さて、これまで有田焼と日本の歴史についてまとめると、次のような流れになる。
中国・朝鮮半島から技術導入→佐賀藩で有田焼が誕生→ヨーロッパで飛ぶように売れ佐賀藩の財政を潤す→幕末に佐賀藩が真っ先に反射炉を導入し蒸気船やアームストロング砲を開発し明治維新のもう1つの立役者となる→明治維新後の日本の急激な発展の礎を築いた。
しかし、実はこれとは全く別の流れが存在した。それは次のようなもので、これまた極めて興味深い。
ヨーロッパに伝わった有田焼は宝石のように扱われ憧れの対象だった→有田焼のコピーを何としても作りたいとドイツのマイセンの人たちが考えた→有田焼に遅れること約100年でマイセン陶器を生み出すことに成功→マイセンで陶器産業が発展→ドイツで窯業から化学、近代工業が発展する礎となる。
つまり、ドイツが工業国家として発展する基礎は有田焼が作ったとも言えなくもないのである。これについては、東京大学の伊東乾・准教授がすでに書いている(「ドイツの近代工業は日本のレプリカから始まった」)ので、まだお読みでない方はご一読をお勧めしたい。
お互いを刺激し合った日本と欧州
多くの日本人は、日本が西洋から近代工業を取り入れて今の発展を手にしたと思っているが、300年前にはドイツが日本の技術を必死で取り入れていた――。冒頭に触れた軸受の話も含め、私たちは日本という国のポテンシャルにもっと自信を持っていいのかもしれない。
伊東先生のこの記事には、日本からヨーロッパへ、ヨーロッパから日本へ文化が交流することで科学技術が大きく発展していった歴史の中で、なぜか中国や朝鮮半島が取り残されてしまった理由にも考察が加えられている。ここでは次の2文を引用するだけにとどめたい。
「中国のお家芸は強力なイノベーションの展開よりも、商機を読んで廉価な製品を売り尽くし、あとに残るものが少ないといった形であるような気が私にはするのである」
「発想とビジネスにおいて優れる中国は、同時に腰を落ち着けて本質的に強力な技術革新を成し遂げることに、必ずしも長けていない」