松浦氏はその後、肥前の北部と壱岐を領する戦国大名となり、豊臣秀吉の朝鮮出兵では、領内の名護屋(現在の佐賀県唐津市と東松浦郡玄海町に当たる)に出兵の拠点となる名護屋城が築かれた。
日本と韓国(朝鮮)の不幸な歴史はこの秀吉の朝鮮出兵を起点にしていると思われるが、この時にはまだ秀吉の頭の片隅には松浦氏などを通じて聞かされていたに違いない「歴史認識」もあったのではないだろうか。
しかし、明治維新後は急速に近代化を遂げた日本が東アジアにおいては圧倒的な力をもって朝鮮半島と中国へ進出した時は、もはや昔の「歴史認識」などとは全く無関係な侵略だったと言える。
元寇は、現代で言うハイパーインフレに悩まされたモンゴルが、その解消を狙って黄金の国・日本で産出される金・銀をその手に収めようとしたために起きた。一方の日本はロシアが南下して中国北東部や朝鮮半島を植民地とし、軍事基地化するのを防ぐためだったという大義名分がある。
秀吉の出兵がもたらした副産物
しかし、朝鮮半島や中国の人々にとってはそのような"理由"は侵略を正当化するものには決して映らない。
元軍によって領土・領民を凌辱された松浦氏たちの思いはいかばかりだったのか・・・。「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録に対して韓国と中国の反発を見るに、歴史の持つ意味を改めて考えさせられた。
さて、日本と韓国の不幸な歴史を作る1つのきっかけとなった秀吉の朝鮮出兵だが、朝鮮半島にはキムチの素となる唐辛子を伝え、佐賀藩には日本にはそれまで存在しなかった磁器をもたらすという「効用」もあった。
秀吉の朝鮮出兵によって多くの技術者が日本に連れてこられた。その中に佐賀藩士によって拉致された李参平という陶工がいた。彼が有田の地で泉山という陶石の出る山を発見したことが、有田焼の始まりと言われている。今から400年前のことである。