磁器は陶石を粉にした土が原料で、ケイ素を多く含むため表面がガラス化して独特の風味を出す。粘土を原料にする陶器に比べて薄く透光性があり、複雑な絵柄も描きやすいという特徴がある。
佐賀藩はこの磁器を藩の名産品として育成し始める。各工程を専業化して技術者の専門性を高める一方、磁器を焼く登り窯と呼ばれる窯は、藩が指示していくかの窯元が共同して使うようにした。
「1つの窯に1つの山が必要」と言われたほどの薪が必要だったため、効率的に窯を使う必要があったのだ。産業を育てるうえで、こういう差配は効果的だった。
似たようなことと言うか、磁器よりも先輩に当たるが、日本の製鉄業がそれを伝えた朝鮮半島よりも盛んになったのに似ている。
朝鮮半島では鉄を生産するために山を禿山だらけにしてしまい生産力が著しく低下してしまったのに対し、日本の中国地方に伝わった製鉄産業は、日本の湿潤な気候の恩恵はもちろんだが、山から木を切っては植えるという植林とセットにしたことで大きく発展した。
中国の鎖国政策で有田焼が国際ブランドに
有田焼も山を効率的に使うことで生産量を大きく拡大できたのである。そして中国から朝鮮半島を経由して伝わった有田の磁器生産は、中国と李氏朝鮮の政治に大きく助けられることになる。海禁と呼ばれる鎖国政策である。
磁器は中国の景徳鎮が産地としては有名で、ヨーロッパの人に特に人気だった。ところが、中国の明と清、そして李氏朝鮮は日本の徳川幕府以上の徹底した鎖国政策を敷いたため、ヨーロッパの人たちが中国製の磁器を手に入れられなくなってしまった。
そこに代わって入ったのが有田焼だった。前回登場していただいた佐賀県庁の農林水産商工本部・有田焼創業400年事業推進グループ推進監を務められている石井正宏さんは言う。
「有田焼の発展は中国の鎖国政策がもたらした影響が非常に大きかったと言えます。佐賀藩の密貿易という形でヨーロッパに有田焼が伝わり、その品質の高さと造形・絵柄のユニークさが高い評価を受けました」