こんにちは、トウガラシです。
創価学会が折伏する際の最大の売り言葉は「この信心をすれば功徳がある」で、「この本尊に祈って願いの叶わないことはない」と自信満々に言っていたものです。
そして、創価学会の言う功徳というのは、物心両面に渡る幸福であり、現実の生活に現証として現われなければ真実の功徳とは言えないと主張していたものです。
つまり、経済的に裕福になり、社会的にも信頼されるようになり、悠々と人生を生きていける境涯になることだと言っています。
これが創価学会の説く学会員としての理想像ということになるのですが、創価学会は難行苦行の修行をすることなく、簡単な仏道修行でそのような功徳が得られるのだと力説していたものです。
確かにいいことづくめの話で、だからこそ特に経済的に窮乏していた戦後日本で、そのような功徳に惹きつけられて多くの人々が創価学会に入信していったのでしょう。
しかしそのような理想に対して現実はどうかといえば、創価学会の言うような功徳を得られたという学会員はなかなかいないのではないでしょうか。
少なくとも、私は長い創価学会の生活の中でそのような功徳を得たという学会員にお目にかかったことがないですし、自分でもそういう実感を得たことがないです。
というよりも、一生懸命学会活動に励んでも、創価学会と無関係に生きている人の人生と大して変わらないのが実際のところではないでしょうか。
学会員でもガンで亡くなる人はいますし、交通事故死する人もいます。生活に窮乏していく学会員も多いです。
現証を出せない学会員がほとんどだと言えるでしょう。
それは学会活動に熱心でもそうでなくても違いはありません。
聖教新聞などを見ると、相変わらず華々しくもドラマチックな功徳の体験談が花盛りなんですが、自分も含めて周りを見回してもそんな功徳の体験談とは無縁のような学会員ばかりというのが現実です。
今でも熱心なバリ活の人たちは、功徳を目指して懸命に学会活動に励んでいるんでしょうが、いつまで学会活動に励めば功徳がもらえるのか、考えもしないようです。
そういう疑問さえ起きないようです。
結局、創価学会の言う功徳というのは現世利益のことで、何かいいことがあれば「信心による功徳」で、それは創価学会のおかげだということになっているのです。
私も非活になってから思うようになったんですが、そもそも仏教で言う功徳とは、幸福をもたらすもとになる善行のことで、「功徳善根を積む」というように、もらうものではなく、善行によって積むものなんですね。
もともと仏教の教えというのは現世利益を願うものではなく、「少欲知足」という言葉もあるように、余計な欲望から離れるようにという教えのようです。
功徳の体験談で現世利益の欲望を煽るようなことばかり聖教新聞に書いている創価学会は、仏教の教えから離れているように思いますがね。
結局、学会員はそういう現世利益の夢を見せられては創価学会のためにしかならないような活動に利用されているというところではないでしょうか。