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Riraさんへ
>日達さんの許可は取っていたと聞いています。許可を取った後で、
>日達さんがやっぱりダメと仰ったと伺っていますが。
日達上人の許可とは、『本部の御本尊を板御本尊にしていただきたい』という池田氏の申し入れを受けたというだけの事
・改めて、御本尊下付願いが正式に学会よりあるものと思われていた。
なぜなら、板御本尊用の御本尊様をしたためる紙と、紙幅の御本尊様用の紙では全く違うから
・通常、信徒が紙幅の御本尊を板に模刻する事は認めていないし、未だかつて無かった事。
・所が、池田氏は赤澤に申しつけて模刻し、自分が入仏式を行ってしまった。
・さらに、他の7体の模刻本尊に至っては全く日達上人へお伺いもせず、独断でやった事であり、日達上人は激怒され、人目にさらさず学会の金庫にでもしまっておけと仰せになり、結局は人目をはばかり夜中に大宣寺へ運ばれ、本山へ納められた。
>紙幅本尊を板曼荼羅にした。その板曼荼羅を本尊として使用する前に本門戒壇の大御本尊の前で、日達法主による開眼供養が必要ですよね?
開眼供養は必要ですが、そもそも従来の本部の本尊を板御本尊にすることを日達上人は允可していないので、学会が再三にわたる模刻本尊の入仏開眼法要の大導師を断固としてお受けにならなかったのだと思います。
しかも、とっとと池田氏の導師で入仏式は終えていましたしね。
そこで学会は、昭和52年11月7日に創価学会創立47周年記念法要を執行することにして、日達上人の御出ましをお願いし、日達上人はやむなく御承諾遊ばされて、記念法要の大導師、また模刻本尊の開眼をなされたのだそうです。
開眼供養とは、必ずしも本門戒壇の大御本尊様の御前にて行わなければ成り立たないという事ではありません。
>A 自分で開眼供養をしておいて、それを後で忘れる日達法主ってことでしょうか?
>B 許可は出したけど、開眼供養する前に勝手に学会が本尊として使用してしまった、という話でしょうか?
どちらも違います。日達上人は板御本尊用に、新たに御本尊様をおしたため下さる許可は出したが、学会が勝手に従来の本部本尊を板御本尊として模刻し、池田氏がとっとと入仏式を執行し、事後報告したというものです。
※【昭和49年4月に完成していた模刻本尊】
御本尊が台座に差し込まれている部分を、通常「ほぞ」とか「あし」と呼びます。
模刻本尊七体のうち、五体の模刻本尊の「ほぞ」に、彫刻した年月日と彫刻師の名前が刻まれていました。
これは、本体の板に彫刻が終わった段階で刻字するもので、そのあとで漆と金箔の工程に回します。
そのうち、「賞本門事戒壇正本堂建立昭和四十九年一月二日」という模刻本尊のほぞに「昭和四十九年四月 朝陽」とハッキリと刻まれています。
池田大作が、最初に「学会本部の御本尊を板御本尊にしたい」と願い出てきたのは、昭和49年の9月です。しかし実は、その5ヶ月以上も前の同年4月には、すでに無許可で模刻本尊の彫刻を終えていたのです。
これは揺るぎない証拠であり、学会がいかに日達上人に罪をかぶせようとしても、真実は明らかなのです。
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