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イギリス=ビルマ戦争/ビルマ戦争

19世紀、三次にわたるイギリスのビルマ侵略戦争。イギリスがビルマを植民地化し、インド帝国に編入した。

単にビルマ戦争ともいうが、それはあくまでイギリス側の言い方である。ビルマ(現ミャンマー)のコンバウン朝とイギリスの3次にわたる戦争で、敗れたビルマがイギリス領インドに併合された。
・第1次は1824~26年、ビルマのアッサム占領、ベンガル侵入に対し、イギリスのインド総督アマーストが宣戦布告。ビルマが敗れてアッサムなどの権利を放棄した。
・第2次は1852年、イギリスがビルマを挑発して開戦、南部のペグーを併合した。
・第3次は1885~86年、ビルマがフランスと結ぼうとしたのをイギリスが阻止しようと開戦。ビルマは敗北し、コンバウン朝(アラウンパヤー朝)は滅亡し、インド帝国の一州としてイギリス植民地に併合された。

イギリスのビルマ併合

 イギリスはフランスがビルマに進出しようとしていることに危機感をいだき、先手を打ってビルマを併合することを策した。1885年11月、イギリスは最後通牒を送ってイギリス=インド帝国の従属国となることを要求した。ビルマ王国がそれを拒否すると、ブレンダーガストの率いる1万人のインド兵をビルマ領内に侵入させ、11月28日にはビルマの首都マンダレーを占領し、翌1886年1月1日をもってビルマをイギリス=インド帝国に併合した。
 イギリスのビルマ併合は東南アジアにおけるイギリスとフランスの対立を激化させ、イギリスのビルマとフランスのインドシナの中間にあるタイ(シャム)を巡って抗争を続けた。両国は当時、アフリカでも帝国主義的な対立をするどくしており、1898年にはファショダ事件がおこっている。しかしその後、ドイツの進出が著しくなり、それに対抗するためにイギリスとフランスは急接近し、1904年に英仏協商が成立した。このとき、東南アジアにおいても両国は協定を結び、タイのチャオプラヤ川を境として両国が勢力圏として分割することで妥協した。
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ノートの参照
第13章2節 ウ.東南アジアの植民地化