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加瀬邦彦さん ポール・マッカートニー来日の日に自殺〈週刊朝日〉

dot. 4月29日(水)11時37分配信

「想い出の渚」で知られるザ・ワイルドワンズのリーダーで音楽家の加瀬邦彦さんが4月20日に死去した。享年74。事務所は自死と発表。昨年3月に下咽頭がんを手術、復帰を目指してリハビリをしていたが思わぬ別れとなった。加瀬さんは、どんな人だったのか。

「オシャレな先輩でした」

 と話すのは、慶応大学の後輩で昭和文化に詳しいコラムニストの泉麻人さんだ。

「僕が小学校高学年だった1960年代後半にワイルドワンズがデビューして、エレキを中心としたグループサウンズ(GS)が大人気でした。ザ・タイガースやザ・テンプターズが不良っぽいのに対し、加瀬さんは品(ひん)を追求されました」

 60年代はビートルズの世界的ブームで、加瀬さんも影響を受けた一人。音楽シーンがポップ、フォーク、ロックと分かれる中で、加瀬さんはGSのイメージを、「より明快にして世に浸透させた」(泉さん)。

 加瀬さんの洒脱(しゃだつ)さは壮年になっても変わらず、2008年にあった慶応義塾創立150周年のイベントでは“慶応カラー”の青と赤のブレザーを粋に着こなしていた。泉さんがブランド名を聞くと、「これコム・デ・ギャルソンなんだ」と、にっこり答えたという。

 とにかく穏やかな人だった、と話すのは音楽評論家の湯川れい子さんだ。

「加瀬さんとは50年来、お仕事でも数々の接点がありましたが、怒った顔を見たことがない。人との間にヒエラルキーをつくらず、そこが魅力的でした」

 グループ内にもその公平性を持ち込んだという。

「日本の60年代初頭のバンドやグループは、マスターがいてメンバーが従う形でしたが、加瀬さんはワイルドワンズを作る際に“縦社会”を一掃されたんですね。ビートルズやローリング・ストーンズがそうだったように、バンド=仲間という横並びにして、とても新鮮でさわやかでした」

 12弦ギターを取り込み、音の広がりも探った。人の魅力を引き出すのも巧みで、その手腕は沢田研二の歌の作曲やプロデュースに生かされた。沢田の「危険なふたり」「TOKIO」など一連のヒット曲は加瀬さんの手によるものだ。

「私は加瀬さんがプロデュースした『アマポーラ』という沢田さんの歌の日本語詞を担当したんですが、加瀬さんは、こんな優雅な雰囲気だといいんじゃない? なんて、年下の、でもスターの沢田さんをたてておられましたね」(湯川さん)

 こんな逸話もある。

 66年、ビートルズが初来日した際、加瀬さんは当時所属していた寺内タケシとブルージーンズというバンドで前座演奏をすることになっていた。だが厳しいセキュリティーの問題から楽屋に外から鍵をかけられビートルズの演奏を見られないと知り、ビートルズを見るためにバンドを脱退して、客席で演奏を見たという。

 加瀬さんが死を選んだのは、くしくも元ビートルズのポール・マッカートニーが来日した日。湯川さんはポールの公演を聴きに行き、こう感じたという。

「加瀬さんは会場のどこかで聴いていた気がするんです。がんで体が思うように動かず、無念だったはず。だから自由な魂になって、ポールの歌を聴きたいと思われたのではないでしょうか……」

「想い出の渚」には、<忘れはしないいつまでも>というフレーズがある。3人になったワイルドワンズのメンバーは会見で、「加瀬さんのレガシー(遺産)を引き継ぐ」と宣言した。

※週刊朝日 2015年5月8‐15日号

最終更新:5月11日(月)7時11分

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