歴史に対する憧れと深い知識を持ったアイドルの養成所。
それが日本史研究の殿堂高橋歴史女学館である。
高橋歴史女学館へようこそ。
館長の高橋です。
ここは日本初の歴史アイドル養成学校です。
今回学ぶのは…「飛鳥時代」という言葉からどんな事を思い浮かべますか?う〜ん…あっ。
私大阪出身なんですよ。
だから法隆寺に行った事があるんですよ。
その時に木で造られた一番古い建物って聞きました。
へえ〜よく知ってますね。
それでは詳しく見ていこう。
今回の時代は…中国で強大な中央集権国家が成立。
東アジア全域に勢力を伸ばします。
倭国もそれに対抗するため新しく強い国家体制への変革を迫られました。
今回押さえるべき「三つの要」は…東アジア激動の時代日本はどのように変化していったのでしょうか。
飛鳥時代といえばこの人。
これは以前使われていた一万円札ですが見た事ありますか?
(向井地込山)ないです。
初めて見ました。
えっ?知らない?初めて見たの?
(3人)はい。
でもその人聖徳太子は知ってますよ。
憲法十七条を作った人です。
一度に10人の人の話を聞けたんですよね?ホントでしょうかね?10人の人がしゃべってるの全部聞き分けたっていわれてますよね。
それ以外にもこれだけお札があるんですよ。
日本のお札に最も多く登場した人物なんです。
お札といえば聖徳太子。
そんなイメージがあったんですね。
それだけ日本人には大変親しみのある聖徳太子なんですが実はこの肖像画本来の姿を伝えていないといわれています。
呼び名も今では戸王と呼ぶのが主流になっているんです。
戸王?はい。
聖徳太子と全然呼び方が違いますね。
いろいろと謎の多い人物なんですよ。
今回は歴史上の人物として今分かっている範囲で紹介していきましょう。
それでは要その一。
592年倭国では蘇我馬子の後押しにより推古天皇が即位。
甥の戸王が実際の政務を執り行う事になりました。
そのころ東アジアでは隋が中国全土を統一。
大帝国が成立しました。
隋は朝鮮半島北部の高句麗にも攻撃を始めます。
次は自分たちが侵略されるかもしれない。
朝鮮半島倭国の国々は危機感を募らせました。
この難局を外交によって乗り切ろうと戸王は最初の遣隋使を送ります。
倭の五王以来途絶えていた中国との国交を回復しようとしたのです。
しかし文帝は倭国の政治が遅れている事を理由に正式な国交を結ぶ事はありませんでした。
倭国は自分たちの政治のやり方が国際社会で通用しない事を思い知らされたのです。
戸王は国政の改革に乗り出します。
豪族の中から地位や血族に関係なく能力のある者に位を授ける冠位十二階を定めました。
また日本最古の成文法といわれる憲法十七条を定めました。
豪族たちに対して官僚として守るべき心構えを説いています。
有力な豪族たちの専横を戒め天皇の下に仕える官僚とする事で天皇中心の国家体制をつくろうとしたのです。
そして607年再び遣隋使を送りました。
小野妹子ら遣隋使の持参した国書にはこうありました。
「日出づる処の天子書を日没する処の天子に致す」。
この国書は隋の皇帝煬帝の怒りを買ったものの高句麗との戦いを目前にしていた隋は倭国を敵に回す事は得策ではないと判断。
翌年隋の使者が初めて倭国を訪れ対等な国交が始まりました。
これ以来隋からの進んだ文化や政治制度も入ってくるようになったのです。
はい。
戸王は大変な苦労の末に大帝国隋と国交を結ぶ事ができたんだね。
館長そういえば隋の皇帝は2度目の遣隋使が来た時に何で怒ったんですか?いい質問ですね。
先ほどの国書をもう一度読んでみようかな。
土保君。
はい。
はいありがとう。
戸王は倭国の王の事を「日出づる処の天子」とこう言ってます。
天子というのは中国の言葉で皇帝を示していたんですね。
「世界に天子はこの煬帝ただ一人である」と皇帝煬帝は怒ったといわれています。
煬帝と対等な立場から語りかけた文面を「無礼である!」としたんですね。
わざわざ怒られるような事を言わなくてもいいんじゃないですか?確かに。
そりゃそうですよね。
この時戸王は争いが続く東アジアの国々の中でもっとも強大な国である隋と対等であると示す事が外交上必要だと判断したんですね。
さて隋の支配も長くは続きませんでした。
東アジアの動乱は一層激しくなります。
ここで「三つの要」その二。
618年隋が滅び唐が成立しました。
