中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに

東名に相手を取られた第三京浜

 そもそも第三京浜は、なぜある意味中途半端な玉川ICが終点なのでしょう。

 建設当時の記録から読み取れることは、当初から玉川ICは暫定的な終点で、「そのへんにしておけば、あとあと都合がよかろう」という意図だった、ということです。具体的には、「いずれ首都高3号渋谷線との接続に好適」ということでした。

 首都高3号線は結局、東名高速と接続されていますが、この第三京浜が計画された段階では、東名の計画はまだはっきりしていませんでした。

 というのも、戦後の都市間高速道路の計画において、まず構想されたのは東名ではなく中央道だったからです。計画された当初の中央道は、現在建設中のリニア中央新幹線とほぼ同じ南アルプス縦貫ルートが想定され、東京~名古屋間を最短距離で結ぼうと考えられました。そしてこれが実現した場合、東名は建設されないはずでした。

 1950年代、まだ日本の道路は恐ろしいほど貧しく、長距離輸送は旅客・運輸ともに鉄道が主役。東京~名古屋間をクルマで移動するなど夢物語でした。当時の自動車交通にとって、それよりはるかに重要なのは近距離移動。たとえば東京~横浜間でした。第三京浜はそこを強化するため東名より先に計画され、完成は東名より4年早い1965(昭和40)年です。よって第三京浜が3号渋谷線との接続を想定していたとしても、不思議はありません。

 一方、2号目黒線も京浜間の輸送力増強を目的にしていますが、横浜方面へ向かう中原街道、第二京浜(国道1号線)と品川区内の戸越、荏原で接続するに留まっており、中途半端に見えます。そこから延伸する計画も、おぼろげなものでした。

 ただ3号渋谷線が東名に「取られて」からは、第三京浜との接続路線に2号目黒線が浮上。基本計画に組み入れられました。しかし1960年代にお蔵入り状態になり、現在へ至っています。中原街道も第二京浜も、新たにそこへ3号線のような高架構造の4車線道路を建設するには幅員が少し足りなかったのが最大の理由で、中原街道と第二京浜で上下線を分担して敷設する案まで出たようですが、具体化しませんでした。

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コメント

2件のコメント

  1. A86ですが、当初から今の姿で計画されていた訳ではなく、元々は通常規格のトンネル計画だったものが、1本掘削完了した時点で環境保護団体の反対にあって反対周り行きトンネルの掘削ができなくなり、苦肉の策として現在の姿になったと聞いています。一度通ったことがありますが、天井の圧迫感が半端無く、精神衛生上非常に良くない構造だと思います(怖いです)。フランスは既にすごいことやっているぞーっていう訳では決して無く、ただの失敗政策ではないかと思いますので、単に合理的だからといって賛同するのは危険だと思いました。

  2. 日本の交通規制は交通管理者:警察がすべてを握っており、道路管理者:首都高やネクスコ、自治体の主張を平気でねじ曲げます(道交法95-2に基づきますが、権力は強い)。ここら辺の関係を整理しないと、乗用車専用道の導入は厳しいでしょう。