なテーマです。
『Dr.倫太郎』でも
解離性同一性障害がテーマになっていますね。
この象徴性が観えない専門家には
発達障害の物語に見えるようなので
そこで箱庭を置いても
無駄ですね。
PTSDが未治療のままで
知識だけつめこむようにもなるので
(真の理解はできず
野狐禅になり)
転落してゆきます。
(停滞はない)
『アルジャーノンに花束を』主人公の母親の鬱もPTSD反応
主人公が
自分を捨てた母親に会いに行くと
母親は
恐怖心から攻撃的に防衛し
(部屋の隅に追い詰められたネズミのよう)
ふさぎ込みました。
もう長らく
鬱気味で伏せっていたようです。
加害者側は
解離性同一性障害を起こして
判断能力を失って
虐待するわけですが
その行為により
のちに
罪悪感が生まれ
PTSDは悪化してゆくわけです。
主人公は拒絶されましたが
仲間に傾聴されながら
母親との関係を
客観的に見直してゆきます。
PTSDのワークになっていますね。
『アルジャーノンに花束を』も発達障害ではなくPTSD
主人公は
母親に捨てられたので
(PTSDから重症発達障害を起こしている。
真正の発達障害ではない)
雇い主からは
「忘れなさい」と言われてきましたが
(PTSD治療でよくある間違いです)
母親に会いにゆきます。
しかし
本当に好きな女性に対しては
裏切られたと感じながら
「大したことはない」と
何度もこころの中で
繰り返し
「理性で
こころにフタをする」努力をしています。
(これもよくある間違い)
なかなか
一筋縄ではゆきませんが
ありのままを認めながら
(2つ目も間違いを意識し言語化し始めている)
回復しようとする
自己治癒力が作動し始めたようです。
どこから見ても
発達障害ではありません。
こういう誤診が多いので
今風に
脚本が書き換えられたのでしょう。