唐は隋で行われた律令に基づく中央集権国家体制をより一層充実させていきます。
唐も高句麗への攻撃を続け朝鮮半島の国々や倭国は戦争に備えた国造りを急がなくてはなりませんでした。
そのころ国内では豪族たちが力を持ちばらばらに人と土地を支配していました。
その頂点に君臨したのが…天皇中心の国家体制をつくろうとする中大兄皇子と中臣鎌足は入鹿殺害を企てます。
645年中大兄皇子自ら蘇我入鹿を殺害。
蘇我氏から政治の実権を奪いました。
翌年新政府は「改新の詔」を発表。
律令に基づく新しい国造りの基本を示しました。
この一連の流れを…畿内の豪族だけを対象にした戸王の改革から更に進んで大化の改新は全ての豪族・人民土地を対象にしていました。
律令国家建設へのスタートを切ったのです。
しかしこのあと倭国にとって最大の危機が訪れました。
660年唐は新羅と組んで高句麗の同盟国百済を滅ぼします。
続いて高句麗を滅ぼしました。
百済と同盟関係にあった倭国は百済復興を助けるため朝鮮半島に兵を送りました。
白村江の戦いです。
倭国を迎え撃つのは当時最先端の軍艦を擁する唐新羅の大艦隊でした。
圧倒的な力の差に倭国軍は大敗を喫します。
唐新羅が倭国を攻めてくる。
この危機感が現実のものとなりつつあったのです。
これに備え西日本の各地に要塞を築きました。
その一つ水城の跡です。
高さ10m幅80mの盛り土を1.4kmにわたって築きその前に堀を造って水を張りました。
大陸への窓口であり九州支配の拠点である大宰府を守る要塞でした。
古代朝鮮式の山城です。
こうして防衛を固めたのです。
673年天武天皇が即位。
改革を引き継ぎ中央集権の律令国家体制づくりを急ピッチで進めました。
当時百済が滅びた事により多くの百済人が倭国に渡来。
木の板に文字を書いて記録を残す木簡による行政運営など百済の進んだ文化が入ってきました。
「天皇」と書かれた最古の木簡。
天皇の称号がこのころから使われていた事を示すものです。
天武天皇から皇位を引き継いだ皇后の持統天皇は689年飛鳥浄御原令を施行しました。
本格的な法律が完成したのです。
唐新羅の脅威にさらされてそれをばねにして律令国家づくりが進んだという事なのでしょうか。
そのとおりです。
日本も唐新羅に対抗できるだけの国力を持たなくてはならなくなった。
そのためには唐から学んだ…さて律令国家といえば宿題を出してましたね。
律令国家の「律令」とは何の事なのか調べてきましたか?はい!私が発表します。
すばらしい!どうぞ。
(向井地)「律」とは現在の刑法に当たるもので犯罪と刑罰についての規定です。
そして…唐で使われていたものを日本風にアレンジしたといわれています。
向井地君よく調べてくれたね。
それでは日本で出来上がっていった律令国家とはどのようなものだったのか見てみましょう。
「三つの要」その三。
694年飛鳥から藤原京へと都がうつります。
藤原京は国内初の碁盤の目状に区画された都でした。
天皇の住まいを中心に律令国家を運営するための中央政府や官庁をはじめ市場もありました。
大和王権を構成していた畿内の豪族たちは都市に住み天皇に仕える官僚となりました。
この藤原京の時代701年に大宝律令が完成。
律令国家の体裁が整ったのです。
中央集権体制の下全国の人民も統治されます。
大宝2年の戸籍です。
6年ごとに戸籍を作り6歳以上の全ての人に一定の土地口分田を与えました。
大分県中津市沖代平野。
公平に土地を与えるための区画整理条里制の跡が今も残っています。
土地を1辺109mの正方形に区切って1つの単位にし口分田を与えたのです。
口分田は死ぬまで耕作が認められ死ぬと返還されました。
これを…こうして土地と人を天皇が統治する中央集権国家が徐々に確立していきました。
何か国の仕組みが少〜し変わってきましたね。
前回込山君に大和王権も支配の仕組みを整えていった事をまとめてもらいましたね。
その仕組みと律令国家の統治体制はどう違うんでしょうか。
はい。
こちらが前回紹介した大和王権の支配の仕組みの一つ氏姓制度です。
地方の豪族がそれぞれの土地と人民を支配してその豪族を氏上がまとめていました。
この小さいピラミッドですね。
たくさんの小さいピラミッドを更に大王がまとめているという構造でした。
そしてこちらが律令国家です。
