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桜@青い太陽さんへ
>だったら、板本尊ではなく、大聖人御真筆の文字曼荼羅はどうなんです。
身延にも、鎌倉にも、京都にも、千葉にもある。<
学会ではどう教えていました?
「富士大石寺に背くやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがない」(戸田指導・折伏教典340頁)
その通りです。中心は、本門戒壇の大御本尊ですから。
>そもそも、日蓮正宗の血脈は途中で切れている。歴代法主の相伝が途中で断絶している。歴史を遡って調べれば容易に分かる。<
桜@青い太陽さんまでそんなこと言うのですか?
残念です。
じゃあ、学会員が拝んでいる御本尊もことごとく、ただの板や紙なんですね?
>日蓮正宗の本尊に功徳があったのではなく、学会員の信心が純粋だったから功徳があったのです。
当時は、みな、貧乏だった。草創の学会に歓喜や功徳があったのは、御書を研鑽し、学会指導に忠実に生きたからです。だから、功徳も歓喜もあったのです。<
ここが学会諸氏の不遜なところであり、迷える所です。
御本尊様に功徳があり、御加護があったから、学会員にも功徳があり大きく発展したのでしょう。
余事を交えず、純粋に日蓮正宗の本尊を信じ折伏し、実践したからこその功徳では無いのですか?
戸田会長の指導をよく読んで下さい。
戸田会長を【オワコン(終わったコンテンツ)】と言い切る若い学会員もいますが…。
「わたくしたちは、無智な人々をみちびく車屋である。迷っている人があれば車にのせて、大御本尊様の御もとに案内して行くのが、学会唯一の使命である。宝の山にはいって、宝をとるかとらないかは、その人の信心の結果であって、ただ宝の山たる大御本尊様へ案内するのが、われわれ学会の尊い使命なのである。宗教によって名誉を欲するのではない。まして、新興の宗教屋ごとき金もうけを目的とするものではないことなど、いまさら申し上げるまでもない。 」昭和24年10月24日創価学会第四回総会東京教育会館
そもそも、学会という組織に功徳があるのですか?池田氏を拝めば功徳があるのですか?
違いますよね。
日蓮正宗に伝わる御本尊と化儀に功徳があるんですよね?
『大御本尊様への車引き』こそ学会の使命と誇りであったから、功徳も歓喜もあったのです。
「御法主上人猊下をとおして大御本尊を拝しますれば、かならず功徳がでてくる 」『戸田城聖全集』第4巻399頁
「法主を宗祖大聖人としておつかえ申上げる、 どなたが法主様でも一貫不変、 これ信者の大精神。信薄き者には判らん事」昭和31年1月29日付聖教新聞・寸鉄欄
桜@青い太陽さんの口調が『過去形』なのが非常に気になりました。
私の知り合いの学会員さんで、幸せそうな人はあまりいません。問題を先送りというか、法華経の説くごとく火宅が多いです。
一時はよくて功徳と自慢していても、最後には色々問題が起きていますね。
全国的な学会員のリアルな現状では無いでしょうか?
法華講には、学会草創期のころのような激烈なる功徳の体験と、御住職を中心にした唱題の輪があります。
何より、大御本尊様に連なっているという誇りと安心感、修行を積まれた御僧侶の徳の深さには頭が下がります。
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