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ジャパンドットコム 発
公明党結党50年・自公協力15年ーその曲折と妥協の歴史から まとめ、加筆ました。
1956年7月 ( 昭和31年 )
第4回 参院選で無所属候補として6名出馬のうち、全国区2名、大阪地区1名の計3名が当選。
1960年5月 ( 昭和35年 )
創価学会の会長に池田先生が就任。
1961年1月
「公明政治連盟」を結成 。掲げた目標は「政界浄化」。
基本政策として ①核兵器反対 ②憲法改正反対 ③公明選挙 ④参議院の自立性確保 特に①、②の理念は強調された。
1962年 7月
第6回 参院選 ここまでで15名の参議員を擁し「参院公明会」( 国会内会派 ) を結成するまでになった。
1964年11月 (昭和39年 )
「公明党」結党 。 東京・両国の日大講堂にて結成式。掲げた目標は①政界浄化②議会制民主主義③大衆福祉の三本柱。挨拶に立った池田会長は「大衆とともに語り、大衆のために戦い、大衆の中に死んでいく」と、大衆政党としての立場を強調する指針を与えた。
1966年 ( 昭和41年 )
日米安保の段階的解消を打ち出し、反自民の路線を鮮明にしていた時期。
1967年1月
第31回 衆院選で25名当選。自民、社会、民社に続いて第4党へ。
1969年12月 ( 昭和44年 )
第32回 衆院選で47人当選 。民社党を抜き第3党へ。
この結果を受け、竹入義勝委員長、矢野絢也書記長の新執行部体制が発足。
政界のキャスティングボード握る存在に。
言論出版問題の発生、竹入委員長と田中角栄自民幹事長との関係が浮き彫りに。
1970年
京都府知事選で田中自民幹事長の要請に応え、自公民統一候補を擁立するが大敗。
結党からわずか6年で 「平和・革新の党」の看板下で 「保守の党」の顔を見せた。
5月には言論出版問題を収めるため、池田会長が日大講堂で記者会見。
謝罪と以後の党との関係を見直し、政教分離を宣言。
1972年 ( 昭和47年 )
「中道革新連合政権」構想。
5月ロンドンにてトインビー・池田対談開始。(「対談集 二十一世紀への対話」)
1973年9月
「安保即時廃棄」論を展開。
5月再びロンドンにてトインビー・池田対談。
1978年 ( 昭和53年 )
第15回党大会以降、野党路線から保守傾向を強め出した。
竹入委員長は自衛隊と日米安保条約を容認、原子力政策推進の立場をとる。
また、自民党の奨める有事法制の研究を容認、それまでの「社公民路線」を転換。
1979年5月 ( 昭和54年 )
創価学会池田会長、辞任。
1981年12月 ( 昭和56年 )
第19回大会でさらに踏み込んで、自衛隊の「条件付き合憲」を容認。
安保体制の存続を主張。
この時期、党の方向性は本来、自らを軸とした「中道連合政権」構想。
1976年に自民党を離党して「新自由クラブ」を立上げたばかりの河野洋平元衆院議員との連携を模索していたと言われている。
★立正安国の闘いの何らかのお役にたてればなによりです。
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