大きなピラミッドが一つになっています。
豪族は天皇に仕える官僚となりました。
そして人々を戸籍に登録して公民とし口分田という公地を与えて天皇が直接支配しました。
これを公地公民といいます。
はい込山君2回にわたってありがとうございました。
これまでばらばらだった権力を一つにまとめていった。
そうして唐や新羅に対抗しようとしたんですね。
我が女学館の特別講師であります渡辺先生です。
先生こんにちは。
皆さんこんにちは。
(生徒一同)こんにちは。
実は今回は生徒から質問があるそうなんですがよろしいでしょうか?はい。
どんな事でしょう?はい!中学で習った時は聖徳太子という名前だったのにどうして最近戸王に変わったんですか?一番大きいのは聖徳太子というのが当時の呼び名ではないという事が重要視されるようになってきたからなんですね。
聖徳太子っていう名前は戸王が亡くなってから100年以上もたってから初めてそういう名前で呼ばれるようになるんです。
また聖徳太子の「太子」というのは皇太子の事なんですけれども皇太子の制度が出来上がるのは7世紀の終わりぐらいだといわれています。
そんな事から当時の一般的な呼び名と考えられる戸王という名前で呼ぶようになってきた訳なんです。
そうなるとじゃあ何で聖徳太子という名前が生まれたのかという事になる訳ですけれども恐らく日本で最初に仏教を広めた聖人として奈良時代になってから信仰の対象になるようになってそう呼ばれるようになったのだろうと考えられています。
ふ〜ん。
ああ〜。
という事は先ほどのお札にあった姿も本物じゃないって事ですか?
(渡辺)そういう事になりますね。
ちょっとこれを見て頂けますか。
何か細長い板を持ってるでしょ。
これは笏というもので役人の持ち物なんですけれども役人が笏を持つようになるのは8世紀になってからなんですね。
719年より後だと分かっています。
という事はこの人笏を持ってますから…決して6世紀の末から7世紀の始めにかけて生きた…なるほど!という事は何が事実かっていうのはどうやったら分かるんですかね?このころの時代の事を調べる一番基本的な資料っていうのは「日本書紀」という歴史書なんですけれどもこれは国が編さんしたものですからうそは書かないにしても国の都合のいいように書き直してる部分がありますね。
権力者がどう書かせるかによって変わりますよね。
(渡辺)その当時の知識でもって知らない間に書き直してしまってるという場合もある訳ですね。
ですから何が本当なのかという事を私たちは考えていかなければいけない。
しかもこのころの資料というのは数が少ないですから使える資料は全部かき集めてきて総合的に考えていかなきゃいけない訳で例えば今日VTRで紹介されました…これについては第5回で詳しくお話をする事にします。
(生徒一同)はい。
なるほどねぇ。
え〜。
今日はありがとうございました。
ありがとうございました。
じゃあ一万円札。
我々はこれが欲しくて欲しくて。
私最初の給料これが1枚もらえなかった。
(生徒一同)え〜!だから憧れてましたよ。
聖徳太子に。
律令国家の体裁が整い…2015/05/15(金) 14:00〜14:20
NHKEテレ1大阪
NHK高校講座 日本史「東アジアの動乱と国家建設」[字]
日本の今は、誰が、どのように作り上げたのか? 日本史研究の殿堂、高橋歴史女学館がその謎に迫る。出演:高橋英樹・AKB48(向井地美音、土保瑞希、込山榛香)
詳細情報
番組内容
今回の舞台は「飛鳥時代」。この時代は厩戸王(聖徳太子)による「憲法十七条」の制定や、中大兄皇子の「大化の改新」など、さまざまな改革が行われ、政治体制が大きく変わっていった。この時代を理解するキーワードは「中央集権」である。なぜ日本は中央集権的な国家体制を目指したのか? その謎を解く手がかりは大陸の情勢の変化の中にあった。東アジアの動乱を背景に進んだ日本の古代国家建設の過程を見つめる。
出演者
【講師】奈良文化財研究所史料調査室長…渡辺晃宏,【出演】土保瑞希,向井地美音,込山榛香,【司会】高橋英樹,【語り】杉村理加
ジャンル :
趣味/教育 – 中学生・高校生
趣味/教育 – 大学生・受験
趣味/教育 – 生涯教育・資格
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