21世紀は「個人」の時代だとよく言われます。
ネットの普及で会社に所属しない一個人でも生きていきやすい時代になったのは確かです。
しかし、これを「個性」の時代と履き違えてる人がけっこうな数いるんじゃないかとおもってぼくは怖いです。
個性的であることを社会的に「是」としている風潮が強いですが、ぼくはそう思えません。
個性的であることは、大衆から必ず忌み嫌われます。
大衆からかけ離れてしまうことは人間の生死に関わってくる。
無闇に目立ったり、個性的であろうとすると、かえって生きにくくなってしまうのです。
ぼくは様々な人たちと関わってきておもうのが、仕事は結局「人間関係」ということです。
個性が強くて仕事がしにくい人は、仕事がどれだけできたとしても「できれば一緒に仕事したくない」とおもわれてしまいます。
「人間関係 構築力」は個人の時代においてとてつもなく重要です。
人間関係の構築には個性(エゴ)はむしろ無い方がうまくいきます。
個性よりも大事なのは、仕事相手と会話し最善の結果を求める「対話力」なのです。
ぼくはよく回りから個性が強いという言葉をもらいますが、ぼくは自分の「我」は仕事においてほとんど出しません。
ただ、最善の結果を求めることに対して向き合っていこうと考えてるだけなのです。
むしろ、その上で自分の個性は殺しています。
ぼくは個性を強めて大衆とかけ離れてしまうことを恐れているのです。
しかし、大衆的になりすぎると埋もれてしまうので、大衆の中でも「少数派」でいることを心がけています。
大衆の中でも少数派でいることで自分のポジションを確保しやすいからです。
少数派でいることで、人の目に止まりやすく仕事も回ってくるようになります。
おそらく、この少数派でいることを個性的とよく勘違いされます。
ぼくはブログでよく炎上するようになってしまいました。
自分の借金の記事を暴露したり、読者の怨念コメントに対してアンサー記事をかいたりして。
ブッチャケますけど、これらの記事は、ぼくが個人としてもっと生きやすくなるという戦略があるからかいた記事です。
これらの記事を投稿し、自分の現状や自分という人間を読者にさらけ出すことで「一定数の読者には、ぼくに対する理解が生まれるだろう」と感じたのです。
また、こういった記事をかくと一定数から理解が生まれるのと同時に、多くの人から嫌われます。
ぼくは、嫌われることによって必要な人しかぼくに近づいてこないように仕組んでいるのです。
嫌われることで「ぼくには必要ない人間を初めから排除している」と言ってもいいです。
当たり障りない記事ばかりかいてるとぼくに対してそんなに関心や興味が薄い人まで近づいてくる可能性があります。
そういった人との時間はハッキリ言って時間の無駄だと今までの経験でも学びました。
ぼくがあのような記事をかくのはぼくのことを必要としてくれる人とそうでない人を見極める「リトマス紙」のようなモノです。
ぼくは無闇に目立ちたくありません。無闇に目立ったら確実に必要な人が離れていくからです。
だから、炎上狙いもしません。結果的に炎上になってしまうことはありますがね。
ぼくは自分の最善の道、仕事相手との最善の道を辿ることにずっと集中したいのです。
そこにはぼくの「個性」はほとんど存在しないとおもってます。
人と接する時に個性が強いと確実に人間関係に歪みを生むのでぼくには必要ありません。
それよりも人との対話力を磨くことの方が2億倍大事です。
個人の時代において個性は限りなく削ったらいいモノだなとおもってます。
それよりも「人とのつながり」を大事にするべきです。
そして、大衆の中でも少数派にいて自分のポジション(居場所)を確保しましょう。
そうすれば個人はより生きやすくなります。
ワッショイ!