沖縄復帰43年:「基地があるかぎり悲劇が」出身者の思い

毎日新聞 2015年05月15日 02時30分(最終更新 05月15日 11時09分)

伊波修さん=兵庫県尼崎市で、西本勝撮影
伊波修さん=兵庫県尼崎市で、西本勝撮影

 15日に沖縄の本土復帰から43年を迎えるのを前に、安保関連法案の閣議決定で日本の安全保障政策が転換した。米国統治下の沖縄を生きた兵庫県尼崎市の契約社員、伊波修(いなみ・おさむ)さん(67)は基地の返還が進まず、日本と米軍の連携強化に突き進んでいることを心配する。「基地があるかぎり、沖縄は真っ先に戦争に巻き込まれる」

 沖縄本島中部の沖縄県石川市(現うるま市)で生まれ、中学2年までの14年間を沖縄で過ごした。幼い頃から米兵は身近な存在だった。近くに米軍の保養所があり、金網越しに米兵に声をかけると、野球用のボールやバットをもらえた。父は米軍嘉手納基地で兵舎の清掃などをして働いていた。基地では開放イベントがあり、出店や花火を楽しんだ。

 「おかしい」と感じることもあった。当時、米兵による女児殺害や暴行などの事件が相次いだが、沖縄の人々の手では犯人を裁けなかった。小学6年の時には、学校の隣の教室に米軍の戦闘機が突っ込んだ。伊波さんはとっさに机の脇に伏せたが、頭や背中にガラスの破片が降り注ぎ、血まみれになって運動場に逃げた。パイロットは脱出し無事だったが、児童11人と周辺住民6人が死亡した。

 中学2年の時、安定した生活を求め、パスポートを手に一家5人で尼崎に渡った。「自由だった。何もかもが。沖縄では何か抑えつけられているような圧迫感があった」。約10年後の1972年5月には沖縄が本土に復帰した。「基地もなくなる」と思った。

 尼崎で日用品の輸入販売業を営みながら、32歳で結婚。娘を授かると、毎年のように沖縄へ里帰りしたが、故郷の風景は変わらない。基地のゲートを見る度に「あの先は外国やね」と感じた。

 政府が進める米軍普天間飛行場の県内移設と安保法制の整備。どちらも、伊波さんの目には県民や国民の声に耳を傾けようとしない政府の姿勢が映る。

 56年前、学校に戦闘機が落ちた時、戦争が始まって爆弾が落ちたと思ったという。その瞬間を胸に刻んでいる伊波さんは訴える。「軍事力に頼れば、いずれ本当の戦争がやってくる。隣国と対話を重ねて平和を守っていくのが政治家の仕事だ」【遠藤孝康】

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